大給恒(おぎゅう ゆずる)という名前を私は知りませんでした。
このお名前は維新後であり、幕末は松平乗謨(まつだいら のりかた)という名前。
幕末史は薩長を中心とした勝者の歴史であり、幕臣についてはメジャー何処以外には
スポットが当たることはありません。
それだけに魅力のある人物が沢山。この大給恒さんもそんな中のお一人です。
長野県佐久市臼田町には五稜郭があります。というかありました。。
五稜郭と言えば函館が有名ですが長野県にも存在していました。
星形陵堡式の城郭でJR小海線臼田駅下車徒歩15分くらいの場所にあります。
【佐久市ホームページ】
http://www.city.saku.nagano.jp/cms/html/entry/783/262.html
三河奥殿藩はわずか1万6千石の小大名。
大名の格式は【国主-準国主-城主-城主格-無城】で、大給松平家は無城格の大名。
領地は飛び地となっていて岡崎市の奥殿に4千石、そして信州に1万2千石。
ここでいう領地とは土地を所有しているわけではなく、年貢を徴収する権利を有しているという意味で、奥殿藩は代々平和な藩。江戸時代を通じて処刑は2回のみ。
天保10年(1839)11月13日に江戸麻布にある藩邸で生まれる。(高杉晋作さんと同い年)
幼少の頃からとても利発で秀才。
フランス語を学び、特にフランス兵学に興味を示す。
13歳で家督を継ぐ。/20歳で婚姻(下館藩主の姉)
文久3年(1863年)~1月には大番頭(おおばんがしら)⇒若年寄。そして8月には縫殿頭と出世。
幕府には番方組織があり、大番は12組で構成。主戦力を担い老中に属する。平常時はお城の番人。書院番と小姓組番は10組で構成し、馬廻り役等、殿様のボディーガード的役割で若年寄に属する。ちなみに老中は今で言う大臣クラスで奉行らを配下とし、若年寄は副大臣クラスで目付や書院、小姓組を配下としていた。
当時の若年寄の中に積極的な開国は4人。そのため元治元年1月には罷免されたものの、6月には再任されている。しかし乗謨は9月には自らが辞職をしておりそこに時代に逆らう信念を感じる。
文久2年には大名への統制が緩くなり参勤交代も各年ではなくそれよりも国防が優先となることから乗謨は信州に陣屋を移すことを考えた。これは奥殿は東海道に面しており当時の情勢から非常に争いに巻き込まれる可能性があったことやどこかに西洋式の城郭を作ってみたいという乗謨の欲求が強かったのでしょう。
そして文久3年11月には信州佐久の田野口に建設をすることとなった。これは田野口側は城郭ができることを喜んで土地を献上した。しかし藩主が不在となる奥殿藩は激怒、一時的な暴動が起こるがなんとか乗り越えて龍岡城が出来上がった。
67000平方メートル。周囲は700m程度。堀の幅は7m。この城は戦闘用ではなくやはり乗謨の趣味の延長であったのか、裏山に上ると城内は丸見えで、通常星形の鋭角部分に砲台を設置するはずが龍岡城はわずか1機のみ。
1865年 陸軍奉行に任命(5月)当時の幕府はフランスより士官を招いていたことで乗謨は直接フランス語で会話ができた。士官の胸にある勲章に非常に興味を示しこれが将来の伏線となる。
乗謨はちょんまげ嫌いだし、刀の2本差しも気に入らない。サーベル風の刀を帯刀していたらしい。
1866年(慶応2年)6月には老中に大出世。12月には陸軍総裁となる。
老中は15万石~3万石しかなれなかったので乗謨は弱小藩なので、特別的な存在。これは、長州や薩摩にあるような有能なものを積極的に人材登用するという流れがあった。
当時老中は毎日出仕していたわけではなく月番制であったために職務の質に偏りがあった。
また小藩で老中になったのは乗謨だけではなく、もう1名いた。
稲葉正巳(安房館山藩第4代藩主。3代藩主稲葉正盛の長男。)は1万石。
二人で幕府改革を着手!まずは月番制を廃止し五総裁制を導入する。
これは専門分野別に分け今の内閣組織の原型ともいえる。
国内事務総裁は今の総理大臣。会計総裁、外国総裁、陸軍総裁、そして海軍総裁となる。
また大名行列も廃止となった。
慶応2年に4月には若年寄が6人が選ばれたがなんと全員が旗本であり今までではありえない人材の登用。いわば身分の乱発ともいえる。
慶応3年4月には念願の龍岡城が完成!地域住民へらへの見学会等を実施。
そして10月に大政奉還が行われた。
そこで稲葉正巳と松平乗謨の二人は慶喜さんへ面談、有力大名らでの中央集権を提案するもNG。大政奉還では全員が王臣となるが、多くの藩主は【忘恩の王臣よりも、全義の陪臣になる】と反対の声が上がったために、慶喜さんより格大名を説得する役を与えられた。
