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2019/03/20

2019 3/21 一坂太郎著「 吉田松陰190歳」

先日、18日の夕方に一坂太郎先生とお話をする機会がありました。

おそらく6年ぶりくらいかとおもいます。積るさまざまなお話をさせていただいた中で
一坂先生が話された内容にとっても驚きました。

ホント耳を疑うような言葉です。





吉田松陰先生はまだ死んでいない・・というか死なせてもらえないというお話でした。
とても興味深く、そして詳しい内容は「吉田松陰190歳」という書籍をということで
さっそく注文し19日の夕刻に到着。本日1日で読破して驚いた。

松陰先生は様々な「要人暗殺未遂」や「国外脱出」という罪を犯したり、「命の惜しくないと思っている若者を数名よこしてほしい」や「一人の悪者を殺したら政局は変わる」等テロ的な発言をしたり、そうかと思えば「自由闊達で自主性を慮る授業」や呆れるほどの「尊王思想」に「自分の一生を種に見立てた留魂録」に「大好きだった子弟をボロカスに言って拗ねてみたり、周りが見えずに猪突猛進的な事」をしたり、「脱藩して無茶苦茶な旅をしたり」・・それだけに行動や残存している手紙や書物や言論の記録の過激な部分だけを切り取られてしまうことで亡くなってからもざまざまな人の心に入り込み、教育や思想やそして右翼にも左翼にも政治家にも利用されやすい方なのでしょう。

でも日本は言論の自由で守られているのです。
私のこのBLOGでの発言はあくまでも私個人の発言であって、私の所属する団体の正式な発言や見解ではないのです。

それにしても洋泉社 歴史REALwebに掲載されている一坂先生の書かれている「大河ドラマ『西郷どん』批評」の最後の回の批評末尾あたりに書かれている文章が大変気にかかる。

http://blog.livedoor.jp/rekishireal/archives/54612753.html

平成27年の吉田松陰の妹を主人公にした『花燃ゆ』のお話や「ドラマを批評したことは、行政を批判したこと」と圧力をかけられまくったお事柄等の詳細な状況が書かれた内容を読むたびに今の政治体制に疑問が出てくる。
私はそれでも松陰先生が大好きだし、きっと一坂先生も好きだろう。同じように山口出身の政治家さんも、どこぞの大学の先生も博物館の館長さんも好きなんだろうとおもう。
でもどの部分を切り取って「すきっ」て言ってるのかは甚だ疑問が残る。

そういえば私のBLOGの過去の記事にこんなのがあります。
*********************************
2014 5/17 歴史と人間   アーネスト・サトウ

今回の大河ドラマの次の2015年は「花燃ゆ」で松陰先生の妹がヒロインだそう。
で、再来年の2016年は先日発表がありましたが三谷幸喜さん脚本の「真田丸」。
真田幸村が亡くなって401年の記念すべき年に・・・・はぁ?・・・?
401年?むちゃくちゃ違和感を感じているのは私だけでは無かったようです。
噂では震災の復興をテーマに2013年の「八重の桜」はまだ良かった。
そして2014年の姫路城のリフレッシュ公開と合わせた軍師官兵衛VS大阪の陣が勃発した真田幸村となるかの対決で
大阪方は【真田幸村を大河ドラマにする会】を発足していっぱい署名を集めてきたけれど
残念ながら軍師官兵衛に決定。。
そこで不思議な・・とっても不思議なことが起きました。
どこからか、松陰先生をテーマに大河ドラマを作りなさいってお声があったようです。
数回前の講義で、吉田松陰先生が一時的に書籍として取り上げらた時期があると言われていました。
強烈なまでの尊王思想で過激的であるが故に斬首となり罪人となったが、
ある時期から神とまでに奉られている松陰先生の言葉が修身の教科書に載ったそう。
そして数年後にも掲載されるらしいですが・・そのもてはやされた時期は?・・・さぁいつでしょう。。
中国やロシア、北朝鮮のキナ臭い動きを鑑みて集団的自衛権の行使容認で憲法解釈の変更を唱えた事になにか関係があるのかも?
*********************************
この書籍では上記記事の真相なんかも書かれています!



