さすが期末ですね。
今年は4月からの消費税UPということで、連日超早朝に起床して15時間後に帰宅。
こんな状態が3月にはいってからずっと続いているためにBLOGの更新がおもっきり遅れています。
なので基本土日もドタバタな私もちょっとお疲れ気味。
更新が遅れちゃってもうしわけありません。。
フランス風懐石料理中華風・・・寺社仏閣が大好きです。 大阪市内に居ますが九度山と信州上田が心の故郷です♪尊敬する人は真田昌幸さんと幸村さん親子・吉田松陰先生、金子みすゞさん、大石順教尼さん。日本美術なら富岡鉄斎さんに横山大観さんに村上松園さん。そして大好物は甘々なみ・か・ん♪ ・・ようは何でもアリなのです
2014/03/15
2014 3/15 歴史と人間 近藤勇
歴史好きな人がきっと見ている「BS歴史館」が急に中止となり新番組が始まるそう。
4月14日の放映で一坂先生ご出演とのこと!見逃せません
また2015年の大河ドラマの「花燃ゆ」の制作発表会の資料をいただきました。
ご存知、吉田松陰先生の妹の文が主人公。演じるのは井上真央。。
さぁ・・どなることやら。。
また再来年より道徳の教科書に吉田松陰先生が取り上げられるらしい。これは戦前の修身の教科書依頼とのこと。
松陰先生は私も大好きだけど、強烈な天皇崇拝部分のみを取り上げる描き方には問題があるとおもう。一坂先生いわく松陰先生が強烈に取り上げられた時代があるという。
それは昭和11年~19年。この時代にたくさん出版されたがどれもクズのような転載、再掲載の内容ばかりで、当時の時代性に沿った内容であったらしい。
新撰組は思想のない単なる人斬集団でそこには政治的なビジョンなんでない!とされていた。
そのためまったく研究的な価値がないとされていたが近年はちょっと趣が変わってきた。
私を幕末史に夢中にさせるその魅力とは、その不可思議な点にあるとおもいます。
長州藩はその成り立ちから公家の流れを汲んでいるけれど朝敵となり、そして官軍となる。。
幕府の中枢であった慶喜さんやその成り立ちから忠誠を尽くした会津藩がいつのまにか朝敵となる。。これはひとえに大きな計り知れない歴史の流れがあり、どちらが良いか悪いかだけでは判断できない点にあります。
今日の近藤勇もこの大きな歴史に流された人物です。
天宝5年1834年 武州多摩川調布村に生まれた近藤勇。宮川家の三男で、家は豪農。
よく苗字について言われるが苗字は殆どの人は持っていた。ただ公認さえていなかっただけ。
この地域は天領だけど関八州で治安がよろしくないエリア。よく講談や浪曲で語られる股旅物のお話の「天保水滸伝」「座等市」や用心棒のお話でも登場している。
そのため農民らも警護のために剣術の稽古をしており天然理心流が盛ん。
嘉永2年~近藤周斎の養子となり理心流を継ぐ(近藤は4代目)となり試衛館を造った。
文久3年2月に「浪士組」の募集が行われる。
これは当時の危険分子であった不平浪士を集めて京都へ送り家茂の警護をさせるのが目的であった。そのため試衛館のメンバーも多数参加。
小石川にある徳川家の菩提寺伝通院に参集し2月23日に入京。壬生村へ分宿。近藤勇は八木家に泊まる。
ところが実際の目的は違っていた。
すぐさま御所に対し尊王攘夷の建白をおこなっている。その内容は家茂の上洛に際し攘夷の周旋を行い尊王を貫くことや、幕府のおかげで入京したけれども天皇のために働くという内容。
もちろん天皇は大感激!
