驚きました。
いままで安政の大獄=井伊大老による、過激攘夷思想の言論や思想弾圧だと信じていたし、そう習いました。
だから吉田松陰さんが矢面に立たされ斬首になったんだと。。
ところがどっこい吉田松陰先生は、本来はまったく関係のないましてや斬首になるはずがなかった方なんだと知りました。
14代将軍継承問題から本来の血縁を重視する南紀派(慶福)と一橋派(慶喜)の熾烈な争いから日米修好通商条約の勅旨をもらうために京都に行っていた南紀派堀田 正睦が勅旨をもらうことが出来ず状況を鑑み、朝廷を見方につけるためには一橋派が有利と寝返る。また南紀派の工作で松平慶永京へが送り込んだ橋本左内、島津斉彬が送り込んだ西郷吉之助の動きか南紀派の井伊直弼は察知。長野主膳を九条尚忠にいろんな情報を流すことで一橋派の動きを阻止。
そんな状況の中、井伊直弼が大老に就任。一気にさまざまな問題を片付けはじめる。
将軍問題は慶福とする!また日米修好通商条約は調印完了!まさにヾ(・・;)ォィォィってかんじ。
調印した4日後に13代将軍家定が死去。。そして14代将軍は慶福改め家茂となる。
まだまだ続く大老の弾圧に一橋派のプライドの高い御三家のひとつ、徳川斉昭が猛反撃!孝明天皇に大老の暴挙を叱ってもらおうと接触に、見事に成功!これが戊午の密勅。
その内容はいままで政治には口出ししなかった天皇とはおもえず、「政治はね、幕府だけで独裁にしないで外様等すべての藩を含めて合議制にしなさい!」との内容。この勅旨が水戸藩と幕府に送られてしまいました。
さてのこ勅旨で井伊大老さんが「ははぁぁぁ~m(__)m」ってなるはずがまったくの逆効果!というか逆切れ!
私をコケにしたらこわいぞー!ってこの密勅を得るために動いた関係者を静粛しはじめました。
これが有名な安政の大獄。
吉田松陰先生はなぁんも関係がないww。
この後、静粛も終わり新しい万延元年。幕府は安泰♪とおもいきや密勅が依然水戸藩にもあるのは非常に具合が悪い。それでなくても写しが各藩に送られていてこのままだと威信にかかわると考えた井伊さん。
水戸藩に使いを出しました。「あの勅旨は天皇に返せ!」それでなくても青息吐息の水戸藩。返却の方向で動いていたものの下級武士からの突き上げがおこり、長岡に集結。このままじゃ水戸藩ピンチと考えた上層部が同士討ちにはなるものの鎮圧をはじめたけれど、数人が脱藩し、江戸へ向かいました。
井伊さんを暗殺し、異人館を焼き討ちし京都で薩摩藩の兵3000人と合流し天皇より勅旨をGETし、幕府の転覆を狙おう。こんなストーリだったそうですが、島津忠義は事前に薩摩藩にはNGを警告。そうとは知らず桜田門外の変が勃発。水戸藩士17人、薩摩藩士1人で目的を果たしたということ。ちなみにクビを切られた井伊大老、彦根ではお家が断絶してしまうので家督相続させるために重症をおって生存していることにして、無くなったことが公表されたのはほぼ1ヶ月遅れ。
また幕府転覆を狙って活動した水戸藩藩士 高橋親子は大阪四天王寺まで逃亡しすさまじい切腹をしたとのこと。数年前に散策に行った際「怨霊退散」と書かれたお墓が四天王寺にありましたがそのお墓が高橋親子のお墓だったようです。
歴史は強いものが作っているわけで・・でもホントは生きてきた人の数だけ歴史があり、もちろん自然にも歴史があります。
教育の場でも作られた歴史があるようですね(^_^;)