12月9日には王政復古、そして鳥羽伏見の戦いへと進んで行く。
そして松平乗謨は老中を退役し名前を大給と改める。(2月)
新政府より当然狙われるが、「勤王のほかにニ心無し」と誓詞を提出するも謹慎。
予てから目をつけていた大久保利通は大給恒を参内させ謹慎をとかせた。
そして龍岡城は1871年に解体。その後競売にかけられ、現在は小学校となっている。
大給は明治政府へ出仕。賞勲事務局に勤務。(勲章制作に携わる)
そして明治10年には博愛社の創生に尽力。
尼崎藩主の松平忠興とともに参加しこれがのちの日本赤十字社へとなってゆく。
フランス風懐石料理中華風・・・寺社仏閣が大好きです。 大阪市内に居ますが九度山と信州上田が心の故郷です♪尊敬する人は真田昌幸さんと幸村さん親子・吉田松陰先生、金子みすゞさん、大石順教尼さん。日本美術なら富岡鉄斎さんに横山大観さんに村上松園さん。そして大好物は甘々なみ・か・ん♪ ・・ようは何でもアリなのです
2014/07/19
2014 7/19 スズキランディ C25 とお別れ
2年間ありがとうございました。
いろんな思い出をつくった7代目の愛車【スズキ ランディ C25 】と今日でお別れ。
小雨が降る朝から、撥水洗車をしてきれいにしてからディーラさんへお渡ししました。
2年で3万キロを走破!
当分は代車生活となります。
で・・・もうすぐ8代目の愛車【スズキ ランディ C26】が登場します!
いろんな思い出をつくった7代目の愛車【スズキ ランディ C25 】と今日でお別れ。
小雨が降る朝から、撥水洗車をしてきれいにしてからディーラさんへお渡ししました。
2年で3万キロを走破!
当分は代車生活となります。
で・・・もうすぐ8代目の愛車【スズキ ランディ C26】が登場します!
2014/07/07
2014 7/8 えぇ?・・車に乗られへんやん。。
いつものように早朝6時。
車で出勤するために駐車場へ行くと、左前タイヤでセミさんが孵化真っ最中!
えぇぇ?
どうしよう。。。
やさしーく見守ってたけどどうしようもない。
素手で触るのは怖いし。
で、ぽいっちょするのはかわいそうだし。。
てなことを考えながら10分経過。
遅刻リミットが迫ってきてるので、落ち葉でやさしくツンツンしたら
うまく乗ってくれたのでそのまま近くの木に移動してもらい一段落!
今日も素敵な一日になりますよーに(^^)v
2014/07/05
2014 7/5 なわて落語会
毎年恒例の落語会。
このメンバーで前売り2000円は絶対にお買い得!
でも大きな難点が。
それは全席自由席なので会場2時間前に行ってもすでに10人以上並んでおられ、加熱ぎみ。
数百人が蒸し暑いロビーで長蛇の列。ようやく座席に座れた頃はもうヘロヘロ。。。
指定席にならないものでしょうか。
桂小鯛 平林
小鯛さんはおそらく3回目。田辺寄席(つる)/めふ乃寄席(強情灸)。
威勢も元気も良い 小鯛さんの良さがでていたお噺だと感じました。
桂吉弥 風邪うどん
真室川音頭の出囃子で登場の吉弥さん。
数日前にテレビを賑わした西宮県議さんや小保方さん、佐村河内さんと時事ネタをうまくマクラに
使われてお客様の心をぐっと掴まれました。また三波春夫さんの『船方さんよ』を替え歌に披露。
また夏の売り声から風邪うどんへ。おもいっきり冬の噺ですが、それでもうどん完食の演技が光ります。
桂ざこば 文七元結
まくらではなつかしい月亭可朝さんとの思い出話。 可朝さんらしいエピソードを聞かせていただきました。ネタは何度か聴いたことがある人情話の文七元結。活きな江戸っ子のキップの良さとしっとり感のある元ネタが、新町~長堀橋あたりを中心にした上方版になっていました。
それも途中でざこばさん独特の話術で笑いをひっぱりだすような演出で、しっとり感は無いものの
なんともいえない無骨ながらも人情味あふれる長兵衛さんとなっていました。
桂 南天 動物園
導入の就職条件部分や見せ場である虎の歩き方は割とあっさりと流された感じ。
「こごろうさん時代」になんどか動物園を聞かせていただいた記憶がりますがあっさり感の動物園でした。
桂南光 胴斬り
胴斬りのラストへ向かうシーンから、「みんな、ついてきてますか!」と共に『犬の眼』の噺に大きく転換。そしてまた本題のサゲに向かうシーンへ戻りました。たしかに奇想天外な噺だけにその世界観を周知させるには良い方法なのでしょう。
大喝采のうちに今日の落語会が終了しました。
このメンバーで前売り2000円は絶対にお買い得!
