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2014/01/18

2014 1/18 歴史と人間  小笠原長行

2014年は午年。あと12年後の午年は丙午。
人口の統計グラフでも有名なように丙午は人口がぐっと減る。これは丙午の女性は男を不幸にするという言い伝えがあるからで、その原因は江戸初期におこった実話(?)の「八百屋お七」が原因。私の愛読書であった井原西鶴『好色五人女』で一気に有名になったらしい。
今から48年前の丙午の年も同様に人口が少なくなってることから、当時の方々はその迷信を信じていたことがうかがえる。
皇女和宮も丙午の女性であり、公武合体作に難色を示した孝明天皇も和宮降嫁の根回しの際に、丙午の女性であることを理由に反対したそう。

昨年11月/12月の講座に参加できないことから久しぶりのお勉強会。
今日は小笠原長行(1822-1891(M24/1/25))。
最後の一歩を踏み込まなかった為に歴史の表舞台に出てこなかった数奇な運命の方です。

父の小笠原長昌(ながまさ)は陸奥棚倉藩の第3代藩主。国替えにより唐津藩(肥前)の初代藩主で長男として生まれたのが長行。幼名は行若(みちわか)。
藩主の長男として生まれたのだから将来は約束されたようなものだけど、運命はとんでもない方向へ進んで行く。

唐津藩は島原藩とともに譜代大名として長崎の警備を行うという重責と外様大名を監視する役目があったために、すこし特殊なルールがあった。
それは藩主が幼い時は国替えを行い別の藩主と交代するというもの。
当時の唐津藩は6年前に陸奥棚倉藩から国替えをしたばかりなので莫大な借財を背負っていた。
そんな時に藩主の長昌が急死(28歳)する。当時、行若はわずか2歳。このままではまた国替えとなり借財が増えてしまう。もともと行若は側室の子供であったので幕府へ届けていないことを良いことにして他藩より養子を迎えて乗り切ろうとした。


 出羽国庄内藩主酒井忠徳の子の長泰/小笠原長保の次男の長会/ 大和国郡山藩主柳沢保泰の九男の長和など17年間で養子を4人迎えたが次々と隠居や亡くなるという不幸が続く。
そして信濃国松本藩主松平光庸の次男の長国が藩主として迎えられた。

当時行若は敬七郎(21才)。完全にスルーされている本家筋の敬七郎は江戸へ出てゆき学問に励む毎日。
そんな唐津藩の西脇多仲という家老が敬七郎を世に出す為の工作を行い、敬七郎を長国の息子という事を考え土佐の山内容堂らを使って成功。これにより息子の方が父よりも2歳年上という親子関係が成立した!(1857 9/21幕府よりOK)
もちろん、松本藩をはじめ長国派の家老の前場小五郎よりクレームを受けたが押さえ込んでしまう。
この時に敬七郎から長若を経て長行(ながみち 36才)となり幕府より図書守を命ぜられる。

安政5年正月に容堂(22歳)より誘いがあったが、わずらわしい人間関係は苦手とこれをスルーする。これが4回続く。そして5回目。ついに江戸土佐藩邸へ出向いた。
しかし容堂公は出てこない。そのまま3時間待たせた挙句にべろんべろんに酔った容堂が、きつい嫌味を言って去って行ったらしい。そして翌日容堂公より、この非礼を詫びる手紙が届いたそうで、これは長行の人物観察が狙いであったらしい。

4/26に江戸を出て唐津に戻り藩主名代という役職に就く。
この翌月より時勢は安政の大獄旋風が吹き荒れた。
唐津では当時藩政改革の一環で引き割りという政策が行われていた。これは給料の2割をカットして3年前の大地震で倒壊した江戸の唐津藩藩邸の復興を目的としていた。
引き割りを中止させようとした長行はまたしても前場小五郎と対立。

様々な改革を行う相談や結果を江戸にいる長国へ手紙で事細かに知らせていたが
ある日ぷっつりと返事が途切れる。
そしてついに「容堂公を使ってわたしを隠居へ追いやるのは卑怯だ」というような手紙が届き長行は驚いた。これは前場小五郎らが企んだ陰謀であることを突き止め隠居させ関係者らも処分した。

文久元年(1861 3月)江戸に呼ばれる(40才)
当時の長行は、開国はしょうがないことだが、安政の大獄には否定的。そのため彦根藩に対する処分を意見として持っていた。