吉田松陰190歳   一坂 太郎 (著)

でもこれだけは言えるとおもう。松陰先生は文系の人で理系ではないし何を捉えてなぜこんな話になったのかはしらないが松下村塾は「明治の産業革命遺産」ではない。

2014/05/17

2014 5/17 歴史と人間   アーネスト・サトウ

今回の大河ドラマの次の2015年は「花燃ゆ」で松陰先生の妹がヒロインだそう。
で、再来年の2016年は先日発表がありましたが三谷幸喜さん脚本の「真田丸」。
真田幸村が亡くなって401年の記念すべき年に・・・・はぁ?・・・?
401年?むちゃくちゃ違和感を感じているのは私だけでは無かったようです。
噂では震災の復興をテーマに2013年の「八重の桜」はまだ良かった。
そして2014年の姫路城のリフレッシュ公開と合わせた軍師官兵衛VS大阪の陣が勃発した真田幸村となるかの対決で
大阪方は【真田幸村を大河ドラマにする会】を発足していっぱい署名を集めてきたけれど
残念ながら軍師官兵衛に決定。。
そこで不思議な・・とっても不思議なことが起きました。
どこからか、松陰先生をテーマに大河ドラマを作りなさいってお声があったようです。
数回前の講義で、吉田松陰先生が一時的に書籍として取り上げらた時期があると言われていました。
強烈なまでの尊王思想で過激的であるが故に斬首となり罪人となったが、
ある時期から神とまでに奉られている松陰先生の言葉が修身の教科書に載ったそう。
そして数年後にも掲載されるらしいですが・・そのもてはやされた時期は?・・・さぁいつでしょう。。
中国やロシア、北朝鮮のキナ臭い動きを鑑みて集団的自衛権の行使容認で憲法解釈の変更を唱えた事になにか関係があるのかも?


アーネスト サトウはSir Ernest Satow で1843年ロンドン生まれ。
Satowの父はドイツ東部からの移民。佐藤ではない。。

18歳の時に兄が図書館でローレンスオリファント著のエルギン卿遣日使節録を読む。この本には日本は東洋のおとぎの国のように書かれていた。
また、ペリーの書いた書物も読んでいる。
運の良いことにUCL(大学)で中国と日本へ行く学生募集の広告を見て即応募!主席で合格している。

1861年8月に任命され、まず北京に数か月滞在。
今からみると変なのですが、日本語をマスターするためには中国語をマスターする必要があるとされていたらしい。これは当時の常識との事。。

1862年9月に日本へ。通商条約後なので当時の横浜の印象は「外交官の掃き溜め」とのこと。

1861年に品川にあったイギリス公使館が襲撃を受けて横浜へ逃げている。これをきっかけに当時の外交官のオールコックは本国へ帰国。そして代理として軍人の〔ニール〕が来日。東禅寺を公使館としたが1862年にまたもや襲撃されている。これは日本人警備員が外人を殺害している。

そしてサトウはこのニュースを北京で聞いている。日本の治安に不安を抱いたサトウは鉄砲を購入、これは明治2年まで常備していた。

1962年9月には領事館付日本語学生という肩書で来日。

当時、品川御殿山に領事館を幕府により新築建設中。
ここは上野に並ぶ桜の名所でもあり東京湾を見下ろせる軍事的な要所。
もちろん孝明天皇は建設に大反対。ニールに中止を申し入れたがもちろんNG。
※実はこの交渉の際に幕府は「朝廷と戦争になったらイギリスは幕府側についてくれるか?」という交渉もされていたそう。
そして3日後には放火事件が発生!犯人は不明とされてるが実は伊藤博文ら13人は犯人。もちろんニールは幕府が裏で糸を引いて焼かしたのではないか?と疑っていた。

流暢な日本語のサトウはアメリカ宣教師のブラウン氏・ヘボン氏に習っていた。
裏話でサトウは芝居を見に行ったそう。
当時は外国人料金で法外な値段でありしかも悪い席。
その不平等さを流暢に啖呵を切ったらしい。小屋主は、サトウがその良い席に座るのなら芝居をはじめない!と言ったもののついに根負けしたらしい。それくら日本語は流暢。。

8/21に生麦事件が勃発。これはサトウにとっては日本人の考え方をしるチャンスと捉えていた。そして薩英戦争が始まる。
ここで参考になるのは「一外交官の見た明治維新」この書籍は長い間出版禁止。おもいっきり孝明天皇の崩御されたことも書かかれている。。割愛された書籍をへて岩波より完全版が発行されている。

