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2011/04/17

2011 4/17 第60回 めふ乃寄席 第60回記念スペシャル

2011 4/17 第60回 めふ乃寄席 第60回記念スペシャル

最近、講談にはまっている私にとっての久しぶりの寄席でした。

笑福亭生寿:狸の鯉

すっごいにこやかな笑顔で小走りで高座へ。
マクラはご実家のコンビニに帰られた際に知った、まぬけなコンビニ強盗のお話でした。
さて、初めて聞いた今回のお話は、助けられた狸が夜に訪ねてくるというお話。翌朝を迎えるとこどもの姿に。なんにでも化けられる事を知ると出産の祝いにと、鯉に化けた狸を手桶に入れてもってゆく。オチは、鯉に化けた狸が逃げ出してしまい庭にある柿の木に上って・・・。


桂阿か枝:指仙人

なんともめずらしいお話。江戸前のお話のようでいくつかパターンがあるようです。今回のお話は下記のとおり。
幇間の繁八がばったりと田中屋を勘当された元若旦那の吉ぼんと出会う。吉ぼんは身を持ち崩してしまいおこもさんの姿になっている。原因は通い詰めた御茶屋の芸妓”お菊”を身請けの寸前に他の旦那に先を越されてしまったことにある。今の世を捨て・・今の世に捨てられ仙人になる為に木曾の山奥に出かけ・・そこで会ったのは・・・なんと・・・。オチは「あんたはいまだに疑い深い」。熊野牛王符の裏に起請文誓紙を取り交わし指を切り判を押すことが男女の仲を誓い合うそんな風習があったのですねー。


林家染左「茶の湯」

元大旦那の隠居と定吉が店子3件の家賃収入で質素に暮らしている、そんなシーンが舞台。
趣味や道楽の無いご隠居さんは「茶の湯」をすることに。
まぁ出来上がったお茶はとんでもないもの。朝昼晩と2人きりで茶の湯をするのも飽きてきてついに
自分の店子3人を茶の湯に招くことに。大工の棟梁・豆腐屋さん・手習いの先生の3人は
恥をかくのを恐れて引越ししようかどうかの思案中。結局隠居より「流儀は?」なんて聞かれたら出て行ってやる!と息巻く。一方隠居のほうは「流儀は?」なんて聞かれたら店立てくわせてやる!と利害が一致しているww
お手製の茶菓子が加わってとんでもないお茶会が開催された。。。。



60回記念特別プログラム 「落語家の余芸 ~鹿芝居そのほか~」
中川桂(芸能史研究者・二松学舎大学専任講師)

講師は林家染左さんの実兄とのこと。
さて、落語家の余芸には個人芸や高座芸と大喜利のような団体芸がある。
何度も寄席にいくとたまに、ユニークな踊り等を目にする事があるがなかなか目先が変わって楽しいものです。
明治10年の資料では
三遊亭円遊(嘉永3年-明治40年)のステテコ踊り(ステテコの圓遊)・橘屋円太郎(弘化2年-明治31年)はラッパの円太郎、初代三遊亭萬橘のヘラヘラ踊り(へらへらへったらへらへらへ♪)(へらへらの萬橘)・立川だんしの踊り(テケレッツのパー)(釜堀りの談志)が珍芸四天王と言われた。

~参照 Wiki~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E8%AB%87%E5%BF%97_(4%E4%BB%A3%E7%9B%AE)


芸風は「郭巨(かくきょ)の釜掘り」というギャグを考案し人気を博す、落語を一席やった後羽織を後ろ前に来て、手拭いを4つにたたんで後ろ捻り鉢巻を、扇子を半開きにして衿元へはさみ、座布団を脇に抱え『そろそろ始まる郭巨の釜掘り、テケレッツのパッ!。』と言い『アジャラカモクレン、キンチャン(客)、テケレッツのパッ!。カマール(集まる)セキテイ(席亭)喜ぶ。テケレッツのパッ!……』などと言い高座を歩き回る。今度は座布団をそばに置き、扇子を鍬に見立てて土を掘る仕草をし『この子あっては孝行はできない、テケレッツのパッ!。天から金釜郭巨にあたえるテケレッツのパッ!。皆さん孝行しなさいよテケレッツのパッ!。……』と言うこれらを単純に繰り返す芸で二十四孝の孝子の一人の文句を参考にした。

