3ヶ月くらい前から私のお部屋の壁の電気のスイッチが切れなくなりました。
左へパチッと押しても、すぐに右にパチッと戻ってしまう。。。
それならと電気を入れっぱなしにしておいて
照明機器側でこまめに入れたり消したりをしたら良いかとやり過ごしていました。
すぐに修理に来ていただいたら
良いのだけどたしか数年位前にお風呂場の電気スイッチが壊れた時に業者さんに来ていただいて修理をしたら
5000円くらいかかったからどうも二の足を踏んでいました。
そしたら今度は娘の仕事部屋のスイッチもおかしくなりました。
この部屋はスイッチを入れても勝手に切れてしまうようで、テープを貼ってなんとか凌ごうとしていましたが
もう限界!
ネットで検索したらけっこうDIYされているようで、それならと私もチャレンジ!
私の家のスイッチはパナソニックの【スイッチB(方切)】のようなので埋込スイッチBを2個購入してきて
作業開始。
ちゃんとブレーカーを落としたので感電することもなく意外と楽勝!
一番手こずったのは黒と白のケーブルを端子から抜くところでしたが一回り大きなマイナスドライバを
突っ込んだら簡単に抜けました。
フランス風懐石料理中華風・・・寺社仏閣が大好きです。 大阪市内に居ますが九度山と信州上田が心の故郷です♪尊敬する人は真田昌幸さんと幸村さん親子・吉田松陰先生、金子みすゞさん、大石順教尼さん。日本美術なら富岡鉄斎さんに横山大観さんに村上松園さん。そして大好物は甘々なみ・か・ん♪ ・・ようは何でもアリなのです
2014/02/15
2014 2/15 歴史と吉田稔麿
吉田稔麿(としまろ)とは中々凝った名前ですが、これは短い生涯の中でほんの一時した使用されていない名前だそう。
実際は栄太郎という名前がメインで稔麿は亡くなる前年の1年のみ。
天保12年閏1月24日 松本村生まれ。よく間違われるが松陰先生とは親戚でもなんでもなく無関係。
父の吉田清内(せいない)は十三組中間。栄太郎には11歳違いの妹の「房(ふさ)」がいた。
おもな仕事は参勤交代の時の宿の手配や荷物もち。城の門番に江戸藩邸の茶室の手入れなどが下級武士の仕事で、藩の政治にはノータッチ。
清内の父は喜兵衛(きへい)。大坂勤務で十三組中間。
酒楼で火鉢にあたりながら浄瑠璃を語りながら亡くなったらしい。
栄太郎は上昇志向が強くいつかは抜け出してやるという意欲があった。
9歳の時に近所に同年の少年の利助が引っ越してくる。二人で木登りをしたり書物の貸し借りもしていたらしい、利助は伊藤博文。彼は青ひょうたんというあだな。(栄養が悪く青い顔をしており青洟を垂らしていた)。
8歳の時より久保五郎左衛門主催の2代目松下村塾に入り学問を習っていた。
ちなみに初代は玉木文之進。
13歳にときに利助が入門。
栄太郎は10代で3回も江戸へ行っている。
1回目は1853年 13歳の嘉永6年(今の小学校6年くらい)で黒船を目撃。
長州は大森海岸の警備を命ぜられるが栄太郎はだめ。
中国はアヘン戦争で南京条約を締結させられた。
もともと儒教の考え方で、統治は武力ではだめであり徳で治めるのが本当・・・文官が上で武官は下という考え方が強い。。
1854年1月14日にはペリーが再来日。これを横浜の本牧へ見に行っている。(14歳)
その後和親条約締結・松陰密航失敗から長州への帰国など栄太郎は知っていた。
2回目は安政2年9月2日 茶室のした働きとして江戸へ向かい10月3日に到着するはずの前日
10月2日に埼玉県中仙道の蕨宿でM6.9の安政の大地震に遭遇。
このため藩邸はもうむちゃくちゃ!熱心に後片付けをしている姿を毛利定広(若殿様)が見ておりその熱心さが目に留まった。2月19日に帰国した。
その頃ご近所だった松陰先生が野山獄から出獄。自宅で講義をさせていたところ、近所の子供が聞きに着ていたという。
