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2015/12/14

2015 12/14 赤穂義士に思う

赤穂浪士の討ち入りが起こったのは1703年、そして南北朝時代の湊川の戦いがおこったのは1336年。また戊辰戦争は1868年で第二次世界大戦終戦は1945年。

すなわち、湊川の戦いから367年後に赤穂浪士討ち入りがあり、その165年後に戊辰戦争が、そして77年後に第二次世界大戦終戦となっている。

これらの共通点は。。

「七生報国」の考え方は「七回生まれかわってでも、逆賊を滅ぼし、国に報いてみせる」とした楠正成の言葉で、天皇にお仕えする気持ちと、自分が死ぬとわかっていても戦い抜くという気持ちの現れです。これが「忠義」でありこれは私的には『義』(正しいと信じる事)を『忠』(心を込めて尽くす事)する事にあります。この場合は、後醍醐天皇の為に尽くす事だったのでしょう。

そして1701年。天下泰平の世になり戦も途絶え、安穏とした世情におこった刃傷事件から発し赤穂義士の討ち入りが行われました。
47人誰もが生き延びるつもりもなくまさに「君臣湊川」の思い。
湊川の戦いで負けると分かっていた楠正成公の戦いを現した言葉だけが安静の世に「太平記」として精神論として残り、武士道と絡まり合って山鹿素行の唱えた山鹿流兵学での討ち入りを行ったのでしょう。

その165年後には戊辰戦争が勃発。
その原動力となった長州藩としての方針は「奉勅攘夷」であり「君臣湊川の思いで攘夷を行う」を明言していた時期があります。
 余談ですが私的に幕末史の興味深い点は、徳川体制の崩壊とともに各藩の思想が移り変わる点にあり、徳川命であった会津藩VS長州VS薩摩VS土佐等かな?と考えています。

77年後の第二次世界大戦。
「菊水作戦」と称する特攻、頭に「報国」の鉢巻。。
お国の為に自分の命をかける者を良しとする教育の原点に近いところが湊川の戦いなのでしょう。


戦後70年が過ぎた現在。

NHK大河ドラマで『花燃ゆ』が急に決定し吉田松陰先生の妹を取り上げる事の意味や
安全保障法案に秘密保護法にマイナンバー法案。
極東のわがままな国に、中近東のきな臭い昨今。

危険な方向に進んでいるような気がしてなりません。