これらの珍芸がもてはやされる背景には経済の充足により東京に人口が増加、従来の粋な芸とは違う高座芸がもてはやされたため。
尚、千秋楽→千穐楽という当て字を用いるのは劇場にとって火が出ることを忌み嫌う為。また大切りは大喜利と字を当てていて、プログラムに最後にする落語以外のものを表す。

林家竹丸:饅頭怖い
マクラの間中にずっと会場を見渡すような仕草、きっと今日のトリの演目を決めておらず客層をみておられたのかなーって感じました。
話の方は「おやっさんの怖い話し」が登場しないバージョンでちょっち残念。
東日本大震災の募金活動をした方には、それぞれのサイン入りの栞をプレゼント♪
すっごいいいアイデアですねー。

2011/04/16

2011 4/16 教科書に書かれない幕末史 大阪遷都計画

①4/16 大阪遷都計画 
②5/14 日本の形
③6/18 脱落する人たち
教科書に書かれない幕末史も丸2年を迎え明治に突入。今回のテーマである【大阪遷都計画】。
実はこのテーマは、ちょうどシーズンの大阪造幣局桜の通り抜けを実施した遠藤謹助氏に関係のあるテーマとのことで選定されたそう。
この講座のあとに造幣局へ移動し現地で勉強会の予定だそうだが、当方は残念ながら体調を崩していまして残念ながら不参加。
一坂先生から「え~!不意打ちを食らったみたいだ・・」とお言葉を頂きました。次回はおもいっきり参加しますのでご勘弁ください^^

慶応4年1月15日 明治天皇の元服とともに諸外国に対し王政復古を伝えた新政府は1/17に従来の三職(総裁・議定・参与)に、あと行政七科(神祇・内国・外国・海陸軍・会計・刑法・制度)を付け加え内政の充実を図ろうとする。長い間政治の枠組みからはずされていた在京の公家たちは、あたかも公家政権が戻ったかのように大喜びだった。

さて、この七科のうちのひとつの外国事務参与のポジションの大久保利通さんは、公家政権なんてそんな意味で倒幕を果たしたのでは無いと新しい日本の在り方を模索。そして、明治天皇の行幸を計画。まず男山八幡への参拝のあと、大阪の安在所へ行っていただく。

1/23 御所内にて太政官(新政府の心臓部)会議が開催。
このとき大阪遷都論を打ち出した。その意図としては・天皇を名実共に君主として世間に知らしめる・政治の発信地としての大阪にする・薩長中心政権の矛先をかわす・公家の為の天皇ではなく国民のための天皇とする・・・。
忘れてはならないのは、この時点ではまだ東北でのゴタゴタはかいけつしておらず、輪王寺宮を担ぎ東の政権を樹立させらてる恐れがあり、猶予はない。

2/3 天皇は二条城へ移動され親征の令を発布。
2/15 堺事件
3/14 五箇条の御誓文
3/23 御親征の名目で大阪へこられ、北御堂へ44日間滞在。
3/26 天保山で観艦式。※はじめて海を見られた・・。

着々と大阪遷都の道を進み始めていたが・・・ところが・・・。

前島密の遷都反対論。
大阪には大きな船入ることが出来ない。またせっかくの東京が寂れてしまうともっともなご意見。そしてついに7/17 江戸から東京へ名称が変更され、9/20には東京行幸の詔が出される。

この流れがあるので3月→9月までは大阪が首都になる可能性があったということになる。 
そんなゴタゴタの中で建設されたのが大阪桜ノ宮にある造幣局。(当時は造幣寮)


3/16には江戸の金座、銀座が接収。
4/11には江戸城の無血開城、貯蔵してあった資金は国財として没収。
そして、明治3年8月に大阪に造幣寮が建設された。

9/20には3300人の大所帯で東京を行幸。
10/13には天皇が東京入り。江戸城→東京城へ移動。
12月には一旦、京都て戻られている。

そして翌年3月(明治2年)・・・2回目の行幸が行われ、天皇は京都には戻ってこられませんでした。
また10月には皇后様も東京にいかれてしまいました。
許せないのは在京の方々。デモを行い首都の移転を反対する動きが激化。なんとか押さえ込もうと三条実美さんは2枚舌。
天皇はあくまでも行幸であり、ちゃんと帰ってこられますから・・・。大丈夫だから・・。の通達を出したまま、天皇は京都に帰ってこられることはありませんでした。
しかも面白いのは、いまだに日本の首都は京都。なぜなら、東京を首都にするという詔は出されていない。