でも大きな難点が。
それは全席自由席なので会場2時間前に行ってもすでに10人以上並んでおられ、加熱ぎみ。
数百人が蒸し暑いロビーで長蛇の列。ようやく座席に座れた頃はもうヘロヘロ。。。
指定席にならないものでしょうか。
桂小鯛 平林
小鯛さんはおそらく3回目。田辺寄席(つる)/めふ乃寄席(強情灸)。
威勢も元気も良い 小鯛さんの良さがでていたお噺だと感じました。
桂吉弥 風邪うどん
真室川音頭の出囃子で登場の吉弥さん。
数日前にテレビを賑わした西宮県議さんや小保方さん、佐村河内さんと時事ネタをうまくマクラに
使われてお客様の心をぐっと掴まれました。また三波春夫さんの『船方さんよ』を替え歌に披露。
また夏の売り声から風邪うどんへ。おもいっきり冬の噺ですが、それでもうどん完食の演技が光ります。
桂ざこば 文七元結
まくらではなつかしい月亭可朝さんとの思い出話。 可朝さんらしいエピソードを聞かせていただきました。ネタは何度か聴いたことがある人情話の文七元結。活きな江戸っ子のキップの良さとしっとり感のある元ネタが、新町~長堀橋あたりを中心にした上方版になっていました。
それも途中でざこばさん独特の話術で笑いをひっぱりだすような演出で、しっとり感は無いものの
なんともいえない無骨ながらも人情味あふれる長兵衛さんとなっていました。
桂 南天 動物園
導入の就職条件部分や見せ場である虎の歩き方は割とあっさりと流された感じ。
「こごろうさん時代」になんどか動物園を聞かせていただいた記憶がりますがあっさり感の動物園でした。
桂南光 胴斬り
胴斬りのラストへ向かうシーンから、「みんな、ついてきてますか!」と共に『犬の眼』の噺に大きく転換。そしてまた本題のサゲに向かうシーンへ戻りました。たしかに奇想天外な噺だけにその世界観を周知させるには良い方法なのでしょう。
大喝采のうちに今日の落語会が終了しました。
2014/06/29
2014 6/29 超高速!参勤交代 鑑賞
超高速!参勤交代鑑賞。
現在の福島県いわき市にあった湯長谷藩が1年ぶりに江戸から戻ってきたその数日後、江戸から連絡が舞い込む・・それは5日以内に参勤交代せよとの知らせが。
どう考えても日数も足らず、貧乏藩であるがゆえにお金が無い。それに人数も足らない。。
それでも江戸にいかねばお取り潰しになってしまう。
奇想天外な方法で江戸へ急ぐ大名をはじめ家老らの奮闘を描く。
何度もくすくすって笑ってしまうポイントがおおい楽しい映画でした。
現在の福島県いわき市にあった湯長谷藩が1年ぶりに江戸から戻ってきたその数日後、江戸から連絡が舞い込む・・それは5日以内に参勤交代せよとの知らせが。
どう考えても日数も足らず、貧乏藩であるがゆえにお金が無い。それに人数も足らない。。
それでも江戸にいかねばお取り潰しになってしまう。
奇想天外な方法で江戸へ急ぐ大名をはじめ家老らの奮闘を描く。
何度もくすくすって笑ってしまうポイントがおおい楽しい映画でした。
2014/06/22
2014/6/22 愛車の不調対策!