安政3年10月には増野徳民とともに聴講に参加。
安政3年11月25日には栄太郎の入門。増野と共に勉強を行う。
この頃の勉強の方法は1、素読 2、講釈 3、会読(対読)でこれが当時の勉強方法。
残念ながら明治維新後はテストのための勉強でひたすら暗記。。自分のための勉強ではなくなって島しまった。
安政14年1月2日西洋地理書の『坤輿図識』(箕作省吾のヘベストセラー)を読み、独立国や附属国のあることを知る。
諱名(本名)は秀実、字名(あざな;学問名)は無逸。
松陰先生は増野と共に無窮(吉田)、無咎(増野)の名をもらう。
3回目は17歳。安政4年9月5日。
行きたくなかったが家計の事情から働きに行くことになる。
ちょうどこの頃松陰先生から、お前は後継者である旨の手紙をもらう。
江戸では将軍の後継者問題にハリスの貿易問題が勃発。
黒村文左衛門へ宛てた手紙には、アメリカの外圧に言い込められた事や九条公家へ88人が反対運動を起こした事など時代の情報を察知していたが、その立場は朝廷側であったことがポイント。
安政5年 松陰先生を再投獄。
この頃は過激な松陰先生を止めなければならない願う。
藩の命令をやめさせるために役人の家に押しかけた結果8人は謹慎処分となる。
清内からも付き合い禁止を言い渡される。
12月30日には士分の5人は解かれる。翌1月25日には軽卒の3人が解かれる。
松陰は栄太郎に執着があり何度も手紙を送っているが、なかなか辛辣な内容もある。
お前の葬式を行ったぞ。心が死んだ者は惨めだ。。。
万栄元年10月 行方不明に。。全国の八幡様へお参りをする。。。⇒脱藩。
※藩は黙認?
文久元年 江戸 なんと幕府方の家に入る・・妻木田宮500石取りの家来(茨城県鹿島に領地)となり、松里勇と変名を使う。非常に重宝がられた。ついに6月2日には身分を明かして藩に帰る。
文久三年
士雇(1代限りの武士)となり、氏が必要となる。本人は栄太郎で良いのだったが藩にはすでに存在していたために年麿となった。
屠勇取り立ての意見書~部落開放の祖という意見もあり。
7月24日~陽丸丸~幕府の施設を暗殺
奇才は一世を傾け、妙略は千人を弄ぶ
5月22日 京都南座で市川一蔵の芝居を見る。
6月5日 池田屋事変 京都守護に見つかり死亡。
実際は栄太郎という名前がメインで稔麿は亡くなる前年の1年のみ。
天保12年閏1月24日 松本村生まれ。よく間違われるが松陰先生とは親戚でもなんでもなく無関係。
父の吉田清内(せいない)は十三組中間。栄太郎には11歳違いの妹の「房(ふさ)」がいた。
おもな仕事は参勤交代の時の宿の手配や荷物もち。城の門番に江戸藩邸の茶室の手入れなどが下級武士の仕事で、藩の政治にはノータッチ。
清内の父は喜兵衛(きへい)。大坂勤務で十三組中間。
酒楼で火鉢にあたりながら浄瑠璃を語りながら亡くなったらしい。
栄太郎は上昇志向が強くいつかは抜け出してやるという意欲があった。
9歳の時に近所に同年の少年の利助が引っ越してくる。二人で木登りをしたり書物の貸し借りもしていたらしい、利助は伊藤博文。彼は青ひょうたんというあだな。(栄養が悪く青い顔をしており青洟を垂らしていた)。
8歳の時より久保五郎左衛門主催の2代目松下村塾に入り学問を習っていた。
ちなみに初代は玉木文之進。
13歳にときに利助が入門。
栄太郎は10代で3回も江戸へ行っている。
1回目は1853年 13歳の嘉永6年(今の小学校6年くらい)で黒船を目撃。
長州は大森海岸の警備を命ぜられるが栄太郎はだめ。
中国はアヘン戦争で南京条約を締結させられた。
もともと儒教の考え方で、統治は武力ではだめであり徳で治めるのが本当・・・文官が上で武官は下という考え方が強い。。