その後京都の人口は35万人から7万人へと激減。
明治3年には産業基立金として10万両が下され、内3万2千両は西陣織り・・・1万8千両は桑やお茶の産業振興として使われたそう。 

さて、今日のもうひとつのテーマの造幣局。

遠藤謹助氏は映画【長州ふぁいぶ】の中の1人。ちなみに残り4人は【井上馨(鉄道の父)、山尾庸三(工業の父)、伊藤博文(政治家)、井上勝(政治家)】。
慶応2年にイギリスより帰国。その後神戸神戸運上所にて勤務。大蔵省へ入り明治3年(1870年)に造幣局に勤務。
当時は日本人だけでは鋳造はできず、オリエンタルバンクとの契約で海外より技術者が居り、その中のトーマス・ウィリアム・キンドルとの衝突によりいったん造幣局を去る。
明治7年8月には大隈重信への貨幣鋳造に対する意見書を提出したことがきっかけで、明治8年(1875年)1月には東洋銀行と契約が解消。
明治14年11月には遠藤が局長として復帰。
明治16年(1883年)より、桜の通り抜けが開始されている。
そして明治22年1月、最後の外国人のマクラガン氏が解雇され以降は日本人だけの鋳造となった。

造幣局建設の際は色々な汚職事件があったらしいが大隈重信さんらの手で一掃。国としての建設事業としてイギリスのウォートルス氏を雇い、洋式の耐火建築で建設をおこなうが連歌が無い・・・そこで作らせたのが、堺。大浜公園にはその跡地が残っている。

話は前後するが、遠藤謹助氏が神戸の運上所所長として勤務しているときに、神戸病院建設(今の神戸大学付属病院)の募金活動を行っている。
なんとその出資者の目録には〔伊藤俊介〕の名前が。しかも金額は100両!その目録のその箇所には付箋がはられていて〔未納〕と書かれているらしい。

2011/04/14

2011 4/13 お・ち・たww

写真撮影でお邪魔しました会社で階段を踏みはずしてずっこけました(;´Д`)
あと階段の段差が2段あったのですがどうやら、踏み出したトコには階段が無かったようでww
だんだんと痛ーくなってきたので大慌てでかかりつけの整形外科へww←前回、追突された時にお世話になった病院です。
レントゲン、エコー検査をしていただき骨折はしていないけど【左肩腱板損傷】【左肘、左手首打撲】って診断でした。
さすが今朝は左肩が上がらない状態(-_-、)。
1週間は湿布生活&夜は鎮静効果のある薬をヌリヌリ・・・な生活になります。

2011/04/08

2011 4/8 東京出張


亀戸から北へ小村井へ向かいました。
途中、浅草通りを渡りすぐの福神橋を渡る時になんとなく左をみたら。
「あれ?なんやったっけ?」←くらいの認識しかないww
どうやらあれがスカイツリーらしい。とりあえずパチリ!





 
途中、亀戸香取神社さんへ参拝。
そういえば思い出すのが、
香取信吾クンがNHKの大河「新撰組」のワンシーン。

剣道場で激しく戦いあう時に、「香取大明神」の額が飾られていました。当時はこれはぜったいシャレやな!とおもっていたけど本当に「香取大明神」は居られたのですね。
天慶の昔、平将門が乱を起した時、追討使俵藤太秀郷はこの香取神社に参拝し戦勝を祈願。
乱はめでたく平定することができ、神恩感謝の奉賓として弓矢を奉納、勝矢と命名された。このことから現代ではスポーツの神様としておられるそう。
 
俵藤太秀郷は滋賀県の三上山の大ムカデ退治の民話が有名。
落語の世界ではこう。
 
「その昔、俵藤太秀郷は、大きなムカデ退治をしたんやで」
「そんなん、わぃでもするって」
「いやいや・・ムカデは、あの三上山を七巻半もするようなムカデで・・」
「えらい、おっきぃムカデやなー」
「まぁ七巻半言うても、鉢巻きよりちょっと短いくらいや」

