周布は島根県の浜田市にある地名で、豪族益田家の流れを汲んでおり、その先祖は藤原実頼。
長州藩には永代家老は2家あり、一つは福原家で毛利の親戚筋。そしてもう一つは益田家で関ヶ原の戦いで毛利輝元に仕え長州へ移動した。
周布政之助を語るには長州は幕末に大きく二分した事をしる必要があり、これは正義派と俗論派と呼ばれている。これは後に手動を取った正義派による呼称にすぎず、以降の歴史は事ごとく正義派により消されてしまっている。
周布政之助は周布兼翼(かねすけ)、文政6年3月23日(1823年5月3日)生まれ。
しかし3月25日には父が死去、続いて7月9日に兄が亡くなっていることからわずか0才で家督を継ぐこととなる。末期養子のため
家督は半分の68石。馬廻り八組(大組)。
母の実家である長門市 三隅町浅田の集落で幼少を過ごしたため、現在の浅田小学校に像があるそう。
8才~萩明倫館で学ぶ。
21歳~居寮生となる。
24歳~嚶鳴社を設立。(弘化3年)時事問題を討論しあうグループ。
25歳~蔵元検使暫役(出納補佐)
26歳~明倫館拡大
27歳~都講に抜擢(嘉永2年)
31歳~ペリー来航
長州藩は大森海岸警備(今の羽田あたり)にくわえ、三浦半島相模の警備も行う。
当時の長州藩の財政は厳しく、1838年(天保9年)に家老村田清風による天保の改革がおこなわれた。これは非常に急進的で三七ヵ年賦皆済仕法(借金37年払い)等が行われたが、病気に倒れ家老の坪井九右衛門のゆるやかな改革に実権をとられた。その後、後継者である椋梨藤太による安政の改革へ引き継がれてゆく。
35歳~大津郡を分割し先大津へ。(宰判)・・行政区ごとに年貢を集めるSYSTEMで区役所的な感覚。ちなみに市役所は勘定場に相当する。
このころ、鯨の漁獲高が減っていた。これは潮の流れ等ではなく諸外国による捕鯨の影響らしい。
さて、小浜藩武士の梅田雲浜は坪井九衛門へ、長州の産物を上方へ輸送することを提案し実施。
政務やくとなり第二次安政の改革(36歳で安政5年)を実施。
・軍制改革~農民兵の徴用~横浜の交易は失敗するから戦争が起こるかもしれなという考え。
・文武引立
・政治条例と家来中への親愛
・民政の事
周防大島の櫨の実や綿織物を藩直営としたが、実態は商人への販売価格よりも安く買いたたかれ農民は激怒。<悪魔退散一揆>が起こる。
39歳~文久元年 長州は長井 雅楽 航海遠略策を藩是としたものの、2年後には奉勅攘夷に変更!これは破約攘夷であり、楠公湊川の決意で行くという信念で押し通したもの。
武士道が当時の藩士の美学となる。
41歳~5/10 ついに下関で攻撃が開始。
ところが12日には長州ファイブのロンドン密航を行っているところが長州らしい!
40歳~文久2年 梅屋敷事件~横浜へピクニックに来ている西洋人を惨殺するプランが土佐藩士より山内容堂公⇒毛利定広へ漏れてしまい現在の京浜急行 梅屋敷下車、京浜第一国道(国道15号線)歩いて5分ほどにある梅屋敷へ高杉晋作・久坂玄端らを呼び、酒を飲ませながら若殿様自らが説得をした。
そこに周布政之助が泥酔し馬上から『容堂公は攘夷をちゃらかしなさる』と暴言!土佐藩士は激怒。
周布を処分しようとしたが長州藩は周布は処分したといい切る。実はすでに麻田公輔と名を変えている。
麻田は幕府に対し摂海防備対策を説いており細かい条項を提案している。これはなんとか阪神地区を長州管轄にしたいという思い入れがあったらしく、芦屋付近は毛利家にとっては先祖の地。
文久3年8・18の政変から9/1に脱藩後も10/5には復権。
しかし42歳で自決している。
当時の志士の良い相談相手であり先達として慕われたよき先輩というイメージか。