この3月の講義で、ちょうどまる3年となる「教科書に書かれない幕末史講座」。
なのでこの4月から3ヶ月間はいままでにない現地の探訪が企画されているとのこと。
4月は奈良県五條市、鷲カ口で天誅組の足跡を追うことに。私も個人的には五條の桜井寺、代官所跡を
訪ねたことがありますが、鷲か口までは行ったことがありません。そして5月は大阪玉造から四天王寺の
間の約7キロを散策する徒歩旅行。6月は西宮、神戸の散策となります。
さて、現在でも仲が悪いとされている長州と会津。いずれも明治政府の犠牲者であるといえます。
とくに腐敗し堕落しているという印象が強かったそう。萩の乱の首謀者である前原一世、東京思案橋事件の首謀者の永岡久茂が一緒に写っている写真があり、当時は共に戦う同士であったのは事実。
明治9年12月8日に、明治政府へ報告書が提出された。
それは薩摩に創設された私学校の動きが活発化しているというような内容でした。
たしかに銃隊学校と砲隊学校からなる私学校は軍隊でありしかも兵器を貯蔵し各地より集まってきているらしい。これというのも士族の特権がなくなることで生活不安によることが原因。
この動きを察知した政府は、明治10年1月より三菱の汽船をチャータして次々と政府の武器や火薬を運びだそうとしていた。これが良くなかった。。。1月末より断続的に陸軍や海軍の武器や弾薬倉庫が襲われはじめ無法地帯と化していく。
実はこの事件が起こっている時は、西郷さんは大隅半島へ狩りに行き、のんびりと過ごしていた。そんなところに情報が入る。おもわず「しまった!と言ったらしい。
また、政府は西郷を暗殺するための情報収集のために密偵を放っているという噂が流れ始め、実際にその密偵を捉え、拷問により、川路利良が西郷暗殺の指令をだしたことが発覚!これが引き金となり、私学校の怒りは頂点に。川路利良は薩摩藩士で初代の大警視。日本警察の父。
2月になると1000人規模で造船所が数回襲われ、ついに閉鎖。
責任者の管野覚兵衛は東京へ帰るために県庁に預けていた29700円の返金を求めたが県庁は2500円しか持っていなかったらしい。
ついに私学校でも火薬が製造開始。桐野利秋、篠原国幹、村田新八らが中心となった。
2月3日になると西郷が大隅半島より戻ってきた、その後、私学校へ。11日には英国人の医者のウイリアムスとアーネストサトウに会うために出かけたが、西郷の周りは20人くらいの私学校の連中が護衛をしていたそう。
7日には大山県令を訪ねて下記の願いをだしている。
【今般政府への尋問の筋これあり 明○○当地発程致し候間】
これが西郷さんにおける戦争の理由だと言われている。やはり武士の特権が次々となくなったのが原因なんだろう。
13日にはついに西郷軍が編成される。これは歩兵5大隊(1万人)・砲兵(4千人)という巨大な軍。14日には各県に対しし、我々の通行を許可する旨の通知がだされる。
翌日15日、50年ぶりという大雪の中、西郷軍は出発した。
西郷小兵衛(弟)のプランでは、熊本鎮台(熊本城)を落としたあと、長崎も制圧。こうなれば東北の同士たちも立ち上がるはず。という予定。
しかし、この案に桐野利秋が反対。「正々堂々と戦うべきだ。どうせ相手はとるに足らない農兵だ!」いう案。
政府軍は元々は農民だから簡単に制圧できるという考え。そのため西郷軍はこの戦いを簡単に考えていたらしい。東京の知人に手紙を持って行ったり、おみやげを持参していたそう。
2月23日に熊本城への攻撃が開始された。
この数日前の16日には大久保は京都にいた。この数日間の動きからいざとなれば勅使を派遣すれば収まると考えていたよう。ところが事態は悪化。19日には征討軍が編成され神戸より続々と出発、その数58000人。
2月25日には西郷の官位が剥奪。26日には政府軍は博多へ到着。
この間もずっと熊本城への執拗な攻撃は続くが、なかなか落ちない。持久戦になったためにどんどん戦線が拡大してゆくことになる。13日には有名な乃木さんの隊旗紛事件がおこる。これは奪われた説や、床の間に置き忘れられていた説もあるらしい。
そしていよいよ田原坂合戦に続いてゆく。
熊本城のゆるきゃらで有名なクマモンの前は実は西郷さんだったらしいがこれは鹿児島側からクレームがついたそう。
この田原坂は超激戦となる。現在は史跡公園だそうだが昭和末期のあたりででもふつうに銃弾が出てきていたらしい。
3月20日にはいよいよ総攻撃。会津藩で結成された抜刀隊を編成し、薩摩に向けたのはイヤな感じがする。
そのまま様々な箇所で戦火がありついに政府軍は鹿児島に入る。
9月1日には城山に400人程度が立てこもる。
19日には政府で会議があり24日に総攻撃する事が決まる。
22日には白旗があがり政府軍と話がしたい旨通知がある。
そして24日の朝4時には総攻撃開始。7時には西郷に流れ弾が当たり負傷。そして自決となった。
この西南戦争の戦費は4200万円。このあと、超インフレがまきおこることに。
明治22年憲法発布、このときに西郷とキリノの賊めいは取り消されたが、靖国には奉られてはいない。南洲墓地に眠っている。
尚、西郷さんの銅像は私たちがいイメージするのは上野公園。元々は日比谷に、馬にまたがっている西郷さんを計画していたらしい。
この西南戦争では官軍6800人・薩摩軍5000人が亡くなった日本最後の内戦となった。実際、明治政府は
徴兵制で採用した兵隊らで本当に士族と戦えるか自信が無かったらしい。