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2014/08/15

2014 8/15 復帰

救急処置をしていただく直前の血液検査で、びっくりな数値が出ていました。
CRPが14.7で白血球数も相当多かったらしい。
※ちなみにCRPが15で【重体な疾患の発症の可能性が検討される範囲】らしい。

麻酔だけは何度経験しても不思議。
まるで、私の中の生命スイッチをパチッとOFFられたようにしかおもえず、その間は夢を見ることもなく再びONになるまではまったく時間が経過したという自覚がない。
でも実際は数時間以上経過しているのだから本当に不思議です。

もう、これで最後にしたい。

ホントに。

ええかげんにして・・私のこまった体。

2014/08/10

2014 8/9 入院

7日の夕方にいきなり激しい寒さが襲ってきました。

寒くて震えが止まらない。

蒸し暑い倉庫に居たからたぶん
熱中症?
震える手でサイトを調べてみると
体温調整が出来無くなっているようで
早く病院へ行く事を勧める記事が沢山。

脇や首筋を氷で冷やし少しマシになった隙に帰宅する事に。

高速道路だと30分で帰宅できるはず!
ということで、慎重に運転してなんとか自宅の駐車場に着きました。

ところが、身体に力が入らなくて車から降りられなくて迎えに来てもらったくらい体力が消耗していたようです。

すぐに横になり体温は38.7度。

ひたすら水分補給とお手洗いを繰り返して一夜が明けました。

激しい頭痛に定期的にやってくる震えからかかりつけを医院へいったのは夕方になりました。

この時の体温は37.0度。
血液検査用の採血と、点滴をしていただき、熱がさがらない時は連絡とのことで帰宅しました。
しかしその夜も翌朝も激しい寒さがまた襲ってきました。

そして9日の13時30分に異変が起こりました。

尿意があったからお手洗いに行ったのですが、でている感じがなく残尿感が消えたのです。

激しい寒さが襲ってきた時についに家族に説得されてかかりつけ医へ連絡すると、赤血球と白血球に異常があるので
大きな病院へ行く事を勧められたと同時にまたお手洗いへ。

おしっこがまったくでていない!
えぇ?
なんで?あかんがな!

病院へ連絡、タクシーをよび、準備もそこそこにすぐにでかけました。

18時30分。
いろんな救急措置で、待合室にも聞こえるくらいの悲鳴を上げたおかげでなんとか持ちこたえました。

措置は詳しくはかけない位のグロさで(-_-;)

で、そのまま入院に。

一夜が明け平熱のようですがまだ
予断は許さないようです。




2014/08/06

2014 8/6 シートカバー!ポチッとしちゃった♪

楽天市場で開催していたお買い物マラソンにあわせて
ついシートカバーを買っちゃいました!


あとで商品のレビューを読んでびっくり!

取り付けるのに色々な工具が必要らしいんだけど、私の家にはなぁんにもない(;´Д`)

しかも取り付けるのに7時間かかった方もおられたようで。。

この週末、チャレンジしてみるけど・・あんまし自身ないです(汗

2014/08/03

2014 8/3  当家のしきたり

我が家のしきたりで、毎年8月の第一日曜日は法事です。
これは私の祖父母が亡くなってからずっと続けられており三十三回忌となりました。

通例では三十三回忌をもって最後の年忌にするのですが、当家に来てくださっている尼僧さんとのご縁で来年以降も続けることになりました。

尼僧さんの母と私の祖母が親しくしてくださっていたご縁で今日までそのご縁が続いています。
本当にありがたいことです。

わが家の江州の本家は浄土宗で、本来当家も浄土宗であるべきですがいろんなご縁で曹洞宗式の法要をしていただいておりますが、今回は修証義の中の4章 発願利生と第5章 行持報恩を報じていただきましたがやはり身の引き締まる思いがします。

2014/07/30

2014 7/30 第51回 秋季大学 受講申込 受付中



 この数年間、欠かさず参加している四天王寺秋季大学が今年も開催されます。
場所は四天王寺本坊 五智光院で、めったに入ることのできない場所でもあります。
開講挨拶 12:50~13:00 瀧藤 尊淳(四天王寺 執事長)
第1講目  13:00~14:20 千田 稔 先生(奈良県立図書情報館館長)
『亀について考える-飛鳥酒船石遺跡・中宮寺天寿国繍帳・四天王寺亀井堂-』
第2講目  14:40~16:00 筒井 寛昭 猊下(華厳宗管長・東大寺別当)
『東大寺創建と復興』
第3講目  16:20~17:40 小野 功龍 先生(相愛大学名誉教授[元学長]・天王寺楽所雅亮会楽頭)
『「秦姓の舞」~天王寺舞楽の特質』
■お申込み