2月29日には速やかに攘夷を行えという勅とともに、清川らは生麦事件の対応のために江戸に帰ることに。もちろん近藤や芹沢らは大反対。
そのため京へ残る残留組の16人以外は全員江戸へ帰ってしまった。
3月10日には松平容保に対し、京都へ残りたい旨の嘆願書を提出。それは天皇の守護や将軍上洛の警備と攘夷の実施を旨として12日に受理され正式にOKがでた。
3月23日には、16人が24人に増えた。
ドラマでは2グループだが実際は3グループあった。
それは試衛館メンバー・水戸浪人中心の芹沢グループ・下総浪人グループでこれは殿内義雄をリーダーとしていた。
しかし3月25日には近藤が四条大橋で殿内を殺してしまい下総グループは壊滅。
4月21日には、家茂上洛のために大坂へ移動し5月11日には入京。
5月25日には35人連名で鎖港を行うべく意見書を提出している。
この頃から土方らが近藤を批判。「近藤、天狗になり候」これは芹沢がいた水戸天狗党に絡んでいるともされている。
局中法度を定めその内容は士道に背いてはいけないなど。これは武士への憧れが強く感じられる内容であるが実際は、幹部連中が乱暴や狼藉を行っていた。
なかでも相撲取りとの乱闘騒ぎや商人へのゆすり行為や焼き討ちなどむちゃくちゃ!!
文久3年の8.18の政変では58人が蛤御門へ駆けつけたが会津には知られていなかったことからなかなか中へ入れてもらえなかった。その後、御所の警備を行った。
新撰組or新選組・・・どちらの表記が正しいのかは不明・・もちろん命名者も不明。。しかし名前が与えられたことから公認となりその地位が確立。
8月21日には京見廻りが決定。「手あまりの節は斬り捨て御免」というとんでもないこと!
しかし内部の紛争もあり9月半ばには祇園で切腹されたれたメンバーや芹沢の暗殺なども行われた。そして近藤の独裁体制が進められてゆく。
9月23日には周斎の様態悪化から近藤は江戸行きを願い出たが却下。
10月10日には祇園の一力楼で「国家之議論集会」が開催。薩摩、会津、土佐らの各藩の中に近藤が参加し、今の国港攘夷ではだめであり、海国攘夷を行うべし、そのためには公武合体が急務と意見、各藩の賛同を得る。
そして家茂の二回目の上洛で、守護職が容保から春嶽となる、このときに新撰組は松平容保に着いてゆくことが明確となり4月7日には容保が再任。弟の定敬(さだまさ)は桑名藩主で京都所司代。
一会桑体制が確立した。
元治元年5月7日 家茂は江戸へ帰ってしまうが、長州の処分や攘夷が決まっていないことに対して近藤は激怒。われわれは京を見廻るために着たのではない。新撰組を解散するとまで言い出し、早急に長州への攻撃と横浜の鎖港を決めてほしいと言い出す。
5月20日 天満橋で内山彦次郎を暗殺。大塩関連で手柄をあげた幕臣で新撰組VS相撲取りとの一件で新撰組を糾弾した人物。
5月末には周斎へ手紙を送る。
当時15歳の周平(昌武)という養子をもらう旨。自分はいつ死ぬかわからないために急いだ様。
周平はM34年神戸元町で53歳で亡くなる。山陽電鉄事務所勤務。
池田屋事変~22時頃から5人で乗り込み二時間も激闘!
