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2010/03/20

◇2010/3/20 教科書に書かれない日本史 ~長州を潰せ

第一次長州征伐は、西郷さんと勝さんの会談により不戦解兵。

長州を叩くことは、また幕府に力をつけさせてしまうと幕府の家臣の勝さんが言うのは、明らかに先見性があったから。以降長州藩は武備恭順の姿勢を貫きとおすことに。この真っ二つに分裂した長州藩を一本化しようと紛争したのは但馬出石に隠れていた桂小五郎さん。
侍敵の言葉通りに、天皇には不義不忠はしていないのだから理にかなわない言いがかりであればいつでも攻撃できる力を蓄えようという方針が定まった。

さて征長軍からの命令は無念のまま切腹させられた3家老をはじめ、藩主父子の蟄居、五卿の九州への移動・山口城の取り潰し命令をクリアし、本来は一件落着のはずが、あいかわらず長州藩は【朝敵】のまま。

そんな中で慶応元年(1865年)、長州の不穏な動きを察知した徳川家茂さんは長州征伐にノリノリ!
自らが先人を切って大阪へ親征に出発。大阪は急な人口増加で物価があがるし、治安も悪くなるし、大阪人気質のなかに江戸っ子が大量に現れるのは気味の良いものでは無い。先陣は和歌山紀州藩の徳川茂承さん。

ここでまた幕府は生真面目なのか懲りないのか、勅許をもらおうと孝明天皇に願い出る。
もちろん長州嫌いな天皇だから即日OKとおもったがこの願いがとんでもないことに発展。

将軍上書では、長州藩は武器を揃えだしており、不穏な動きがあるので許可をくださいな。で・・朝廷のお返事は、尾州、一ツ橋、会津に桑名等各藩とちゃんと会議して計画書をだしなさい!という意外な内容。

それならと幕府は9/21に長州の各枝藩の長府・清末・徳山・岩国吉川を大阪に呼び出したが長州はすでに一本化。
そんな懐柔分裂作戦には乗らない。あきらめた幕府は再度勅許を願ったが、またまた孝明天皇さんは意外なお答え。

枝藩が来ないんだったら幕府が広島辺りまで出向いて不穏な動きを調査してきなさい。とのこと。

大目付の永井尚志(ながいなおゆき)は山口へ乗り込んで事前に疑わしいとリストアップした十数人を呼び出した。その中には桂小五郎さんも高杉晋作さんもいましたがすでに改名しているので長州藩は行方知れずやら死亡やらでのらりくらり。

さて運の悪い幕府。同時期に神戸沖にイギリス・オランダ・フランス・など9隻の連合艦隊が表号の港を開港せよとの交渉に現れた。
この交渉では兵庫港開港は死守したものの、孝明天皇にお気に入りの慶喜さんは1858年に強制的に締結された不平等条約がようやくこの10月に締結され、開国の勅許が出てしまった。
この事態で「幕府が勝手に開国した」とは言えなくなってしまう。

さて、裏目裏目に流れてゆく時代に、家茂さんは大阪はいやだーと江戸に向けて帰り出発。大阪市民は大いに喜んだがそれもつかの間。一ツ橋慶喜さんの働きかけで、また大阪に連れ戻され大阪市民はがっくり。。。

勅許をとらないで、ガンガン長州を攻めたならば家茂さんの思い通りになったろうが、責任の所在を勅許に求めたために2年近く時間を無駄にした慶応2年に御所では長州への処分を決めていた。実はこの御所の向かい側にある薩摩藩邸では、西郷さんと桂さんに龍馬さんを加えて薩長同盟の締結がされていたことは幕府側は想像もしていない。
そしてついに6月に四境戦争に突入する。

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