2014/07/26

2014 7/26  8代目愛車 ランディくん♪

8代目の愛車のランディくんとご対面。

灼熱の日、無事に納車式(笑)をすませてきました。




 で、新旧のランディくんと記念写真を撮影して、7代目から8代目へと乗り換えです。


 


ランディはニッサンセレナのOEM車なので特に宣伝もされていないので、
街中でめったに出会うことはありません。
2013年は セレナ96,407台に対して1,555台。
セレナと違い、グレードも3種類しかありませんが、スズキならではの良さがあります。

 第一印象は「車って電化製品なんだ・・」って感じさせるくらいに装備が色々あり
頑張って乗りこなすようになりたいって思っています。

今回の購入タイミングではモデルチェンジしたノアという選択肢はありましたが、
やっぱりランディが好きっ!

今回でスズキアリーナ内環店では4台目の購入で、私のカーライフの半分はこのお店でお世話になっています。これってやっぱ【人】なんですよね!
前任のご担当者さんから、今のご担当者さんいなられたときはなんとなく不安でしたが、
今ではすべてをお任せすることができるご担当者さんの気持ちが通じるサポートがあったから
この車に出会えたんだって感謝しています。今後ともよろしくお願いします。!

スズキアリーナ 内環店
http://s27227294.suzuki-dealers.jp/

2014/07/20

2014 7/20 第33回柳谷観音・泰聖寺講談会

第33回柳谷観音・泰聖寺講談会~
太平洋改め旭堂南鷹改名披露&旭堂南青芸能生活10周年記念披露~

会場の13時をすこし過ぎた頃に到着。

ほんの数年前までは、この会場の半分も埋まらなかった事もありましたが
今ではもう常にほぼ満席。やっぱり講談ブームの予兆なのかもしれませんね。

 「太閤の生い立ち」旭堂 南斗
なんとかお聞きしたお話ではあるものの
最近は余裕を感じます^^
 
「わらしべ長者」旭堂 南舟
日本の伝承民話も講談になるのですね!しかも安芸の国から京都清水観音さんという明確な舞台設定までされていて
講談の奥深さを感じました。
 
 <鼎談> 旭堂南左衛門/南鷹/南青
 
南鷹さんの御一門入り!おめでとうございます。
講談を続けていく上で切磋琢磨が自己成長につながる大切な要素になるんですよね。
今後の御活躍を楽し見にしています。
また南青さんの13年目に向けての200万のお話(笑)大変だとおもいますが
ますますのご活躍を期待しています。
最後になりましたが旭堂南左衛門さん!還暦おめでとうございます!赤いちゃんちゃんこ姿が見たいものです^^
これからも御一門をぐいぐいと引っ張っていただき、上方講談だけでなく講談界全体の繁栄を目指してご活躍くださいませ。
 
 「初代淀屋」旭堂 南青
「龍馬翔る・勝海舟との出会い」 旭堂 南鷹
 
ご自身の創作講談の中でも非常にポピュラーなシーンを演じていただきました。
勝さんのイメージはすこし歴史をかじったものであればだれもが描きやすい人物像なだけに
自信家で江戸言葉を巧みに操る勝さんと、意気揚々と現れた竜馬がだんだん勝さんの
魅力に打たれていく、その流れが巧みでした。
 
※参照 歴史と人間 勝海舟
 
まさにお芝居の一シーンを見ているかのような講談でした^^
 
「赤穂義士外伝・天野屋利兵衛」 旭堂 南左衛門
7月3日より【びいなす見聞録 千島列島と神秘のフィヨルド・ロシア探求の旅】で
ペトロパブロフスク・カムチャッキーにいかれたとの事、いろんな楽しいお話を
聞かせていただきました。
 
後半、捕縛された利兵衛の取り調べからエンディングまでは
まさに押し殺したようなタメと情感たっぷりの講談。

途中の緊張したシーンの中に偶然にも鳴り響く雷の大音量があり場内はすごい緊張感に包まれました。




2014/07/19

2014 7/19 歴史と人間 大給恒

大給恒(おぎゅう ゆずる)という名前を私は知りませんでした。
このお名前は維新後であり、幕末は松平乗謨(まつだいら のりかた)という名前。

幕末史は薩長を中心とした勝者の歴史であり、幕臣についてはメジャー何処以外には
スポットが当たることはありません。
それだけに魅力のある人物が沢山。この大給恒さんもそんな中のお一人です。


長野県佐久市臼田町には五稜郭があります。というかありました。。
五稜郭と言えば函館が有名ですが長野県にも存在していました。
星形陵堡式の城郭でJR小海線臼田駅下車徒歩15分くらいの場所にあります。