そして12月25日に天皇の崩御・・長州が朝敵であるとしたまま、また兵庫の開港を決めないままの崩御であっただけにその後歴史の渦はどんどんと進んでゆく・・・・。
4月14日の放映で一坂先生ご出演とのこと!見逃せません
また2015年の大河ドラマの「花燃ゆ」の制作発表会の資料をいただきました。
ご存知、吉田松陰先生の妹の文が主人公。演じるのは井上真央。。
さぁ・・どなることやら。。
また再来年より道徳の教科書に吉田松陰先生が取り上げられるらしい。これは戦前の修身の教科書依頼とのこと。
松陰先生は私も大好きだけど、強烈な天皇崇拝部分のみを取り上げる描き方には問題があるとおもう。一坂先生いわく松陰先生が強烈に取り上げられた時代があるという。
それは昭和11年~19年。この時代にたくさん出版されたがどれもクズのような転載、再掲載の内容ばかりで、当時の時代性に沿った内容であったらしい。
新撰組は思想のない単なる人斬集団でそこには政治的なビジョンなんでない!とされていた。
そのためまったく研究的な価値がないとされていたが近年はちょっと趣が変わってきた。
私を幕末史に夢中にさせるその魅力とは、その不可思議な点にあるとおもいます。
長州藩はその成り立ちから公家の流れを汲んでいるけれど朝敵となり、そして官軍となる。。
幕府の中枢であった慶喜さんやその成り立ちから忠誠を尽くした会津藩がいつのまにか朝敵となる。。これはひとえに大きな計り知れない歴史の流れがあり、どちらが良いか悪いかだけでは判断できない点にあります。
今日の近藤勇もこの大きな歴史に流された人物です。
天宝5年1834年 武州多摩川調布村に生まれた近藤勇。宮川家の三男で、家は豪農。
よく苗字について言われるが苗字は殆どの人は持っていた。ただ公認さえていなかっただけ。
この地域は天領だけど関八州で治安がよろしくないエリア。よく講談や浪曲で語られる股旅物のお話の「天保水滸伝」「座等市」や用心棒のお話でも登場している。
そのため農民らも警護のために剣術の稽古をしており天然理心流が盛ん。
嘉永2年~近藤周斎の養子となり理心流を継ぐ(近藤は4代目)となり試衛館を造った。
文久3年2月に「浪士組」の募集が行われる。
これは当時の危険分子であった不平浪士を集めて京都へ送り家茂の警護をさせるのが目的であった。そのため試衛館のメンバーも多数参加。
小石川にある徳川家の菩提寺伝通院に参集し2月23日に入京。壬生村へ分宿。近藤勇は八木家に泊まる。
ところが実際の目的は違っていた。
すぐさま御所に対し尊王攘夷の建白をおこなっている。その内容は家茂の上洛に際し攘夷の周旋を行い尊王を貫くことや、幕府のおかげで入京したけれども天皇のために働くという内容。
もちろん天皇は大感激!
2月29日には速やかに攘夷を行えという勅とともに、清川らは生麦事件の対応のために江戸に帰ることに。もちろん近藤や芹沢らは大反対。
そのため京へ残る残留組の16人以外は全員江戸へ帰ってしまった。
3月10日には松平容保に対し、京都へ残りたい旨の嘆願書を提出。それは天皇の守護や将軍上洛の警備と攘夷の実施を旨として12日に受理され正式にOKがでた。
3月23日には、16人が24人に増えた。
ドラマでは2グループだが実際は3グループあった。
それは試衛館メンバー・水戸浪人中心の芹沢グループ・下総浪人グループでこれは殿内義雄をリーダーとしていた。
しかし3月25日には近藤が四条大橋で殿内を殺してしまい下総グループは壊滅。
4月21日には、家茂上洛のために大坂へ移動し5月11日には入京。
5月25日には35人連名で鎖港を行うべく意見書を提出している。
この頃から土方らが近藤を批判。「近藤、天狗になり候」これは芹沢がいた水戸天狗党に絡んでいるともされている。
局中法度を定めその内容は士道に背いてはいけないなど。これは武士への憧れが強く感じられる内容であるが実際は、幹部連中が乱暴や狼藉を行っていた。
なかでも相撲取りとの乱闘騒ぎや商人へのゆすり行為や焼き討ちなどむちゃくちゃ!!
文久3年の8.18の政変では58人が蛤御門へ駆けつけたが会津には知られていなかったことからなかなか中へ入れてもらえなかった。その後、御所の警備を行った。
新撰組or新選組・・・どちらの表記が正しいのかは不明・・もちろん命名者も不明。。しかし名前が与えられたことから公認となりその地位が確立。
8月21日には京見廻りが決定。「手あまりの節は斬り捨て御免」というとんでもないこと!