数か月前からなぜかシフトレバーをRにすると、ごくたまにレバーがガクガクって激しく上下します。
はじめてこの症状が出たときは、何かに憑りつかれている?っておもえるくらいに気持ち悪くて・・。
で、いったんNにしてからRにしたり、もう一度PからRにしたら正常に戻ります。
で、ディーラさんにもっていったらたぶん入院?・・
だけど8月が車検だから7月になるまではと我慢してたのですがついに辛抱できなくて。。。。
写真は今の愛車!ランディ君!
はい!
買っちゃいました!
次の車!ヽ(°▽、°)ノエヘヘヘヘ
納車は7月4週目!
免許をとって17年で8台目の愛車です!
詳細は・・また後日!
2014/06/21
2014 6/21 歴史と人間 周布政之助
周布は島根県の浜田市にある地名で、豪族益田家の流れを汲んでおり、その先祖は藤原実頼。
長州藩には永代家老は2家あり、一つは福原家で毛利の親戚筋。そしてもう一つは益田家で関ヶ原の戦いで毛利輝元に仕え長州へ移動した。
周布政之助を語るには長州は幕末に大きく二分した事をしる必要があり、これは正義派と俗論派と呼ばれている。これは後に手動を取った正義派による呼称にすぎず、以降の歴史は事ごとく正義派により消されてしまっている。
周布政之助は周布兼翼(かねすけ)、文政6年3月23日(1823年5月3日)生まれ。
しかし3月25日には父が死去、続いて7月9日に兄が亡くなっていることからわずか0才で家督を継ぐこととなる。末期養子のため
家督は半分の68石。馬廻り八組(大組)。
母の実家である長門市 三隅町浅田の集落で幼少を過ごしたため、現在の浅田小学校に像があるそう。
8才~萩明倫館で学ぶ。
21歳~居寮生となる。
24歳~嚶鳴社を設立。(弘化3年)時事問題を討論しあうグループ。
25歳~蔵元検使暫役(出納補佐)
26歳~明倫館拡大
27歳~都講に抜擢(嘉永2年)
31歳~ペリー来航
長州藩は大森海岸警備(今の羽田あたり)にくわえ、三浦半島相模の警備も行う。
当時の長州藩の財政は厳しく、1838年(天保9年)に家老村田清風による天保の改革がおこなわれた。これは非常に急進的で三七ヵ年賦皆済仕法(借金37年払い)等が行われたが、病気に倒れ家老の坪井九右衛門のゆるやかな改革に実権をとられた。その後、後継者である椋梨藤太による安政の改革へ引き継がれてゆく。
35歳~大津郡を分割し先大津へ。(宰判)・・行政区ごとに年貢を集めるSYSTEMで区役所的な感覚。ちなみに市役所は勘定場に相当する。
このころ、鯨の漁獲高が減っていた。これは潮の流れ等ではなく諸外国による捕鯨の影響らしい。
さて、小浜藩武士の梅田雲浜は坪井九衛門へ、長州の産物を上方へ輸送することを提案し実施。
政務やくとなり第二次安政の改革(36歳で安政5年)を実施。
・軍制改革~農民兵の徴用~横浜の交易は失敗するから戦争が起こるかもしれなという考え。
・文武引立
・政治条例と家来中への親愛
・民政の事
周防大島の櫨の実や綿織物を藩直営としたが、実態は商人への販売価格よりも安く買いたたかれ農民は激怒。<悪魔退散一揆>が起こる。
39歳~文久元年 長州は長井 雅楽 航海遠略策を藩是としたものの、2年後には奉勅攘夷に変更!これは破約攘夷であり、楠公湊川の決意で行くという信念で押し通したもの。
武士道が当時の藩士の美学となる。
41歳~5/10 ついに下関で攻撃が開始。
ところが12日には長州ファイブのロンドン密航を行っているところが長州らしい!
