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2022/01/18

人としての進歩の鍵はどこに?

 この年末年始に娘が孫(1歳6か月)と共に1週間ほど帰省。おかげで楽しい年末年始を過ごすことができました。そして1週間ほど前にも3日間程度帰省。遠方ではなく車だと1時間程度の距離なので帰省自体は大層なものではないのですが、わずか10日間ほど会わなかっただけなのに、孫の成長が目覚ましい。。

前回までできなかったことができ、片言ではあるものの語彙が増え、でんぐり返り等の身体発育も目覚ましい。

本人はその自覚は無いだろうが間違いなく進歩しています。

で・・私は進歩したのか?

出来なかったことが出来るようになったか?新し事を覚えたり学んだか?

大人になると、進歩が止まるのはなぜなんだろう。外的な刺激が無くなるからか?それとも平々凡々にすごす方が楽なことを知っているからなのか?

まだまだ知らないことも分からないこともいっぱいあるのに、学ぶ姿勢が無くなることが怖い。

老眼が進んだから本を読むことが辛くなり、日ごろの移動に車を使うと、道端の草花に目をやることもない。

齢を重ねると新しいジャンルの音楽でさえ聴くことが億劫になる。

あれだけ熱中したテレビゲームも埃が被っている。音楽機材は売り払いトランペットやギターはケースから出すこともない。

なにか小さな事でもいいから日々進歩を心がけたいものです。

2022/01/07

祝!映画化!<峠 最後のサムライ>

先日、本屋さんへいったときに、司馬遼太郎「峠」が山積みされていました。書籍の帯には

「待望の映画化」とある!これは見なきゃダメな映画ですねー。

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河合継之助さんに関する映画は【河井継之助 駆け抜けた蒼龍】をすでに鑑賞済。

https://sweet-mikan.blogspot.com/2017/07/2017-716.html

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会津藩、庄内藩赦免を目的としてできた奥羽列藩同盟だが、肝心の新政府軍は代表仙台藩の謝罪をまったく受ける気がない。江戸の彰義隊騒動で上野寛永寺の住職をしていた北白川宮能久親王(輪王寺宮)は東北て避難してきている。いざとなったらこの輪王寺宮を担ぎ出して、南北朝の再来をも考えていたらしい。

さて、ここで気をつける点は、この奥羽列藩同盟は戦う為の同盟ではなく、あくまでも戦争を回避する為の同盟。そこに、新発田、村上、松村、三根山、長岡、黒川の各藩が加わり奥羽越列藩同盟へと拡大することになる。(ちなみにこの新発田は、赤穂浪士で有名な堀部安兵衛が生まれたところ。)
この奥羽越列藩同盟の共通認識はひとつ・・それは<長州に対する不信感>。
たしかに、京都を騒乱に巻き込み天皇から長州は朝敵であると烙印を押されたはずの長州がいつの間にか新政府軍として我々を攻撃しようとしている・・。たしかにこれはおかしいと思うのも当然。

 会津を制圧する為のTOPは九条直孝。鎮撫総督の名称であったはずが征討総督への呼称変更され5/11には会津征討大総督が決定。
そしてその作戦はあの大村益次郎さんが担当した。その作戦の本意は『枝葉を絶って根幹を孤立させる作戦』そして、その作戦参謀は下記の二人。
薩摩の黒田了介(後の北海道開拓)、長州の山県狂介(後の軍閥の親分)が担当する。

閏4/12、新潟の高田に到着した官軍は信州藩と合流。この信州藩を率いたのは土佐の宿毛出身の岩村精一郎。この時若干23歳。
すべての軍を山道軍(岩村)と海道軍(山県、黒田)に分けそれぞれが会津に向かった進軍を開始した。
閏5/2には山道軍は小出島を制圧し小千谷へ。海道軍は鯨波海岸で桑名軍を撃退。ちゃくちゃくと進軍を行う。

さて、今日のこの舞台はここからはじめる。
閏5/2に、河合継之助がこの小千谷にやってきた。目的は嘆願書を渡すこと。
河合継之助は長岡藩の家老職で長岡藩は7万4千石。<常在戦場>を訓とした質実剛健な藩。
藩主は牧野忠訓(ただくに)。あの山本五十六さんのご出身地。
河合継之助は変わり者だが人望のあつかった方で、遊郭好きだったが藩命として遊郭よ博打を禁止し、武士の石高は100石に統一するという大改革を行っている。
遊郭大好きな継之助のことを揶揄した詩「かわいかわい(河井)と今朝まで思い 今は愛想もつきのすけ(継之助)」がのこっている。また、藩はフランス式の軍制を布いていてガトリング砲を保有していた。

さて、嘆願書を作成するに至る考えは下記の通り。
・会津や桑名と心中するつもりは無い。
・奥羽越列藩同盟を裏切ることは出来ない。
・この戦いは薩長の私戦。
すなわち、長岡藩は中立の立場を貫きたいとのこと。

この骨子をもって慈眼寺にて岩村精一郎と話し合うことになった。

ところが岩村は、その嘆願書を見ることもなくあっけなく却下!
長岡藩の態度をはっきりさせろ!はっきりしない藩は敵である!と、まぁ明快なこと。

宿に帰った河合は『この上は戦あるのみ・・・』と呟いたそう。
報告を受けた長岡藩は、打倒薩長で意見は統一された。
この時、藩士の小林虎三郎のみ大反対したらしい。
ちなみにこの小林虎三郎さんは、小泉純一郎さんが有名にした<米百表>の方。

<米百表>
北越戦争で敗れた長岡藩は、7万4000石から2万4000石に減知、領地は焦土と化し藩士たちは貧困状態となった。そのときに支藩三根山藩から百俵の米が贈られることになり、これで飢えも免れると喜んだ藩士を尻目に藩士の小林虎三郎は、すべて売却し学校設立の費用にすることを決定。「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」と諭した。