しかし内部の紛争もあり9月半ばには祇園で切腹されたれたメンバーや芹沢の暗殺なども行われた。そして近藤の独裁体制が進められてゆく。
9月23日には周斎の様態悪化から近藤は江戸行きを願い出たが却下。
10月10日には祇園の一力楼で「国家之議論集会」が開催。薩摩、会津、土佐らの各藩の中に近藤が参加し、今の国港攘夷ではだめであり、海国攘夷を行うべし、そのためには公武合体が急務と意見、各藩の賛同を得る。
そして家茂の二回目の上洛で、守護職が容保から春嶽となる、このときに新撰組は松平容保に着いてゆくことが明確となり4月7日には容保が再任。弟の定敬(さだまさ)は桑名藩主で京都所司代。
一会桑体制が確立した。
元治元年5月7日 家茂は江戸へ帰ってしまうが、長州の処分や攘夷が決まっていないことに対して近藤は激怒。われわれは京を見廻るために着たのではない。新撰組を解散するとまで言い出し、早急に長州への攻撃と横浜の鎖港を決めてほしいと言い出す。
5月20日 天満橋で内山彦次郎を暗殺。大塩関連で手柄をあげた幕臣で新撰組VS相撲取りとの一件で新撰組を糾弾した人物。
5月末には周斎へ手紙を送る。
当時15歳の周平(昌武)という養子をもらう旨。自分はいつ死ぬかわからないために急いだ様。
周平はM34年神戸元町で53歳で亡くなる。山陽電鉄事務所勤務。
池田屋事変~22時頃から5人で乗り込み二時間も激闘!
そして12月25日に天皇の崩御・・長州が朝敵であるとしたまま、また兵庫の開港を決めないままの崩御であっただけにその後歴史の渦はどんどんと進んでゆく・・・・。
2014/03/08
2014 3/8 第48回秋桜寄席
毎年、この日は宝塚の小林で開催される小林亭へ行ってたのですが
今年に限り桂 雀三郎さんがご出演とのことなので貝塚へ。
開場までまだ2時間近くあるのにもう並んでおられる方がちらほら。
笑福亭福笑さんの人気ぶりはすごいです!
「子 ほ め」 笑福亭智六
「初 天 神」 笑福亭たま
「はてなの茶碗」 桂 雀三郎
「紙 入 れ」 桂 春蝶
「神 通 力」 笑福亭福笑
今年に限り桂 雀三郎さんがご出演とのことなので貝塚へ。
開場までまだ2時間近くあるのにもう並んでおられる方がちらほら。
笑福亭福笑さんの人気ぶりはすごいです!
「子 ほ め」 笑福亭智六
「初 天 神」 笑福亭たま
「はてなの茶碗」 桂 雀三郎
「紙 入 れ」 桂 春蝶
「神 通 力」 笑福亭福笑
2014/03/02
2014 3/2 第8回イーグル寄席
最近は日曜の早朝にラジオで流れている浪曲にはまったおかげで、
レンタルで初代京山幸枝若さんのCDを会社の良き帰りに聞いているという熱中ぷり!
なのでなんだか落語が新鮮です^^
会場は新大阪イーグルボウルの5階。落ち着いた良い会場ですが
残念ながらお客様の入りが少なかったようで・・もったいないことです。
ぜったいにお得な寄席で参加必須です。
「初天神」露の雅
2009年の秋に田辺寄席ではじめて聞かせていただいてから5年。
落語に一生懸命取り組まれている感があって好感が持てました。
「貧乏花見」笑福亭 仁嬌
東京では「長屋の花見」。
春になるとなんどか聞かせていただく爆笑噺。
「質屋蔵」桂 枝女太
久しぶりのお噺。
質屋の蔵に夜な夜な化け物がでるという。
人様のいろんな情念のこもった物を預かるのだから当然だという。
その正体は。。
枝女太さんの表現力ってやっぱ上手いです!
「寛永三馬術・梅花の誉れ」旭堂 南左衛門
何度か楽しませていただいたこの講談。なんどきいても感激です。
馬術の名手は馬に乗るのではなく、乗せてもらっているというくだり・・心に染みる言葉です。
2014/02/23
2014 2/23 DIYに挑戦!
3ヶ月くらい前から私のお部屋の壁の電気のスイッチが切れなくなりました。
左へパチッと押しても、すぐに右にパチッと戻ってしまう。。。
それならと電気を入れっぱなしにしておいて 照明機器側でこまめに入れたり消したりをしたら良いかとやり過ごしていました。
すぐに修理に来ていただいたら 良いのだけどたしか数年位前にお風呂場の電気スイッチが壊れた時に業者さんに来ていただいて修理をしたら 5000円くらいかかったからどうも二の足を踏んでいました。
そしたら今度は娘の仕事部屋のスイッチもおかしくなりました。
この部屋はスイッチを入れても勝手に切れてしまうようで、テープを貼ってなんとか凌ごうとしていましたが もう限界!