40歳~文久2年 梅屋敷事件~横浜へピクニックに来ている西洋人を惨殺するプランが土佐藩士より山内容堂公⇒毛利定広へ漏れてしまい現在の京浜急行 梅屋敷下車、京浜第一国道(国道15号線)歩いて5分ほどにある梅屋敷へ高杉晋作・久坂玄端らを呼び、酒を飲ませながら若殿様自らが説得をした。
そこに周布政之助が泥酔し馬上から『容堂公は攘夷をちゃらかしなさる』と暴言!土佐藩士は激怒。
周布を処分しようとしたが長州藩は周布は処分したといい切る。実はすでに麻田公輔と名を変えている。
麻田は幕府に対し摂海防備対策を説いており細かい条項を提案している。これはなんとか阪神地区を長州管轄にしたいという思い入れがあったらしく、芦屋付近は毛利家にとっては先祖の地。
文久3年8・18の政変から9/1に脱藩後も10/5には復権。
しかし42歳で自決している。
当時の志士の良い相談相手であり先達として慕われたよき先輩というイメージか。
長州藩には永代家老は2家あり、一つは福原家で毛利の親戚筋。そしてもう一つは益田家で関ヶ原の戦いで毛利輝元に仕え長州へ移動した。
周布政之助を語るには長州は幕末に大きく二分した事をしる必要があり、これは正義派と俗論派と呼ばれている。これは後に手動を取った正義派による呼称にすぎず、以降の歴史は事ごとく正義派により消されてしまっている。
周布政之助は周布兼翼(かねすけ)、文政6年3月23日(1823年5月3日)生まれ。
しかし3月25日には父が死去、続いて7月9日に兄が亡くなっていることからわずか0才で家督を継ぐこととなる。末期養子のため
家督は半分の68石。馬廻り八組(大組)。
母の実家である長門市 三隅町浅田の集落で幼少を過ごしたため、現在の浅田小学校に像があるそう。
8才~萩明倫館で学ぶ。
21歳~居寮生となる。
24歳~嚶鳴社を設立。(弘化3年)時事問題を討論しあうグループ。
25歳~蔵元検使暫役(出納補佐)
26歳~明倫館拡大
27歳~都講に抜擢(嘉永2年)
31歳~ペリー来航
長州藩は大森海岸警備(今の羽田あたり)にくわえ、三浦半島相模の警備も行う。
当時の長州藩の財政は厳しく、1838年(天保9年)に家老村田清風による天保の改革がおこなわれた。これは非常に急進的で三七ヵ年賦皆済仕法(借金37年払い)等が行われたが、病気に倒れ家老の坪井九右衛門のゆるやかな改革に実権をとられた。その後、後継者である椋梨藤太による安政の改革へ引き継がれてゆく。
35歳~大津郡を分割し先大津へ。(宰判)・・行政区ごとに年貢を集めるSYSTEMで区役所的な感覚。ちなみに市役所は勘定場に相当する。
このころ、鯨の漁獲高が減っていた。これは潮の流れ等ではなく諸外国による捕鯨の影響らしい。
さて、小浜藩武士の梅田雲浜は坪井九衛門へ、長州の産物を上方へ輸送することを提案し実施。
政務やくとなり第二次安政の改革(36歳で安政5年)を実施。
・軍制改革~農民兵の徴用~横浜の交易は失敗するから戦争が起こるかもしれなという考え。
・文武引立
・政治条例と家来中への親愛
・民政の事
周防大島の櫨の実や綿織物を藩直営としたが、実態は商人への販売価格よりも安く買いたたかれ農民は激怒。<悪魔退散一揆>が起こる。
39歳~文久元年 長州は長井 雅楽 航海遠略策を藩是としたものの、2年後には奉勅攘夷に変更!これは破約攘夷であり、楠公湊川の決意で行くという信念で押し通したもの。
武士道が当時の藩士の美学となる。
41歳~5/10 ついに下関で攻撃が開始。
ところが12日には長州ファイブのロンドン密航を行っているところが長州らしい!