今日の講座では、この「一外交官の見た明治維新」を読みながら日本側の記述と対比して薩英戦争のその捉え方の違いを確認していきました。

この戦争を通して薩摩は英国に急接近。留学生派遣や軍艦購入へ進んで行くと同時に長州も門戸をひそかに開いているのが面白い。

2014/03/15

2014 3/15 歴史と人間 近藤勇

歴史好きな人がきっと見ている「BS歴史館」が急に中止となり新番組が始まるそう。
4月14日の放映で一坂先生ご出演とのこと!見逃せません

また2015年の大河ドラマの「花燃ゆ」の制作発表会の資料をいただきました。
ご存知、吉田松陰先生の妹の文が主人公。演じるのは井上真央。。
さぁ・・どなることやら。。

また再来年より道徳の教科書に吉田松陰先生が取り上げられるらしい。これは戦前の修身の教科書依頼とのこと。
松陰先生は私も大好きだけど、強烈な天皇崇拝部分のみを取り上げる描き方には問題があるとおもう。一坂先生いわく松陰先生が強烈に取り上げられた時代があるという。
それは昭和11年~19年。この時代にたくさん出版されたがどれもクズのような転載、再掲載の内容ばかりで、当時の時代性に沿った内容であったらしい。

新撰組は思想のない単なる人斬集団でそこには政治的なビジョンなんでない!とされていた。
そのためまったく研究的な価値がないとされていたが近年はちょっと趣が変わってきた。

私を幕末史に夢中にさせるその魅力とは、その不可思議な点にあるとおもいます。
長州藩はその成り立ちから公家の流れを汲んでいるけれど朝敵となり、そして官軍となる。。
幕府の中枢であった慶喜さんやその成り立ちから忠誠を尽くした会津藩がいつのまにか朝敵となる。。これはひとえに大きな計り知れない歴史の流れがあり、どちらが良いか悪いかだけでは判断できない点にあります。
今日の近藤勇もこの大きな歴史に流された人物です。

天宝5年1834年 武州多摩川調布村に生まれた近藤勇。宮川家の三男で、家は豪農。
よく苗字について言われるが苗字は殆どの人は持っていた。ただ公認さえていなかっただけ。
この地域は天領だけど関八州で治安がよろしくないエリア。よく講談や浪曲で語られる股旅物のお話の「天保水滸伝」「座等市」や用心棒のお話でも登場している。
そのため農民らも警護のために剣術の稽古をしており天然理心流が盛ん。

嘉永2年~近藤周斎の養子となり理心流を継ぐ(近藤は4代目)となり試衛館を造った。

文久3年2月に「浪士組」の募集が行われる。
これは当時の危険分子であった不平浪士を集めて京都へ送り家茂の警護をさせるのが目的であった。そのため試衛館のメンバーも多数参加。

小石川にある徳川家の菩提寺伝通院に参集し2月23日に入京。壬生村へ分宿。近藤勇は八木家に泊まる。

ところが実際の目的は違っていた。
すぐさま御所に対し尊王攘夷の建白をおこなっている。その内容は家茂の上洛に際し攘夷の周旋を行い尊王を貫くことや、幕府のおかげで入京したけれども天皇のために働くという内容。
もちろん天皇は大感激!

2月29日には速やかに攘夷を行えという勅とともに、清川らは生麦事件の対応のために江戸に帰ることに。もちろん近藤や芹沢らは大反対。
そのため京へ残る残留組の16人以外は全員江戸へ帰ってしまった。
3月10日には松平容保に対し、京都へ残りたい旨の嘆願書を提出。それは天皇の守護や将軍上洛の警備と攘夷の実施を旨として12日に受理され正式にOKがでた。

3月23日には、16人が24人に増えた。
ドラマでは2グループだが実際は3グループあった。
それは試衛館メンバー・水戸浪人中心の芹沢グループ・下総浪人グループでこれは殿内義雄をリーダーとしていた。

しかし3月25日には近藤が四条大橋で殿内を殺してしまい下総グループは壊滅。
4月21日には、家茂上洛のために大坂へ移動し5月11日には入京。
5月25日には35人連名で鎖港を行うべく意見書を提出している。
この頃から土方らが近藤を批判。「近藤、天狗になり候」これは芹沢がいた水戸天狗党に絡んでいるともされている。

局中法度を定めその内容は士道に背いてはいけないなど。これは武士への憧れが強く感じられる内容であるが実際は、幹部連中が乱暴や狼藉を行っていた。
なかでも相撲取りとの乱闘騒ぎや商人へのゆすり行為や焼き討ちなどむちゃくちゃ!!

