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2017/03/26

2017 3/26 串本&那智旅行 第二日目

せっかくお部屋から太平洋が一望できるんだから・・と日の出は見逃したくない!そんな思いでばっちり日の出の時間には目覚めたものの生憎の曇り模様で太陽が見えませんでしたがそれでも瞬間の日差しを狙ってパチリ!



さて、期待の朝食はバイキング方式です。
取り切れないくらいの品数ですが、ホールに入るまで長蛇の列。朝7時の朝食タイムは大混雑でしたがそれでも十分においしく頂戴いたしました。
焼魚もまぐろ茶漬けも美味!梅干しもおいしぅございました。

わぁあ!神保彰さんのサインめっめ!
日本FUSION界のドラマー大御所でCASIOPEAのドラマーです。
COTTONを経て発売されたSHAMBARAの完成された骨太サウンドも、JINSAKUや熱帯JAZZ楽団も大好きです。



朝食を済ませ快晴の午前中の内に予定を回りたいとおもいます。
まずは紀伊大島先端にある樫野崎灯台を目指します。

この灯台は明治3年イギリス建築技師のヘンリー・ブラントンが建築に携わっているとの事。
明治3年といえば戊辰戦争から東北/函館戦争が終結した翌年。
明治新政府もまだまだ軌道に乗らず、萩の乱や西南戦争へ続く士族の反乱を含んだあたり。

条約灯台(江戸条約)であるだけに建造を急いだようですが大変立派な灯台で驚きました。また横にある宿舎も同様うに建造され1970年まで実際に使用されていたそうです。数々の台風でも壊れることのない重厚な石積み建築で、北側のガラスの一部やドアノブ等やフロッグコート掛けは建造当初のものが実際に残っていました。室内の暖炉の装飾や木目塗りも貴重な資料でした。



途中には昭和4年に昭和天皇行幸を示す碑がいくるかあり、野点をされた場所やまぐろ漁をご覧になられた時に船を出した会社等の碑が確認できました。


ちなみに昭和3年に張作霖爆殺事件がおこり、日本は満州事変へと進んで行った時代です。

さて、今回の旅の目的は【海難1890】で触発された私の好奇心です!

途中にあったトルコ船殉難の慰霊碑に手を合わせたどり着きました。トルコ記念館です。



ここでこの事件をおさらいします。



1887年に行われた小松宮夫妻のイスタンブール訪問の返礼をおこなうためにオスマン帝国海軍の航海訓練を兼ねて日本へエルトゥールル号がやってきました。東京で目的を終え祖国へ帰るはずが、コレラの発生等で大幅に予定が狂い急いで帰国を目指すがおりしも9月の日本は台風シーズン。船甲羅と呼ばれる難所で座礁し600名が海に投げ出され70人弱の生存者となった。このとき、自分たちの衣食をもって助けたのが串本の方々でこのエピソードが元となりトルコと日本の親交の基盤となっています。


1985年のイラク戦争のときのトルコが日本人の救助をしてくださった事へとつながります。



このトルコ記念館は、座礁殉難した場所のすぐ前の断崖絶壁の上にあり当時の詳細な日誌等が残っていました。
9月16日の台風の真ん中の夜中に血みどろな姿で樫野崎灯台の雨戸をたたくトルコ人の船員。もちろん言葉は通じないものの図鑑の国旗から国籍が判明。灯台の明かりを頼りに断崖絶壁を必死に上ってきた人々を救助、そして夜通しで次々と救助に向かう村人たち・・・。
そしてこの行為が1985年のイラク戦争のエピソードへとつながりトルコと日本の友好が強くなっていきました。




次のアメリカ修好記念館までは車で10分くらい。細い道を抜けて到着!



1853年の黒船到来の62年前の1791年にレディ・ワシントン号がこの樫野崎を訪れています。この船は帆船で目的は毛皮貿易。


この数年後に蒸気船が運用されていますから恐るべし産業革命。
黒船到来の情報は早くから江戸幕府はつかんでいたらしいがこのレディ・ワシントン号の件は全く知らなかったはず。十一代将軍徳川家斉の時代でたぶん寛政の改革のあたり。

この建物から原生椿のトンネルを進むと海金剛と呼ばれる巨大な岩礁がありました。




これが海金剛!いかつーい岩です。


さて、今回の旅の最終目的地の串本海中公園へ到着。





うつぼ~♪


白身の魚~♪


ウミガメの赤ちゃん~♪

水族館やまぐろの餌槍体験に海中公園を楽しんだ後一路大阪へ帰る途中に激しい雨。
なんともラッキー!

ということで無事に恒例の春旅行も終わりました。