大きく歴史が動いた幕末・・なかでも白昼堂々と老中を暗殺したいわゆるテロ事件が大きく歴史を変えた桜田門外の変。江戸城桜田門外で起こった事件ですが、実は大阪でもこの事件に連動していました。
戊午の密勅(幕府を飛び越えて水戸藩に直接に勅が下る)により、勅を幕府に返すのか返さないのか?返すならば天皇に返すのが筋・・いや・・返す必要はない・・・水戸藩の中で様々な論議の最中に井伊直弼が行った安政の大獄と呼ばれる時期将軍継嗣問題で井伊直弼は血筋を重んじる南紀派に対し実力を重んじる一橋派を弾圧することで、水戸の徳川斉彬を封じ込めたことで、水戸過激派がさらに過激に進むと同時に薩摩藩島津斉昭が数千人の兵を連れて上京する・・。江戸と大阪。京都で事を起こすそんなプランがドタキャン。。島津斉昭が病死し次の藩主島津久光たちは上京しなかった。。
生國魂神社の大鳥居を正面に見て左手に石碑があります。川崎孫四郎は幕末の志士で水戸藩士です。桜田門外の変における大坂での連絡役を務めた人物です。生國魂神社前で自刃を企てて翌日亡くなっています。勤王の志士と評価されて明治中期に正五位を贈られているようです。その明治の時点での顕彰碑だったのでしょうか。わかりやすい説明はなく、同じく桜田門外の変にかかわった島男也(しま-おなり)旧居跡の碑ときれいに並んでいました。こちらは生國魂神社の境内に道場を構えていた武術家だそうです。
水戸藩士 川崎孫四郎健幹
那珂郡枝川村生まれ。農商家四男に生まれるも剣術と学問の才から水戸藩家老
安島帯刀に取り立てられ、その従者となる。安政の大獄により安島氏が切腹を命ぜられた後は、変の別動隊あとして江戸大阪間の連絡役を務める。
蔓延元年三月三日の水戸浪士による大老井伊直弼天誅の桜田門外の変後、
大阪挙兵を図るも幕吏に追われ、変の首謀者・高橋多一郎親子を逃がすために孤軍奮闘し致命傷を負い、生國魂神社前で割腹にて自刃する。
享年三十五。明治三十五年に正五位を贈位され、現在は靖国神社に合祀される。
笠間藩士 島 男也
大阪挙兵の誅議のため幕吏に捉えられ、江戸伝馬町獄にて死没。
生玉神社を出て谷町筋を南に10分ほどあるくと左手に四天王寺の西門が見えてきます。
西門を入り四天王寺学園の正門手間に下記の碑があります。
西門を入り四天王寺学園の正門手間に下記の碑があります。
正四位高橋多一郎
従四位高橋荘左衛門 原瘞処 ※げんえいしょ⇒もともとのご遺体を埋葬していた場所
高橋多一郎父子墓
高橋多一郎は文化十年(一八一三)生まれ、水戸藩徳川斉昭に仕え、 十五石五人扶持という小身の出自であるが性利発、抜刀術も良くし、 徒士目付、祐筆、床机隊戦士等を務めていた。
安政の大獄の翌年、高橋ら水戸藩士は、藤摩藩の高崎五六らと組んで、大老井伊直弼の暗殺計画を立て、万延元年(一八六〇)三月三日、 十八名の浪士は江戸城桜田門外で直弼を襲い惨殺した。
その後、浪士は各地にて幕吏の厳しい詮議を受けることとなる。
高橋父子は四天王寺の塔頭の一つ、秋の坊の北隣にあった茶店春日屋まで逃げてくるが、もう駄目らしいと覚悟を決め、四天王寺の門内に入り、大黒堂の東にあった寺侍小川欣司兵衛方の奥座敷を借り受け、 後始末の費用にと六十二両を差し出し、祖先が武田信玄からもらったという貞宗の名刀を故郷へ届けるよう言い残し、時世を渡し切腹した。享年四十七歳であった。
父の死を見届けた庄左衛門はその時まだ十九歳であったが、父の後を追って自決した。
欣司兵衛が預かった金子で墓を建て、懇ろに葬ったのがこの墓である。
明治二十四年に多一郎は正四位、明治三十五年に庄左衛門も従五位を贈られている。 (『大坂史蹟辞典』より抄出)
石碑に「怨霊消滅」と書かれている・・それくらいすさまじい切腹であったのだろうか。
四天王寺からさらに谷町筋を南へ。天王寺公園内の
大阪市立美術館のすぐ前の茂みの中にひっそりとたたずんでいます。
佐久良東雄先生の碑
当時の体制に対し衝撃を与えた「桜田門外の変」に関与し投獄されたものの、獄中で「徳川の粟は食まず」と断食され自ら命を亡くされています。
「花のあらしに散るをみて
事しあらば我が大君の大御為(おおみため)
人もかくこそ散るべかりけり」乃木希典書 大阪府知事安井英二撰文
昭和10年に建立さえたこの碑は忍び寄る日中戦争に対する政府のプロバガンダなのか・・それとも純粋な顕彰の思いなのかわかりませんが、今の国際社会を含めて終末に進まないように声を上げる事が必要です。