文久3年の8.18の政変では58人が蛤御門へ駆けつけたが会津には知られていなかったことからなかなか中へ入れてもらえなかった。その後、御所の警備を行った。

新撰組or新選組・・・どちらの表記が正しいのかは不明・・もちろん命名者も不明。。しかし名前が与えられたことから公認となりその地位が確立。

8月21日には京見廻りが決定。「手あまりの節は斬り捨て御免」というとんでもないこと!
しかし内部の紛争もあり9月半ばには祇園で切腹されたれたメンバーや芹沢の暗殺なども行われた。そして近藤の独裁体制が進められてゆく。
9月23日には周斎の様態悪化から近藤は江戸行きを願い出たが却下。

10月10日には祇園の一力楼で「国家之議論集会」が開催。薩摩、会津、土佐らの各藩の中に近藤が参加し、今の国港攘夷ではだめであり、海国攘夷を行うべし、そのためには公武合体が急務と意見、各藩の賛同を得る。

そして家茂の二回目の上洛で、守護職が容保から春嶽となる、このときに新撰組は松平容保に着いてゆくことが明確となり4月7日には容保が再任。弟の定敬(さだまさ)は桑名藩主で京都所司代。
一会桑体制が確立した。

元治元年5月7日 家茂は江戸へ帰ってしまうが、長州の処分や攘夷が決まっていないことに対して近藤は激怒。われわれは京を見廻るために着たのではない。新撰組を解散するとまで言い出し、早急に長州への攻撃と横浜の鎖港を決めてほしいと言い出す。

5月20日 天満橋で内山彦次郎を暗殺。大塩関連で手柄をあげた幕臣で新撰組VS相撲取りとの一件で新撰組を糾弾した人物。

5月末には周斎へ手紙を送る。
当時15歳の周平(昌武)という養子をもらう旨。自分はいつ死ぬかわからないために急いだ様。
周平はM34年神戸元町で53歳で亡くなる。山陽電鉄事務所勤務。

池田屋事変~22時頃から5人で乗り込み二時間も激闘!

そして12月25日に天皇の崩御・・長州が朝敵であるとしたまま、また兵庫の開港を決めないままの崩御であっただけにその後歴史の渦はどんどんと進んでゆく・・・・。

2015/12/14

2015 12/14 赤穂義士に思う

赤穂浪士の討ち入りが起こったのは1703年、そして南北朝時代の湊川の戦いがおこったのは1336年。また戊辰戦争は1868年で第二次世界大戦終戦は1945年。

すなわち、湊川の戦いから367年後に赤穂浪士討ち入りがあり、その165年後に戊辰戦争が、そして77年後に第二次世界大戦終戦となっている。

これらの共通点は。。

「七生報国」の考え方は「七回生まれかわってでも、逆賊を滅ぼし、国に報いてみせる」とした楠正成の言葉で、天皇にお仕えする気持ちと、自分が死ぬとわかっていても戦い抜くという気持ちの現れです。これが「忠義」でありこれは私的には『義』(正しいと信じる事)を『忠』(心を込めて尽くす事)する事にあります。この場合は、後醍醐天皇の為に尽くす事だったのでしょう。

そして1701年。天下泰平の世になり戦も途絶え、安穏とした世情におこった刃傷事件から発し赤穂義士の討ち入りが行われました。
47人誰もが生き延びるつもりもなくまさに「君臣湊川」の思い。
湊川の戦いで負けると分かっていた楠正成公の戦いを現した言葉だけが安静の世に「太平記」として精神論として残り、武士道と絡まり合って山鹿素行の唱えた山鹿流兵学での討ち入りを行ったのでしょう。

その165年後には戊辰戦争が勃発。
その原動力となった長州藩としての方針は「奉勅攘夷」であり「君臣湊川の思いで攘夷を行う」を明言していた時期があります。
 余談ですが私的に幕末史の興味深い点は、徳川体制の崩壊とともに各藩の思想が移り変わる点にあり、徳川命であった会津藩VS長州VS薩摩VS土佐等かな?と考えています。

77年後の第二次世界大戦。
「菊水作戦」と称する特攻、頭に「報国」の鉢巻。。
お国の為に自分の命をかける者を良しとする教育の原点に近いところが湊川の戦いなのでしょう。


戦後70年が過ぎた現在。

NHK大河ドラマで『花燃ゆ』が急に決定し吉田松陰先生の妹を取り上げる事の意味や
安全保障法案に秘密保護法にマイナンバー法案。
極東のわがままな国に、中近東のきな臭い昨今。

危険な方向に進んでいるような気がしてなりません。