2011/04/07

2011 4/7 かつめし



加古川名物のかつめしをようやく戴きました。
前回、購入したかつめしのタレの感じとはだいぶ違っていました。
 
頂いたお店は【かつめしいろはーず】
 
美味しくいただきました^^



~引用~ 加古川商店街のあるモニュメントの文面~
戦後間もない頃にこの加古川商店街にあった「いろは食堂」で考案されました。
洋皿に白飯を盛り、牛カツをのせ、独特のタレをかけお箸でいただくスタイルは気軽に食べられる洋食として親しまれました。


←「かっつん」「デミーちゃん」

2011/04/03

2011 4/2 九度山 町家の人形めぐり

第3回 町家の人形めぐりが開催されました。
◆開催期間4/1-5/5 ◆九度山駅下車

このイベントは、住民同士だけでなく町外から見学におこしの皆様との、和やかなご縁の輪を広げる機会「まちを出会いの舞台に」しよう、多くの皆さんが集まって会話をすることで和やかさと明るさを持ち続けようという思いで取り組んでおられます。

そしてこのご縁を頂戴しました主催者の方と真田庵で待ち合わせさせていただくことに。ちょうど真田庵にて東日本大震災の法要を営まれるとのことで、私たちも参加させていただきました。
まるでその空間だけ、時間がスッと止まっているかのようなそんな心に染み込んでくる風景にいっぱい癒されてまいりました。

次回、九度山訪問は5月5日を予定しています。今の世情を鑑み真田祭のパレード等のイベントは無くなったそうですが真田3代の法要は実施されるとのこと。


実は今回の九度山訪問の目的は、9月に開催されるイベントの打ち合わせ。元々は真田親子が蟄居させられた九度山で、真田親子が大活躍する「難波戦記」を聞きたい・・そんな我侭のような私の願いが実現しそうなのです。これが機会となってご縁が広がって行くことを心から願っています。

2011/03/27

大阪2011年問題とサービスについて

大阪2011年問題

大阪の商業集積地はこの数年間開業や増床ラッシュとなり、あきらかに、「こんなにようさん(沢山)百貨店はいらんやろ!」という状態になります。
さてどこが生き残るのか楽しみではありますが、最近どの百貨店にいっても同じような店ばかりで、百貨店は場所貸し業で、いわゆる委託さん(委託取引)といわれる売上高から○○%を場所代として百貨店の売上として計上するショップが増えたように見受けれられます。
建物自体を専門化して違いをだそうとしてみてもなかなか上手く行っていないように思われます。反対に、最近の大型ショッピングモールが昔のよき時代の百貨店化し、フードコートは大食堂のようだし、利益が薄いとの理由で百貨店から撤退した玩具や文具もキッチリと揃えられています。さて、はたして生き残るためのキーワードってなんでしょうね。

誰でもお気に入りのお店というのはあるとおもいます。
ブティックかもしれないし、食品スーパーかもしれないし、その業態は様々です。もちろん私にもそんなお店がりますが昨日、そんなお店が残念だけど減った話しを少々。

そのお店は国道26号線の鳳の高架を越えた場所すぐにある老舗の大手ケーキショップ。
誕生月にお店から葉書が送られてきたので自宅から1時間。車を走らせて行ってきました。
ランチタイムのピークが過ぎた13時頃に到着、やや混雑程度の店内の陽の当る明るい窓側席にすわりパスタセットをオーダしました。
そして、20分・・・30分・・40分が経過・・・40分・・・。辛抱たまらずに「あとどれくらいかかりますか?」の問いに対し「あと少々です」との回答。実際どれだけ待てば良いのか?と聞いたところ、私達の前に3組がお待ちだそう・・。せっかくだけれどきゃンセルさせていただき店を後にしました。

飲食業はどんなお店でもそうだけどお客様を待たせてはダメですよね。
実際、行列ができるようなお店なら「私達の前に○○人並んでいるから・・だいぶかかる・・」とか判断できますのでこれらは例外として、お腹を空かせてわざわざ来てくださっているのだから誠意でつくすべきでしょう。
ところが実際に混んでしまうのはしょうがない。。。そんな時はオーダーのときに「少々お時間がかかりますがよろしいでしょうか?」、また途中でも「大変申し訳有りませんがもう少々かかるようです」と伝えることでお客様の気持ちをやわらげる事ができます。
お店側が先に言えばそれはサービス、ところが同じ事をお客様が先に言われると、それはクレームとなるのです。
ところがこのセリフを従業員さんに自主的に言って貰う為には、相当そのお店に思い入れを持っていただかないと無理でしょう。単なる雇用関係では築き上げる事ができないさらなる信用、信頼関係が必要です。