ネットで検索したらけっこうDIYされているようで、それならと私もチャレンジ!
私の家のスイッチはパナソニックの【スイッチB(方切)】のようなので埋込スイッチBを2個購入してきて 作業開始。
ちゃんとブレーカーを落としたので感電することもなく意外と楽勝!
一番手こずったのは黒と白のケーブルを端子から抜くところでしたが一回り大きなマイナスドライバを 突っ込んだら簡単に抜けました。
左へパチッと押しても、すぐに右にパチッと戻ってしまう。。。
それならと電気を入れっぱなしにしておいて 照明機器側でこまめに入れたり消したりをしたら良いかとやり過ごしていました。
すぐに修理に来ていただいたら 良いのだけどたしか数年位前にお風呂場の電気スイッチが壊れた時に業者さんに来ていただいて修理をしたら 5000円くらいかかったからどうも二の足を踏んでいました。
そしたら今度は娘の仕事部屋のスイッチもおかしくなりました。
この部屋はスイッチを入れても勝手に切れてしまうようで、テープを貼ってなんとか凌ごうとしていましたが もう限界!
ネットで検索したらけっこうDIYされているようで、それならと私もチャレンジ!
私の家のスイッチはパナソニックの【スイッチB(方切)】のようなので埋込スイッチBを2個購入してきて 作業開始。
ちゃんとブレーカーを落としたので感電することもなく意外と楽勝!
一番手こずったのは黒と白のケーブルを端子から抜くところでしたが一回り大きなマイナスドライバを 突っ込んだら簡単に抜けました。
2014/02/15
2014 2/15 歴史と吉田稔麿
吉田稔麿(としまろ)とは中々凝った名前ですが、これは短い生涯の中でほんの一時した使用されていない名前だそう。
実際は栄太郎という名前がメインで稔麿は亡くなる前年の1年のみ。
天保12年閏1月24日 松本村生まれ。よく間違われるが松陰先生とは親戚でもなんでもなく無関係。
父の吉田清内(せいない)は十三組中間。栄太郎には11歳違いの妹の「房(ふさ)」がいた。
おもな仕事は参勤交代の時の宿の手配や荷物もち。城の門番に江戸藩邸の茶室の手入れなどが下級武士の仕事で、藩の政治にはノータッチ。
清内の父は喜兵衛(きへい)。大坂勤務で十三組中間。
酒楼で火鉢にあたりながら浄瑠璃を語りながら亡くなったらしい。
栄太郎は上昇志向が強くいつかは抜け出してやるという意欲があった。
9歳の時に近所に同年の少年の利助が引っ越してくる。二人で木登りをしたり書物の貸し借りもしていたらしい、利助は伊藤博文。彼は青ひょうたんというあだな。(栄養が悪く青い顔をしており青洟を垂らしていた)。
8歳の時より久保五郎左衛門主催の2代目松下村塾に入り学問を習っていた。
ちなみに初代は玉木文之進。
13歳にときに利助が入門。
栄太郎は10代で3回も江戸へ行っている。
1回目は1853年 13歳の嘉永6年(今の小学校6年くらい)で黒船を目撃。
長州は大森海岸の警備を命ぜられるが栄太郎はだめ。
中国はアヘン戦争で南京条約を締結させられた。
もともと儒教の考え方で、統治は武力ではだめであり徳で治めるのが本当・・・文官が上で武官は下という考え方が強い。。
1854年1月14日にはペリーが再来日。これを横浜の本牧へ見に行っている。(14歳)
その後和親条約締結・松陰密航失敗から長州への帰国など栄太郎は知っていた。
2回目は安政2年9月2日 茶室のした働きとして江戸へ向かい10月3日に到着するはずの前日
10月2日に埼玉県中仙道の蕨宿でM6.9の安政の大地震に遭遇。
このため藩邸はもうむちゃくちゃ!熱心に後片付けをしている姿を毛利定広(若殿様)が見ておりその熱心さが目に留まった。2月19日に帰国した。