6/7 島津久光が大原重富とともに江戸城へ入り 、薩摩の軍事的圧力を背景に攘夷の決行や、一橋慶喜(徳川慶喜)を将軍後見職、前福井藩主・松平春嶽を政事総裁職に任命することをむりやり承諾させた。

7/21 長行は奏者番を任命され、名実ともに幕府の一員となった。
8/10 奏者番廃止論を提出。
8/22 奏者番を廃止。この時期は無駄を省くという流れがあった。
    ※文久3年1月には奏者番は復活している。
8/19 若年寄となる。これは異例の大出世!
9/11 老中格となる。これにより1万俵+屋敷をGET!
10/1 外国御用掛 これにより大名行列の際には2本道具(槍を立てる事)をゆるされる
    この時に井伊家に対し10万石を削る処分を行う。
10/28 勅使が来て将軍家茂に対し攘夷の返答を迫る。そして家茂自らが京都へ出向く事に。

先行して長行が下見を命ぜられた。その際に現在の神戸の摩耶山に登り周囲を見渡しこれを八州峰と命名している。


翌年、将軍が入京の予定の3/4。朝7時に出発し午前中に到着する時に事件が起こる。
当時の京都は攘夷派が京都を引っ掻き回しており彼らの陰謀により
京都の公家らが伊勢へ参拝するために東海道を使ってはダメという知らせが未明に到着。
これは、途中、公家らにすれ違った時に難癖をつける陰謀そのもの。
すぐさま長行を朝の4時に呼び寄せ相談。結果1時間後の5時に出発することとして無事に回避。
9時に入京となった。

3/7 家茂さん、御所入り。
3/11 家茂さん、行幸のお供をさせられる。帰りたくてしょうがない。
 そのため無理やり攘夷の期限を5月10日と約束させられてしまう。
3/13 長行に、すぐに江戸に行き生麦事件の処理をするように命令が下る。

当時、幕府では全員一致で賠償金の支払いを決めていたが、このまま決定してしまうと
京都にいる攘夷派が激怒すること必死で将軍が危ない。
かといって賠償金を払わなければ英国との戦争が起こり、横浜は火の海になる。
長行はわざと支払反対派としてできるだけ時間を稼ぎ、ついに26万9060両(10万ポンド)を支払うことを決定。

5/30 そしてすぐさま京都にいる将軍の救出を目的として5隻の船に1600人の兵隊を載せて大坂に向う!
京都には将軍の入京のときの3000人の兵がいるから合わせて4600人の軍隊が出来上がり、そのまま尊王攘夷派を蹴散らそうとしていた。
枚方から淀へ進軍していたその時に、家茂より手紙が届く。その内容は、入京してはいけないとの命令が書かれていた。
そしてついに断念。これが実行されていれば間違いなく歴史は変わっていただろう。

6/6には差控処分が下された(謹慎処分)図書守から壱岐守となる。
9/4老中となり長州征伐担当、軍制改革をおこない小倉口の担当となる。
激戦があったものの晋作らに翻弄されたと同時になんと家茂急死の知らせが入る。すぐさま孝明天皇より休戦の命令を出していただきあっけなく軍は解散へ。
唐津藩は新政府側についたものの、長行は長国との縁を切り奥羽列藩同盟から五稜郭への戦いへと舞台を移す。

明治2年から5年までは行方不明で7/5にふらっと新政府軍げ自首。その言い訳は行方不明の間はアメリカに渡っていたとのこと。実際は東京妻恋坂付近に潜伏していたらしい。そのまま政治に翻弄されることなく明治24年まで生きた。
息子の長生(ながなり)は明治海軍の中将。


時代は戻るが文久三年。
坂下門外の変の姉小路公知が襲撃された事件で有力犯人の田中新兵衛はいきなり割腹自殺をしてしまう。
実はこの少し前の4月には海舟らと摂海の視察に同行している。
ひょっとしたら長行はこの時に公知と密約をしていて、軍隊を率いて入京した際には公家側からの応援の約束を取り付けていたのかもしれない。


辞世の句がユニーク。。

夢よ夢
夢てう(ちょう)夢は
夢の夢
浮世は夢の
夢ならぬ夢

まさにあと一歩を踏み出していれば間違いなく時代は大きく変わっていたことだろう。