実はその昔、梅田にある某百貨店の大食堂で働いた経験がありまして、そのときに言われた言葉は今でも忘れる事ができません。
「お腹を空かせてお客様は来られているのだからとにかく待たせてはダメ」
「溜まり場にいるのではなく、常に視線はホールを見渡しなさい」
そして「お水をお注ぎする事にしても、私達が先に言えばそれはサービス、ところが同じ事をお客様が先に言われると、それはクレームとなる。」

サービスの本質はこんな事にあるのではとおもいます。
過剰なサービスではなく当たり前のことをちゃんとしてくれるお店・・意外と生き残る鍵はこんなところじゃないでしょうか。

2011/03/26

2011 3/26 第11回柳谷観音・泰聖寺講談会 

平成23年3月26日(土) 第11回柳谷観音・泰聖寺講談会 
旭堂左衛門一門会

お彼岸が終わったものの中々春らしい陽気にならない今年。今日は特に寒さ厳しい日になりました。さて、定刻の14時になる少し前よりご住職さんよりご挨拶をいただきました。今回の東北東京大地震の影響は日本全体に様々な影響を及ぼしており本当に悲しいことです、私たちに出来ること・・・それはわずかでも募金を行うことや、経済活動を活性化させることなのでしょうね。もちろん悲しみに打ちひしがれた方が沢山おられます一日も早く笑顔がもとることを願って止みません。

さて、会場の泰聖寺さんは、眼病にご利益のある観音様が居られます。
また天王寺七名水の一つの金龍水が、近年に復活した大変縁起の良いお寺です。

午後2時開演 木戸銭 1,500円
於:柳谷観音 泰聖寺 TEL 06-6779-9196
地下鉄谷町線 四天王寺夕陽丘前下車5番出口 愛染坂下る左


◆前講 白夜亭一林 水戸黄門 江戸物語

はじめてお聞きする方。マクラなく本題で入られました。有名な水戸黄門さんのお話で舞台は華のお江戸。出火をしたら老若男女にかかわらず島流しという罪を独自で決めた奉行を戒めるお話。ご老公さん・・テレビドラマの時からいっつも強引なんですよねー^^

◆前講 黄昏亭もみじ 赤垣源蔵の婿入り

赤穂藩が舞台のお話。
赤垣源蔵さんは赤穂四十七士の中の一人。赤垣のかぼちゃ娘と言われた女性を暴君より助けた武士のお話。


◆旭堂南斗 難波戦記 有馬御難

マクラは一人暮らしネタ。
前回よりすこしパワーアップ^^南斗さんはお料理上手らしいww
特徴あるマクラの話し方の南斗さん、貼り扇をパンッと叩くと、見事に講談のスイッチが入ります。


◆旭堂南舟 太閤記・秀吉の足軽時代

機転をきかせた秀吉の有名な草履取りのエピソードもこのお話にはいっていました。
足軽となった秀吉が様々な重役に取り入り宴会には無くてはならない存在に。ところが芝田勝家だけは秀吉を毛嫌いしていたので酒宴に呼ぼうとはしなかったがついに仲間から強引に進められて呼ぶコトに。秀吉が勝家をマッサージするシーンが見せ場^^


◆旭堂南左衛門 正直俥夫
明治22年神田泉橋でおこった貧乏な車夫が主人公、著名な政府高官の黒田清隆を車へ載せた事がきっかけとなり巻き起こす人情話。

さて、今回の講談会は非常にめずらしい趣向で、会が終わったあとに椅子をまるく配置し直して講談大好きなみんなでいろんな話しをしませんか?という企画でした。
全員が残り南舟さんが入れてくださったお茶にお菓子を摘みながら、南左衛門さんより、講談の歴史だけではなく、昨今の講談会の事やご自身の事まで幅広く語ってくださいました。
まぁこんな機会は無いでしょう。すこしでも講談のファンが増えることを願ってやみません。

なにかお手伝いでも・・と考えてこのこのサイトに最近の会の予定を掲載させていただきました^^