私たちが知っている幕末の歴史の糸口の大半は、司馬遼太郎の小説やNHK大河ドラマであることは否めません。
戦前は講談士であり政治家であった伊藤痴遊の功績が大きい。
全国にFunがいてファンクラブに相当する痴遊会が存在。
全国ツアーを実施していた。
井上馨は明治になりいろんな事件があったために公爵になることができなかった、
しかしそれでもその功績を讃えてもらいたいために、静岡県沖津の自宅で明治40年に快気祝いの際に台座を含めると10mくらいの銅像を自分で建立し、その席で伊藤に袖付橋の御難を演じさせたらしい。
さて、今日のテーマは久坂玄瑞。
天保11年生まれ(1840~1864)25石の医者の家に生まれる。
三男坊だが次男は早くして亡くなったために次男として育てられた。長男は久坂玄機といい二十歳年上。北浜にある適塾の塾頭の秀才。
嘉永三年の14歳の時に母が亡くなる。
そして安政元年の15歳の時に玄機と父が亡くなる、そして玄瑞は天涯孤独となってしまう。
その後、藩の寮生活の後、三回忌を済ませた安政3年に九州の遊学へ出発。
途中で宮部鼎蔵を訪ねる。宮部はご存じ松蔭先生が東北視察を行った際のパートナー。
宮部は松蔭に会うことを勧めた。ちょうどその頃は松蔭先生は自宅謹慎中。
そんな時に久坂より鼻息の荒い手紙が松蔭先生に届く。
幕府の行った条約締結は間違っている!そんな使者は斬り殺してしまったらよい!とのこと。
その意見に対して松蔭先生は『議論浮法思慮粗浅』と非常に厳しい内容。
今の言葉に直すと、考えは上っ面で考えが浅すぎ。人にはそれぞれの立場がある、まずその立場から考えること。また実践の伴わない言葉は評価しないし、浮ついた考えの人物は嫌いだ!とのこと。
玄瑞は、論ずるに立場は関係ない!と反論。
松蔭先生はさらに
対抗する。和親条約はすでに締結していおるのだから破ってはいけない。北海道を開拓し琉球を植民地としてアジア各国をひとつにまとめて団結させるという説。
※この内容は韓国併合における現代社会にも問題となっており原文と韓国語訳、そして再度日本語に直すとまったくニュアンスが違っている。
玄瑞はさらに反論!そして松蔭先生は『それなら存分にやってみるがよい』と体をかわす。
もちろん久坂にはできるはずがない。
入塾に至った玄瑞は松蔭先生の思った通りで防長年少中第一流と評価しており、高杉と競わせて実力をつけてゆく。
そして安政4年には松蔭先生の末の娘が嫁となり親戚関係となる。
そして安政6年10月27日に松蔭先生は伝馬町で処刑、小塚原に埋められた。
現在の小伝馬町駅十思町公園にあるお堂が相当、南千住駅の小塚原は20万体以上の遺体が埋まっており現在でも遺骨がでてくる。
文久二年1月には龍馬が訪ねてきて10日間びっしりと話し合いその後、龍馬は脱藩!
武市へあてた手紙には『諸侯や公家もあてにしてはだめだ!我々が力をあわせておこなうんだ!』と記載。しかも『尊藩も大義なれば滅んでもかまわない』と書いたあとに『尊藩も(幣藩も)』と書き足している!
長井雅楽の失脚、久光の状況から長州藩の方針を『奉勅攘夷』で一本化。久坂も賛同している。
その後、松蔭先生の改葬に扮装、ついに桜田門外、坂下門や安政の大獄に関わったものを大赦令を出させることに成功、ただし寺田屋事変の9人のみは例外とした。
復権を果たし、世田谷区の若林の藩のと土地に遺骨を移し松蔭神社となる。これにより松蔭先生は神格化!藩のシンボルとなってゆく。
すぐに父、百合之助の復権、松蔭先生の資料を藩へ提出しその後明倫館の教科書となる、また吉田家の断絶を取り消した。
さらに松蔭先生の弟子たちは全員位が上がった!
そんな時に長州藩に事件が起こる。
攘夷の実行で下関で砲撃~七卿落ちへつながってゆく。
元治元年2月 周防上関の義勇隊が、田布施沖に停泊中の薩摩の商船を焼き払い船長の大谷仲之進を殺してしまう事件が起こる。
その月末に大阪南御堂さんの門前に、この大谷の生首と二人の人物の切腹した死体があった。
その二人は山本誠一郎と水井精一。そして斬奸状には『大谷は外国と貿易を行っており綿や油を販売し利潤をあげていた』とかかれている。
その数日後、義勇隊の隊長が上関で切腹を
していたという事件があった。
この事件により長州の株が大いに上がった。薩摩に天誅を喰らわしたのだから長州は庶民を助けたヒーロー扱いとなる。
それにより山本、水井と隊長の高橋は上関三士と呼ばれ靖国神社に合祀されている。
さて、この事件には大いなる裏事情があった。
山本誠一郎の著「帰正弁」によると24歳で全国を視察、国防に興味があったが下関で楼閣にはまってしまい事件をおこしたあげくに2年近く禁固、外国船を攻撃した久坂に共鳴下とのこと。
久坂が目を付けて、山本、水井に大谷の首を大阪へ運ぶように依頼、その後、二人を無理矢理切腹させたらしい。
薩摩商船を襲ったら当然長州と薩摩は一触即発。その回避と地に落ちた評判をあげる奇策であったに違いない。
久坂元瑞は恐るべし頭脳明察で策士であったのでしょう。