閏5/4には奥羽列藩同盟に加盟した長岡藩。1500人の兵隊が最新式の装備を持って官軍に戦いを挑むことになる。(北越戦争)

戦いの要所の榎峠を得るために進軍し見事獲得。この時、指揮官の岩村は酒を飲みながら談笑していたらしく、助けに来た山県に叱責されたらしい。
5/13には朝日山を目指す。この戦いで長州の時山直八氏(吉田松陰先生の弟子)が亡くなり、山県が詩を残している。

敵(あた)まもる砦の篝(かがり)かげふけて夏も身にしむ越の山風

官軍は作戦を変更し5/19に長岡城を攻めることとし、ついに運命の時が来た。

大手口で河合自らがガトリング砲を操作し、応戦したもののついに長岡城は落とされてしまい、河合は牧野父子を会津へ逃がすことになる。
5/22には長岡城の奪還計画を立て7/24には足場の悪い八丁沖を越えてなんと、奪還に成功した!この時の長岡軍の気迫は鬼気迫るものであった。

もう山県びっくり!妙見山へ敗走した官軍。

ところがこの戦いで河合継之助が負傷してしまう。実はこのときに外山虎太という河合継之助を師と仰ぐ方が従軍していた。河合は、この青年を『虎や・・虎や・・』と大層可愛がっていた。
河合の受けた傷は破傷風へ。ついに脚を切り落とす大手術をすれば助かる・・ということで戸板に乗せて会津へ向かうことに。

         八十町 腰抜け武士の行く峠

自嘲ぎみの句を残して河合は亡くなってしまった。
実は河合は自分の死期が近いことを悟ると、虎に『これからの世界は武士ではなく商人・・』福沢諭吉への紹介状を書いて手渡したそう。

のちに外山修造。
日銀の初代理事となり、次は朝日ビールを起こし
http://www.asahibeer.co.jp/area/03/15/nagaokajin/

阪神電車をおこした。
http://www.hanshin.co.jp/company/about/history01.html

ちなみに阪神タイガースの虎は、外山虎太からきているそう。

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シネマトゥデイより引用)
『蜩ノ記(ひぐらしのき)』などの小泉堯史が司馬遼太郎の「峠」を映画化した時代劇。越後長岡藩の筆頭家老である主人公が激動の時代を生きた姿を、スクリーンに焼き付ける。主人公を数々の主演作を誇る役所広司、その妻を『ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~』などの松たか子、主人公の父をダンサーで『蜃気楼の舟』などに出演した田中泯が演じる。

2022/01/05

忠臣蔵って何??

 年末年始のテレビ番組で様々な言葉を若者に問いかけて何パーセントが知っているかどうか?を当てる番組がありました。「PHS」や「カール・ルイス」「iモード」等など。でなんと1%しか知らない言葉が「忠臣蔵」だそうで、愕然としました。

たしかに、現在の俳優で忠臣蔵のテレビドラマを再現するには資金がかかりすぎますよね。セットが多く、江戸城松の廊下、赤穂城内、吉原の風景、松坂町吉良邸等。それ以上に演出によって忠臣蔵のどこに重きを置くかで相当変わってきます。

2021年年末にBSで「忠臣蔵〜決断の時」が放映されていましたので久しぶりに鑑賞しました。中村吉右衛門さんの内蔵助、橋爪功さんの上野介。やっぱ良いもんですね。

本伝を取り巻く様々なエピソードの中では天野屋利兵衛さんの武器調達に関するところや内蔵助東下りの垣見五郎兵衛さんの話、そしてなんといっても南部坂雪の別れ。赤垣源蔵 徳利の別れはいつもグッとくるし・・まだまだありすぎて選べないです。

そういえば数年前に公開の「決算忠臣蔵」も面白い視点で書かれていて秀逸だったし、寺坂吉右衛門と瀬尾孫左衛門にスポットを当てた「最後の忠臣蔵」も新鮮でした。

さて、忠臣蔵の柱となっているキーワードはなんといっても「忠義」。この忠義という言葉は色々と利用されており、古くは「太平記」の湊川の戦い(1336年)。主君のために負けるとわかりながらも果敢に戦かった楠木正成。この太平記は江戸時代に書物として出版されており、また講談師の方々が語っていたそう。平穏な江戸時代に入り文化が発展すると庶民も親しんでいたのかもしれません。それだけに湊川の戦いから360年ほど経過した1702年の元禄時代に「主君の仇をうつ」という部分が美化され、また大好きな松陰先生も教えておられた「山鹿流」の「武士とはこうあるべき」という要素もあって江戸町民は仇討ちを賛美したのかもしれませんね。もちろん幕府は圧力をかけたのでしょう。

この忠義の心は戦争を軸としたプロバガンダにも利用され「君臣湊川」⇒「君臣報国」へ。現代も時々街宣車に大きく君臣報国と書かれて町を走っていることがあります。

昭和の高度成長期には、終身雇用である代わりに愛社精神が求められ忠誠や社是を声高々に叫ばされ「24時間戦えますか」等と言われていた時代がありました。いわゆる洗脳のような状態で新興宗教にも当てはまったのでしょう。

浅野内匠頭さんの自生の句。。
風さそう 花よりもなお 我はまた  春の名残をいかにとかせん

大石内蔵助さんの辞世の句。。
あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる  浮世の月にかかる雲なし

そういえば立川志の輔さんの落語「忠臣ぐらっ」でもいいし、Youtubeでも2分でわかる忠臣蔵などもあります。
きっかけなんてなんでもいい!ぜひ若い方々にもぜひ知っていただきたい物語です。