第二次長州征伐という言葉は正しくないらしい。私的にはまったく違和感はありませんがこれは
冤罪を掛けられている長州からするととんでもないらしく今の教科書では<第二次幕長戦争>もしくは<四境戦争>となっているそう。
幕府は不穏な動気のある長州を叩くために勅許を求め、そのまま1年・・。この間、着々と武備恭順姿勢を貫き内部拡充をおこなう長州。そしてついに勃発してしまう。
宍戸備後之助は長防臣民合議書を36万部発行し、当時の20万人の住民に対しこの戦争の意義を徹底して告知する。そこに書かれていた内容は・・・。
幕府に従うことは常に多々しいとは限らない。従順でいることもまた正しいとは言えない。この例として四十七士の討ち入りを例題としている。この討ち入りは当時からして150年前の出来事。
この討ち入りは公平にみたら四十七人の藩士の暴動であり、裁きに従わないならず者集団であるが、その行動は人々を感服され美談とされている。楠公の七生滅賊の言葉があるように我々は恨みを晴らさねばならないのである。とのこと。
この長防臣民合議書は坂本龍馬も2部手に入れたらしい。
そんな戦争を明治政府は正当化するために苦心。
この時、天皇に逆らっているが、史実を書くわけには行かず、結局<幕府には逆らったが天皇には逆らっていない>と拡大解釈してしまう。
さて四境戦争の総督にはだれなりたがらずに結局紀州 徳川茂承(もちつぐ)がおこなう。
1866年6/5に広島入り。そして6/7に大島口で火蓋を切りました。もともと戦略的に大島は捨てるとしていた長州軍。幕府軍が上陸、占領したにみえたが、高杉晋作らの丙寅丸での奇襲により大島を奪還。
芸州口の戦いでは肝心の広島(浅野)藩が出兵拒否。藩内の戦いは黙認するという態度。彦根藩、高田藩の先鋒+紀州藩vs遊撃軍+御盾隊。
6/25に国境の小瀬川を越えて長州にはいろうとした幕府軍は陣羽織に陣太鼓、ほら貝を吹きならず時代錯誤モード。また維新団の働きで幕府軍を制圧。
広島にいた副総督の松平宗秀。総督の茂承の許可なく捕虜に停戦を依頼し開放してしまう。怒った茂承は「総督は辞める!」と言い出し将軍になだめられる一幕も。
石州口の戦いでは隣国津和野藩。長州と密約がありおもいっきり協力的。食料や宿の手配も万事OK.幕府からの戦目付け 長谷川久三郎の目をごまかしながらも友情を取った。
自ら同行した大村益次郎の完璧な作戦で浜田藩は自らの城に火をつけて退却してしまう。
さて最後の小倉口の戦い。5万人vs1000人の戦いとなり最大の激戦地。
6/17 高杉さんの奇襲攻撃を柱に7/3、7/27と段階的におこなう。
うまくいっていたが7/27では肥後藩、小倉藩に撃退されピンチに陥ってしまう。ここぞとばかりに追撃すべく総督の老中 小笠原長行へ相談にいくが、まてどくらせど出てこない。
実は富士山丸に乗って長崎経由で大阪へ帰ってしまったとのこと。
実は7/20に将軍家茂が亡くなっていたそう。戦意を失った幕府軍は小倉城に火をかけて退却してしまった。
さて、時期の将軍は・・慶喜さんしかいない。。。ところが慶喜さん、徳川は継ぐが征夷大将軍職に関してはなかなか「うん」といわない。
それでも孝明天皇とお仲良しの慶喜さん。「長州大討込」と表し、刀までいただき京都を出発してすぐに、小倉城の炎上を知り休戦を考える。
そこで登場するのが、江戸で失脚中の勝さん♪停戦交渉をさせることに。
慶喜さんは、江戸へ帰らないで京都の二条城で指揮をとる。
その年の12/5に慶喜さんは反対派の意見も集約し望まれる形で正二位権大納言を受けて征夷大将軍を任命。これで武合体の最高状態が実現してしまう。
長州ぴんち!
フランス軍隊を味方につけて・・・さては第三次長州征伐か?
ところが歴史の風向きがここでかわってしまうことになる。
なんと、12/25、夕食までは美味しく食べていた孝明天皇が急にな崩御されてしまう。
病死とのことだがあまりにもタイミングが・・・。
以降は次回のお楽しみということでww