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2009/04/18

◇2009/4/18 教科書に書かれなかった幕末史 革命家の矛盾と暴走

教科書に書かれなかった幕末史

萩市特別学芸員・山口福祉文化大学特任教授

(1)4月18日 吉田松陰「革命家の矛盾と暴走」
(2)5月16日 高杉晋作「英傑伝の裏に一族の悲しみ」
(3)6月20日 奇兵隊「栄光と挫折の6年半」

もう何回目になるでしょうか?萩の町は私の大好きな町のひとつです。

あたかも時間がとまっているような甍の波。
大きな時代のうねりを乗り越え現在にいたる様々な困難をいろんな歴史的建造物で感じる事ができます。

その歴史の渦の発端的中心的人物となった〔吉田 松蔭〕先生について、たくさんの書物を通して知る事ができますが裏事情や歴史的な背景についてなかなか知る事ができません。

21歳まで小さな三角州で暮らし、九州や江戸・・そして脱藩扱いとなった東北調査。運命を変えた密航事件に蟄居と野山獄での生活。

松蔭先生の一生は失敗だらけの一生。。まさにその通りでしょう。たしかそのことを自分でも留魂録に書かれていたと思います。

書物だけで知ると大人物ではありますが実は非常に人間臭い部分が多かった松蔭先生の様々な背景をする事ができました。

次回の高杉晋作さんのお話もすごく楽しみにしています。

【追記】(2011/6)
山口県の萩は少なくとも400年は変わっていない。
36万9千石 毛利家は1600年の関ヶ原の戦いでは西軍の大将として活躍したものの敗北し、三陽から山陰へ押し込められてしまった。
いまでも西にマクラを置いて寝る家があるらしい(東に足を向ける・・)それが幕末には経済力をつけ100万石へと発展。田地開発・産業開発・人材教育・・・。

父~百合之助(2人の弟)  ・大助~吉田家を継ぐ。  ・文之進~玉木家を継ぐ。
5才~大助が亡くなり養子にいくことになる。
吉田家~山鹿流兵学を教える家。→文之進が教えることに。
11才~毛利慶親(よしちか)藩主の前で講義をする。(当時、慶親は23才)で、「そうせい候」というあだ名があったらしいが、これは人を見る目に優れていた。
※毛利慶親は禁門の変以降は朝敵となるため【慶】を【敬】に変えさせられている。
21才~兵学修行のために九州へ(9月~12月の4ヶ月間)
・オランダ船、パンを食す。
平戸藩は山鹿流の本家。この場所でアヘン戦争のことを知る。
22才~江戸遊学
宮部鼎蔵(山鹿流)と日本の防衛について、特に日本海側の防衛について危機を感じる。
12/15~江戸を出発予定(討ち入りの日に東北へ経つことに)
しかし手形は無し・・まるで子供の発想のよう。
24才~1853年(嘉永6年6/3)黒船
この時の手紙では「来年は日本刀の切れ味をみせてやる」と書かれている。
佐久間象山~江戸で塾を開いていた。(松代藩)西洋+儒教を教えていた。
※伊曽保物語(イソップ物語)を読む~戦国時代にはすでに日本にあり!→馬鹿同遊
東洋の道徳→儒教の教育・西洋の芸術(科学技術)→和魂洋才

江戸から長崎への移動の際に京都に立ち寄る。
10/2~山河襟帯の詩~今回の黒船の件は天皇も心を痛めておられる。
※長崎でプチャーチンの船に乗りたかったが、すでに出航したあと。→Shock!

●1854年1月 ペリー2回目の来日
●安政元年3/3 「日米和親条約」
  下田、函館の港を開く、米人の漂流は助ける。

「世の人はよしあしごともいはばいへ 賊が誠は神ぞ知るらん」→下田にて
親元預かり(幕府)→野山獄へ(萩藩)11人(武士、内9人は家からの預かりで刑期すら無い人)

25才 1年2ヶ月で618冊を読破。野山獄を福堂にするため、講義が開始される。
実家で謹慎 →松下村塾

●安政5年6月へ 日米安全通商条約 (自由貿易)→不平等条約→孝明天皇は大反対!
          国内の金が海外へ流出・・。

徐々に過激化・・・人の心が離れてゆくことに。。そして再び野山獄へ・・。
※父の病が不安で野山獄には行きたくなかった

門下生  「松蔭先生、じらをくり 罪を聞かないと獄に行かない」という手紙が出てきている。