40歳~文久2年 梅屋敷事件~横浜へピクニックに来ている西洋人を惨殺するプランが土佐藩士より山内容堂公⇒毛利定広へ漏れてしまい現在の京浜急行 梅屋敷下車、京浜第一国道(国道15号線)歩いて5分ほどにある梅屋敷へ高杉晋作・久坂玄端らを呼び、酒を飲ませながら若殿様自らが説得をした。
そこに周布政之助が泥酔し馬上から『容堂公は攘夷をちゃらかしなさる』と暴言!土佐藩士は激怒。
周布を処分しようとしたが長州藩は周布は処分したといい切る。実はすでに麻田公輔と名を変えている。
麻田は幕府に対し摂海防備対策を説いており細かい条項を提案している。これはなんとか阪神地区を長州管轄にしたいという思い入れがあったらしく、芦屋付近は毛利家にとっては先祖の地。
文久3年8・18の政変から9/1に脱藩後も10/5には復権。
しかし42歳で自決している。
当時の志士の良い相談相手であり先達として慕われたよき先輩というイメージか。
2014/06/08
2015 6/8 第21回 三国・アシスト亭
桂 優々 田楽食い
桂雀々さんのお弟子さんで6年目。
テレビ番組の上方演芸ホールで雀々さんの「田楽食い」を思い出される所作口調で
師匠さんと練習をずいぶん積んで来られたのだなと感じました。
将来が楽しみな噺家さんです。
旭堂 南左衛門 般若時の焼き討ち
久しぶりの師匠さん。
<淀君の威勢>からネタを変更されました。
徳川家康や真田幸村がイキイキと動き出しました。
笑福亭 仁嬌 道具屋
軽めの「道具屋」。ポンポンと噺が進み、これくらいの軽妙さがあるとかえって素直に笑えるました。
桂 枝女太 百年目
なんといっても今日の目玉は「百年目」。
元噺は並木正三氏の「手代の当惑」(宝暦12年(軽口東方朔))を元に焼き直しした明和7年上方板「軽口片頬笑(かるくちかたほえみ)」第一巻所収〔うろたえても気転〕を改作したものと思われる。
上方落語の歴史 昭和33年 前田勇著
桂米朝さんの百年目はもう何度も聞いてきました。といっても音源は同じ。
なのでどうしても比較してしまいますが、それでも今日の桂枝女太さんの「百年目」はよく演じられたと思います。
もちろん、今の世には「百年目」という言葉はもはや通じないことから上手くマクラに組み込まれおまくサゲへと繋げられた工夫や、越後獅子のハメモノを再現するために、アシスト亭はじめての生三味線に拘られたこと等大変だったと思います。
旦那さんの赤栴檀と難莚草の件と、そのあとに続く「遠慮は外でするもんや」「ちょうど孫の太鼓があるよってに、ちょっとここで踊ってみてや」の微妙な旦那の心遣いの描写がお見事でした。すこし旦那さんがお若い感じであったようですが、それでも番頭の恐縮したその心理がうまく出ていました。桂文枝さんの百年目は聞いたことの無いのが悔やまれます。本当にお疲れ様でした。
ちなみに帰り際に桂枝女太さんは、「いやぁ・・まだまだです」と言われていたのが印象的でした。
桂雀々さんのお弟子さんで6年目。
テレビ番組の上方演芸ホールで雀々さんの「田楽食い」を思い出される所作口調で
師匠さんと練習をずいぶん積んで来られたのだなと感じました。
将来が楽しみな噺家さんです。
旭堂 南左衛門 般若時の焼き討ち
久しぶりの師匠さん。
<淀君の威勢>からネタを変更されました。
徳川家康や真田幸村がイキイキと動き出しました。
笑福亭 仁嬌 道具屋
軽めの「道具屋」。ポンポンと噺が進み、これくらいの軽妙さがあるとかえって素直に笑えるました。
桂 枝女太 百年目
なんといっても今日の目玉は「百年目」。
元噺は並木正三氏の「手代の当惑」(宝暦12年(軽口東方朔))を元に焼き直しした明和7年上方板「軽口片頬笑(かるくちかたほえみ)」第一巻所収〔うろたえても気転〕を改作したものと思われる。
上方落語の歴史 昭和33年 前田勇著
桂米朝さんの百年目はもう何度も聞いてきました。といっても音源は同じ。
なのでどうしても比較してしまいますが、それでも今日の桂枝女太さんの「百年目」はよく演じられたと思います。
もちろん、今の世には「百年目」という言葉はもはや通じないことから上手くマクラに組み込まれおまくサゲへと繋げられた工夫や、越後獅子のハメモノを再現するために、アシスト亭はじめての生三味線に拘られたこと等大変だったと思います。
旦那さんの赤栴檀と難莚草の件と、そのあとに続く「遠慮は外でするもんや」「ちょうど孫の太鼓があるよってに、ちょっとここで踊ってみてや」の微妙な旦那の心遣いの描写がお見事でした。すこし旦那さんがお若い感じであったようですが、それでも番頭の恐縮したその心理がうまく出ていました。桂文枝さんの百年目は聞いたことの無いのが悔やまれます。本当にお疲れ様でした。
ちなみに帰り際に桂枝女太さんは、「いやぁ・・まだまだです」と言われていたのが印象的でした。
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