その頃ご近所だった松陰先生が野山獄から出獄。自宅で講義をさせていたところ、近所の子供が聞きに着ていたという。
安政3年10月には増野徳民とともに聴講に参加。
安政3年11月25日には栄太郎の入門。増野と共に勉強を行う。
この頃の勉強の方法は1、素読 2、講釈 3、会読(対読)でこれが当時の勉強方法。
残念ながら明治維新後はテストのための勉強でひたすら暗記。。自分のための勉強ではなくなって島しまった。
安政14年1月2日西洋地理書の『坤輿図識』(箕作省吾のヘベストセラー)を読み、独立国や附属国のあることを知る。
諱名(本名)は秀実、字名(あざな;学問名)は無逸。
松陰先生は増野と共に無窮(吉田)、無咎(増野)の名をもらう。
3回目は17歳。安政4年9月5日。
行きたくなかったが家計の事情から働きに行くことになる。
ちょうどこの頃松陰先生から、お前は後継者である旨の手紙をもらう。
江戸では将軍の後継者問題にハリスの貿易問題が勃発。
黒村文左衛門へ宛てた手紙には、アメリカの外圧に言い込められた事や九条公家へ88人が反対運動を起こした事など時代の情報を察知していたが、その立場は朝廷側であったことがポイント。
安政5年 松陰先生を再投獄。
この頃は過激な松陰先生を止めなければならない願う。
藩の命令をやめさせるために役人の家に押しかけた結果8人は謹慎処分となる。
清内からも付き合い禁止を言い渡される。
12月30日には士分の5人は解かれる。翌1月25日には軽卒の3人が解かれる。
松陰は栄太郎に執着があり何度も手紙を送っているが、なかなか辛辣な内容もある。
お前の葬式を行ったぞ。心が死んだ者は惨めだ。。。
万栄元年10月 行方不明に。。全国の八幡様へお参りをする。。。⇒脱藩。
※藩は黙認?
文久元年 江戸 なんと幕府方の家に入る・・妻木田宮500石取りの家来(茨城県鹿島に領地)となり、松里勇と変名を使う。非常に重宝がられた。ついに6月2日には身分を明かして藩に帰る。
文久三年
士雇(1代限りの武士)となり、氏が必要となる。本人は栄太郎で良いのだったが藩にはすでに存在していたために年麿となった。
屠勇取り立ての意見書~部落開放の祖という意見もあり。
7月24日~陽丸丸~幕府の施設を暗殺
奇才は一世を傾け、妙略は千人を弄ぶ
5月22日 京都南座で市川一蔵の芝居を見る。
6月5日 池田屋事変 京都守護に見つかり死亡。
実際は栄太郎という名前がメインで稔麿は亡くなる前年の1年のみ。
天保12年閏1月24日 松本村生まれ。よく間違われるが松陰先生とは親戚でもなんでもなく無関係。
父の吉田清内(せいない)は十三組中間。栄太郎には11歳違いの妹の「房(ふさ)」がいた。
おもな仕事は参勤交代の時の宿の手配や荷物もち。城の門番に江戸藩邸の茶室の手入れなどが下級武士の仕事で、藩の政治にはノータッチ。
清内の父は喜兵衛(きへい)。大坂勤務で十三組中間。
酒楼で火鉢にあたりながら浄瑠璃を語りながら亡くなったらしい。
栄太郎は上昇志向が強くいつかは抜け出してやるという意欲があった。
9歳の時に近所に同年の少年の利助が引っ越してくる。二人で木登りをしたり書物の貸し借りもしていたらしい、利助は伊藤博文。彼は青ひょうたんというあだな。(栄養が悪く青い顔をしており青洟を垂らしていた)。
8歳の時より久保五郎左衛門主催の2代目松下村塾に入り学問を習っていた。
ちなみに初代は玉木文之進。
13歳にときに利助が入門。
栄太郎は10代で3回も江戸へ行っている。
1回目は1853年 13歳の嘉永6年(今の小学校6年くらい)で黒船を目撃。
長州は大森海岸の警備を命ぜられるが栄太郎はだめ。
中国はアヘン戦争で南京条約を締結させられた。
