フランス風懐石料理中華風: 2010 9/26 堺探索

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2010 9/26 堺探索

堺はほんとうに色々な歴史がつまっている町で、簡単に行けそうでなかなな行けなかった場所に行ってきました。


<天誅組義士上陸遺蹟碑>(写真右)

孝明天皇の攘夷熱にうまく取り入り国事周旋を働いた長州藩。
そのポストを利用し都合よく立ち回ればよかったものの、エスカレートした行動に孝明天皇もさすがに不安になったご様子。そんな中に出た次の勅は「大和行幸の詔」「攘夷親征の群議」。これでは幕府のメンツが丸つぶれ。

大和行幸に先立ち一足早く中山忠光卿(明治天皇の叔父さん)を筆頭とした天誅組は幕府天領の五條を目指した。

一方、孝明天皇が不安を漏らした相手が悪かった。
中川宮朝彦親王が京都守護職会津藩。聞き付けた薩摩藩とが結託し、目に余る長州藩と奸臣久家を御所からの閉めだし作戦をたてて決行された。

そうとは知らない天誅組は、京都方広寺に8/14に集合し川を下り大阪八軒家をへて天保山から堺の旭橋へ。
上陸し堺の栄橋通から西高野街道(310R)を通り、狭山の報恩寺から富田林甲田の水郡善之祐宅。8/17に河内長野の観心寺にお祀りしてある楠公さん参詣をすでに終えて、五條の町で大量殺戮を起こしてしまっている。この五條の町は、幕府の直轄領であり天領、しかも交通の要所であるのに警備が手薄ということで目を付けられてしまい静かな町が一夜にして大変なことになりました。

ところが閉め出し作戦である八月十八日の政変により孤立した天誅組は、天皇が幕府に駆逐せよとの命令を受けた津藩、紀州藩等に鷲家て壊滅させられましまいました。

http://sweet-mikan.blogspot.com/2009/12/20091219.html


<土佐十一烈士記念碑>(写真左)

森鴎外の書いた<堺事件>に詳しく書かれています。

簡単に開設しますと・・・・慶応4年にフランスの領事ら一行は大阪から堺へ入ろうとしたが
堺の警備を担当していた土佐藩に事前通告が無かった為に堺へはいらせるのを阻止。
この同日、この領事らと堺で待ち合わせをしていた士官らはデュプレクス号は堺港にはいり上陸。
通報を受けた警備の土佐藩士らは帰艦を促したが言葉がうまく通じず混乱。
フランス士官らの中に土佐藩の隊旗を倒し、奪おうとした様子が見受けられたために発砲し騒動となった。結果フランス側に数十人の死傷者がでた。
フランス代表のロッシュは日本側へ抗議し犯人の斬首、陳謝や賠償を求めた。


当時の土佐藩藩邸は西区にある土佐稲荷神社。この場所でくじで切腹する20人を決めて翌日、切腹の会場となる堺妙国寺へ移動。定刻の夕暮れに開始・・・以下森鴎外の凄まじい描写を引用します。。

切腹はいよいよ午の刻からと定められた。
***割愛***
切腹の座の背後《うしろ》に控えた。

 幕の外には別に駕籠が二十挺据えてある。これは死骸を載せて宝珠院に運ぶためである。埋葬の前に、死骸は駕籠から大瓶に移されることになっている。
 臨検の席には外国事務総裁|山階宮を始として、外国事務係伊達少将、同東久世少将、細川、浅野両藩の重役等が、南から北へ向いて床几に掛かる。土佐藩の深尾は北から東南に向いてすわる。大目附小南以下目附等は西北から東に向いて並ぶ。フランス公使は銃を持った兵卒二十余人を随えて、正面の西から東に向いてすわる。その他薩摩、長門、因幡、備前等の諸藩からも役人が列席している。

***割愛***

 呼出の役人が「箕浦猪之吉」と読み上げた。寺の内外は水を打ったように鎮った。箕浦は黒羅紗の羽織に小袴を着して、切腹の座に着いた。介錯人馬場は三尺隔てて背後に立った。総裁宮以下の諸官に一礼した箕浦は、世話役の出す白木の四方を引き寄せて、短刀を右手に取った。忽ち雷のような声が響き渡った。
「フランス人共聴け。己は汝等のためには死なぬ。皇国のために死ぬる。日本男子の切腹を好く見て置け」と云ったのである。
 箕浦は衣服をくつろげ、短刀を逆手に取って、左の脇腹へ深く突き立て、三寸切り下げ、右へ引き廻して、又三寸切り上げた。刃が深く入ったので、創口は広く開いた。箕浦は短刀を棄てて、右手を創にさし込んで、大網を掴んで引き出しつつ、フランス人を睨み付けた。
 馬場が刀を抜いて項を一刀切ったが、浅かった。
「馬場君。どうした。静かに遣れ」と、箕浦が叫んだ。
 馬場の二の太刀は頸椎を断って、かっと音がした。
 箕浦は又大声を放って、
「まだ死なんぞ、もっと切れ」と叫んだ。この声は今までより大きく、三丁位響いたのである。
 初から箕浦の挙動を見ていたフランス公使は、次第に驚駭と畏怖とに襲われた。そして座席に安んぜなくなっていたのに、この意外に大きい声を、意外な時に聞いた公使は、とうとう立ち上がって、手足の措所に迷った。
 馬場は三度目にようよう箕浦の首を墜》した。


ご興味あるかたはぜひ一読くださいませ。
<青空文庫>
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2547.html


ちなみに妙国寺には、この堺事件の様々な遺品が残っています。


<標柱石>
北波止の突堤近くからの出土品。港を出入りする舟に対し運行上の注意を促す為に
新地方(港の管理に当る役所)が慶応元年に建立したと考えられます。

<船かかり致すまじく、内へ乗り入れ申すべきものなり>

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