1854年1月14日にはペリーが再来日。これを横浜の本牧へ見に行っている。(14歳)
その後和親条約締結・松陰密航失敗から長州への帰国など栄太郎は知っていた。
2回目は安政2年9月2日 茶室のした働きとして江戸へ向かい10月3日に到着するはずの前日
10月2日に埼玉県中仙道の蕨宿でM6.9の安政の大地震に遭遇。
このため藩邸はもうむちゃくちゃ!熱心に後片付けをしている姿を毛利定広(若殿様)が見ておりその熱心さが目に留まった。2月19日に帰国した。
その頃ご近所だった松陰先生が野山獄から出獄。自宅で講義をさせていたところ、近所の子供が聞きに着ていたという。
安政3年10月には増野徳民とともに聴講に参加。
安政3年11月25日には栄太郎の入門。増野と共に勉強を行う。
この頃の勉強の方法は1、素読 2、講釈 3、会読(対読)でこれが当時の勉強方法。
残念ながら明治維新後はテストのための勉強でひたすら暗記。。自分のための勉強ではなくなって島しまった。
安政14年1月2日西洋地理書の『坤輿図識』(箕作省吾のヘベストセラー)を読み、独立国や附属国のあることを知る。
諱名(本名)は秀実、字名(あざな;学問名)は無逸。
松陰先生は増野と共に無窮(吉田)、無咎(増野)の名をもらう。
3回目は17歳。安政4年9月5日。
行きたくなかったが家計の事情から働きに行くことになる。
ちょうどこの頃松陰先生から、お前は後継者である旨の手紙をもらう。
江戸では将軍の後継者問題にハリスの貿易問題が勃発。
黒村文左衛門へ宛てた手紙には、アメリカの外圧に言い込められた事や九条公家へ88人が反対運動を起こした事など時代の情報を察知していたが、その立場は朝廷側であったことがポイント。
安政5年 松陰先生を再投獄。
この頃は過激な松陰先生を止めなければならない願う。
藩の命令をやめさせるために役人の家に押しかけた結果8人は謹慎処分となる。
清内からも付き合い禁止を言い渡される。
12月30日には士分の5人は解かれる。翌1月25日には軽卒の3人が解かれる。
松陰は栄太郎に執着があり何度も手紙を送っているが、なかなか辛辣な内容もある。
お前の葬式を行ったぞ。心が死んだ者は惨めだ。。。
万栄元年10月 行方不明に。。全国の八幡様へお参りをする。。。⇒脱藩。
※藩は黙認?
文久元年 江戸 なんと幕府方の家に入る・・妻木田宮500石取りの家来(茨城県鹿島に領地)となり、松里勇と変名を使う。非常に重宝がられた。ついに6月2日には身分を明かして藩に帰る。
文久三年
士雇(1代限りの武士)となり、氏が必要となる。本人は栄太郎で良いのだったが藩にはすでに存在していたために年麿となった。
屠勇取り立ての意見書~部落開放の祖という意見もあり。
7月24日~陽丸丸~幕府の施設を暗殺
奇才は一世を傾け、妙略は千人を弄ぶ
5月22日 京都南座で市川一蔵の芝居を見る。
6月5日 池田屋事変 京都守護に見つかり死亡。
2014/02/11
2014 2/11 大阪城の城内焼亡埋骨墳
慶応四年1月、明治維新によって旧幕府が本拠としていた大阪城が新政府軍に引き渡されるに際し、これをいさぎよしとしない幕臣たちが、城内に火を放ち自害いしたという。
新政府軍の主力だった薩摩・長州両藩の有志たちは彼らの遺骨を埋葬し武士の鑑とたたえて同年7月にこの石碑を建立した。のちのこの碑は「残念塚」・「残念さん」と呼ばれ、どんな願いもかなえてくれる神様として人々の信仰を集めた。
2014/02/09
2014 2/9 第20回アシスト寄席
第20回アシスト寄席に行ってまいりました。
早いもので5年・・第一回目からできるだけ参加させていただいているとってもお得な会です^^
桂小梅 始末の極意
梅団治さんの子息とのことで、そういえば目元や輪郭がそっくりです。
張りのある若々しい声って良い物ですね!