もともと儒教の考え方で、統治は武力ではだめであり徳で治めるのが本当・・・文官が上で武官は下という考え方が強い。。
1854年1月14日にはペリーが再来日。これを横浜の本牧へ見に行っている。(14歳)
その後和親条約締結・松陰密航失敗から長州への帰国など栄太郎は知っていた。
2回目は安政2年9月2日 茶室のした働きとして江戸へ向かい10月3日に到着するはずの前日
10月2日に埼玉県中仙道の蕨宿でM6.9の安政の大地震に遭遇。
このため藩邸はもうむちゃくちゃ!熱心に後片付けをしている姿を毛利定広(若殿様)が見ておりその熱心さが目に留まった。2月19日に帰国した。
その頃ご近所だった松陰先生が野山獄から出獄。自宅で講義をさせていたところ、近所の子供が聞きに着ていたという。
安政3年10月には増野徳民とともに聴講に参加。
安政3年11月25日には栄太郎の入門。増野と共に勉強を行う。
この頃の勉強の方法は1、素読 2、講釈 3、会読(対読)でこれが当時の勉強方法。
残念ながら明治維新後はテストのための勉強でひたすら暗記。。自分のための勉強ではなくなって島しまった。
安政14年1月2日西洋地理書の『坤輿図識』(箕作省吾のヘベストセラー)を読み、独立国や附属国のあることを知る。
諱名(本名)は秀実、字名(あざな;学問名)は無逸。
松陰先生は増野と共に無窮(吉田)、無咎(増野)の名をもらう。
3回目は17歳。安政4年9月5日。
行きたくなかったが家計の事情から働きに行くことになる。
ちょうどこの頃松陰先生から、お前は後継者である旨の手紙をもらう。
江戸では将軍の後継者問題にハリスの貿易問題が勃発。
黒村文左衛門へ宛てた手紙には、アメリカの外圧に言い込められた事や九条公家へ88人が反対運動を起こした事など時代の情報を察知していたが、その立場は朝廷側であったことがポイント。
安政5年 松陰先生を再投獄。
この頃は過激な松陰先生を止めなければならない願う。
藩の命令をやめさせるために役人の家に押しかけた結果8人は謹慎処分となる。
清内からも付き合い禁止を言い渡される。
12月30日には士分の5人は解かれる。翌1月25日には軽卒の3人が解かれる。
松陰は栄太郎に執着があり何度も手紙を送っているが、なかなか辛辣な内容もある。
お前の葬式を行ったぞ。心が死んだ者は惨めだ。。。
万栄元年10月 行方不明に。。全国の八幡様へお参りをする。。。⇒脱藩。
※藩は黙認?
文久元年 江戸 なんと幕府方の家に入る・・妻木田宮500石取りの家来(茨城県鹿島に領地)となり、松里勇と変名を使う。非常に重宝がられた。ついに6月2日には身分を明かして藩に帰る。
文久三年
士雇(1代限りの武士)となり、氏が必要となる。本人は栄太郎で良いのだったが藩にはすでに存在していたために年麿となった。
屠勇取り立ての意見書~部落開放の祖という意見もあり。
7月24日~陽丸丸~幕府の施設を暗殺
奇才は一世を傾け、妙略は千人を弄ぶ
5月22日 京都南座で市川一蔵の芝居を見る。
6月5日 池田屋事変 京都守護に見つかり死亡。
2014/02/11
2014 2/11 大阪城の城内焼亡埋骨墳
慶応四年1月、明治維新によって旧幕府が本拠としていた大阪城が新政府軍に引き渡されるに際し、これをいさぎよしとしない幕臣たちが、城内に火を放ち自害いしたという。
新政府軍の主力だった薩摩・長州両藩の有志たちは彼らの遺骨を埋葬し武士の鑑とたたえて同年7月にこの石碑を建立した。のちのこの碑は「残念塚」・「残念さん」と呼ばれ、どんな願いもかなえてくれる神様として人々の信仰を集めた。
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