放送大学4月3日放送の「特別講義 幕末の日本人が見たアメリカ~万延元年遣米使節の異文化理解~_20160403 鈴木 健次(大正大学名誉教授)」を拝聴。
玉蟲左太夫さんのお話にすごく興味があって私なりに取りまとめてみました。
生まれは文政6年(1823年)没は 明治2年4月9日(1869年5月20日)仙台藩氏。
ということは、勝海舟さんと同い年。
1860年(万延元年)日米修好通商条約の批准書交換使節団の一員として渡米。この使節団の目的は日米修好通商条約批准書の交換。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/akebono/11.html
そして、この准書交換使節団は開国後はじめての公式な使節団で、正使は外国奉行兼神奈川奉行の新見正興の者として参加。ちなみに従者は全部で8人。
副使は外国奉行兼神奈川奉行・函館奉行の村垣範正、 監察は小栗忠順、勘定方は森田岡太郎清行 。 一行はポーハタン号で1月22日に出発、総勢77人。3月9日にサンフランシスコに到着。以降パナマ、ニューヨーク、ワシントンをめぐる。
また、万が一に備えて「咸臨丸」も参加。こちらには使節の護衛のほか海軍士官の遠洋航海実習として、勝海舟船長をはじめ、福沢諭吉、ジョン万次郎等が乗船し、総勢107人。
「毎日が箱の中で地震にあっているような具合だった」(福翁自叙伝)
「その風つねに西北にして曇天、美日少なく日夜霞雹雨雪を擁き、時として濃霧降りて・・」(勝海舟)
2月26日に咸臨丸はサンフランシスコに到着。浦賀を出て38日目。
そして西暦5月9日には帰国の途についた。浦賀到着は端午の節句の5月5日(45日間)でした。
いまから6年前の2010年には万延元年遣米使節・咸臨丸150周年(2010年)として下記のイベントが開催されています。
http://www.ny.us.emb-japan.go.jp/150JapanNY/jp/index.html
そして玉蟲左太夫さんは帰国後、「航米日録」を記述。
鈴木健次大正大学名誉教授さんの講義で、日本人がはじてめ見たアメリカ人の感想は二極化されていることを知りました。
儒教教育である日本人を優位にみて禽獣の如しとみる者や、合理的なものの考え方のアメリカ人に敬意を表する者など様々で、玉蟲左太夫さんはもちろん後者。
近代日本の礎となった、そんな優れたかたも奥羽越列藩同盟による戦争の戦犯として処刑されることに。
<2011 2/12 教科書に書かれない幕末史 長岡藩と河合継之助 >参照
http://sweet-mikan.blogspot.jp/2011/02/2011-212.html
歴史は本当に過酷です。