笑福亭仁嬌 花筏
この噺には個人的に思い入れのあるお噺でつい比較をしてしまいます。
クライマックスの土俵のシーンでどれだけ笑いをとることができるかなかなか難しいお噺です。
桂枝女太 紙入れ
日本の話芸で聞いただけで、生で聞くのははじめてでした。
枝女太さんのその女形を演じる時の目元や口調は見事なもので、そのスリリングなやりとりが秀逸でした。
旭堂南左衛門 三村の薪割り
昨日の【三村の薪割り】には感動しました。
あらすじは下記のとおり。早いもので5年・・第一回目からできるだけ参加させていただいているとってもお得な会です^^
桂小梅 始末の極意
梅団治さんの子息とのことで、そういえば目元や輪郭がそっくりです。
張りのある若々しい声って良い物ですね!
笑福亭仁嬌 花筏
この噺には個人的に思い入れのあるお噺でつい比較をしてしまいます。
クライマックスの土俵のシーンでどれだけ笑いをとることができるかなかなか難しいお噺です。
桂枝女太 紙入れ
日本の話芸で聞いただけで、生で聞くのははじめてでした。
枝女太さんのその女形を演じる時の目元や口調は見事なもので、そのスリリングなやりとりが秀逸でした。
旭堂南左衛門 三村の薪割り
昨日の【三村の薪割り】には感動しました。
----------------------------------------------------
吉良の様子を探るために色んな姿へ身を変え江戸へ潜伏する赤穂浪士の面々。
三村次郎左衛門も江戸へ出たがその不器用さからか町人や商人に化けることができない。
なんとか武士でもできる仕事をと考えた仕事が薪割屋。
そこへ江戸で有名な刀砥名人の竹屋喜平次のお店より薪割の依頼がはいり、武士の腕前をもって器用に薪を割って見せる。
その腕前に竹屋喜平次はいたく感動したことがきっかけとなって、色んな大名から刀砥を依頼されても気が向かないと仕事をしない竹屋と腕の達つ侍の三村次郎左衛門の間に人に友情が芽生える。
酒を酌み交わしていたある日、竹屋の床の間に置いてある白木で作った何も書かれていない看板が三村の目に止まり、書道の腕も確かな三村は一息に書き上げ、立派な看板が出来上がりおかげで竹屋の店は大繁盛。
そして後日、三村は自分の刀の砥を依頼すると二つ返事で仕事に取りかかってくれた竹屋。歴々の大名の仕事を後回しにして取りかかってくれたその気持ちが嬉しい。3日後に砥が終わり、刀をお渡ししたいが住まいをしらないことから来店をまつ竹屋の元に数日後に立派な武家が現れる。よく見ると三村。話を聞けばどうも士官が叶って江戸を離れるとの事、砥がおわった刀で試し切りをしてその出来栄えに驚くとともに竹屋は武士としての出世を非常に喜んだ一日となった。
さて翌早朝のこと・・赤穂浪人による仇討があったと聞き、その行列を見に出かけた竹屋が見たものは・・・・。
-----------------------------------------------
何がすごいって竹屋喜平次さんは江戸生まれの店主さん、そして主人公の三村次郎左衛門は関西の武家人。ということでそれぞれはおのずと言葉使いや所作、目配りが違い、南左衛門さんは見事に表現されていました。
この使い分けや描き分けが積み重なって、私の目の前には、雪がまばらに降る早朝に両国橋をわたる四十七士の中に三村次郎左衛門さんと竹屋喜平次さんのその姿がはっきりと描き出されていました。演目が終わると私の目から大粒の涙がポロリ・・・。やっぱ講談ってスゴイです!!
2014/02/06
2014/02/01
2014 2/1 石切神社と参道
久しぶりの石切神社さんにお参りにいってまいりました。
この参道はナイトスクープをはじめ色んな番組でも取り上げられるくらいの特色のある参道です。
今日は心斎橋筋商店街くらいの人手で大賑わい!
途中のおもちゃやさんで発見!超なつかしいポスターです。
はじめてみました!宝塚
音楽学校の生徒募集ポスター!
登録:
投稿 (Atom)