【佐久市ホームページ】

http://www.city.saku.nagano.jp/cms/html/entry/783/262.html





三河奥殿藩はわずか1万6千石の小大名。
大名の格式は【国主-準国主-城主-城主格-無城】で、大給松平家は無城格の大名。
領地は飛び地となっていて岡崎市の奥殿に4千石、そして信州に1万2千石。
ここでいう領地とは土地を所有しているわけではなく、年貢を徴収する権利を有しているという意味で、奥殿藩は代々平和な藩。江戸時代を通じて処刑は2回のみ。


天保10年(1839)11月13日に江戸麻布にある藩邸で生まれる。(高杉晋作さんと同い年)
幼少の頃からとても利発で秀才。
フランス語を学び、特にフランス兵学に興味を示す。

13歳で家督を継ぐ。/20歳で婚姻(下館藩主の姉)


文久3年(1863年)~1月には大番頭(おおばんがしら)⇒若年寄。そして8月には縫殿頭と出世。
幕府には番方組織があり、大番は12組で構成。主戦力を担い老中に属する。平常時はお城の番人。書院番と小姓組番は10組で構成し、馬廻り役等、殿様のボディーガード的役割で若年寄に属する。ちなみに老中は今で言う大臣クラスで奉行らを配下とし、若年寄は副大臣クラスで目付や書院、小姓組を配下としていた。

当時の若年寄の中に積極的な開国は4人。そのため元治元年1月には罷免されたものの、6月には再任されている。しかし乗謨は9月には自らが辞職をしておりそこに時代に逆らう信念を感じる。

文久2年には大名への統制が緩くなり参勤交代も各年ではなくそれよりも国防が優先となることから乗謨は信州に陣屋を移すことを考えた。これは奥殿は東海道に面しており当時の情勢から非常に争いに巻き込まれる可能性があったことやどこかに西洋式の城郭を作ってみたいという乗謨の欲求が強かったのでしょう。

そして文久3年11月には信州佐久の田野口に建設をすることとなった。これは田野口側は城郭ができることを喜んで土地を献上した。しかし藩主が不在となる奥殿藩は激怒、一時的な暴動が起こるがなんとか乗り越えて龍岡城が出来上がった。
67000平方メートル。周囲は700m程度。堀の幅は7m。この城は戦闘用ではなくやはり乗謨の趣味の延長であったのか、裏山に上ると城内は丸見えで、通常星形の鋭角部分に砲台を設置するはずが龍岡城はわずか1機のみ。

1865年 陸軍奉行に任命(5月)当時の幕府はフランスより士官を招いていたことで乗謨は直接フランス語で会話ができた。士官の胸にある勲章に非常に興味を示しこれが将来の伏線となる。
乗謨はちょんまげ嫌いだし、刀の2本差しも気に入らない。サーベル風の刀を帯刀していたらしい。

1866年(慶応2年)6月には老中に大出世。12月には陸軍総裁となる。
老中は15万石~3万石しかなれなかったので乗謨は弱小藩なので、特別的な存在。これは、長州や薩摩にあるような有能なものを積極的に人材登用するという流れがあった。

当時老中は毎日出仕していたわけではなく月番制であったために職務の質に偏りがあった。
また小藩で老中になったのは乗謨だけではなく、もう1名いた。

稲葉正巳(安房館山藩第4代藩主。3代藩主稲葉正盛の長男。)は1万石。

二人で幕府改革を着手!まずは月番制を廃止し五総裁制を導入する。
これは専門分野別に分け今の内閣組織の原型ともいえる。
国内事務総裁は今の総理大臣。会計総裁、外国総裁、陸軍総裁、そして海軍総裁となる。
また大名行列も廃止となった。

慶応2年に4月には若年寄が6人が選ばれたがなんと全員が旗本であり今までではありえない人材の登用。いわば身分の乱発ともいえる。

慶応3年4月には念願の龍岡城が完成!地域住民へらへの見学会等を実施。
そして10月に大政奉還が行われた。
そこで稲葉正巳と松平乗謨の二人は慶喜さんへ面談、有力大名らでの中央集権を提案するもNG。大政奉還では全員が王臣となるが、多くの藩主は【忘恩の王臣よりも、全義の陪臣になる】と反対の声が上がったために、慶喜さんより格大名を説得する役を与えられた。

12月9日には王政復古、そして鳥羽伏見の戦いへと進んで行く。
そして松平乗謨は老中を退役し名前を大給と改める。(2月)
新政府より当然狙われるが、「勤王のほかにニ心無し」と誓詞を提出するも謹慎。
予てから目をつけていた大久保利通は大給恒を参内させ謹慎をとかせた。

そして龍岡城は1871年に解体。その後競売にかけられ、現在は小学校となっている。

大給は明治政府へ出仕。賞勲事務局に勤務。(勲章制作に携わる)

そして明治10年には博愛社の創生に尽力。
尼崎藩主の松平忠興とともに参加しこれがのちの日本赤十字社へとなってゆく。