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2011/09/30

2011 10/3 染模様恩愛御書 細川の血達磨

2011 10/3  「染模様恩愛御書」

にっぽんの芸能 芸能百花繚乱「染五郎 気迫のスタジオ歌舞伎」
放送日: 2011年9月30日(金) 22:00-22:45

旭堂南左衛門さんより放送があることを教えていただいてましたのでバッチリ録画!もちろん
ナマでも鑑賞いたしました^^

市川染五郎さんの二役で、もう胸ガキュンキュン!
市川猿弥威圧感のあるお姿と大立ち回り!
もちろん、旭堂南左衛門さんの、細川越中守役はかっこよかったー!

簡単なあらすじ♪
 
ある日、大川友右衛門(染五郎さん)が美形の若衆の印南数馬(染五郎さん)に惚れてしまいます。
で、友右衛門は武士の位を捨て、細川邸に中間として奉公し、数馬に心を打ち明け友右衛門が数馬の寝室に忍びこんじゃいます。
で色々とお話をするうちに数馬から横山図書(猿弥さん)が父を殺した敵であることを聞かされ敵討ちのお手伝いをして無事にとげることになりました。
そんなある日、細川邸に火事が発生!宝蔵には家宝の家康公から賜ったご朱印が!
燃え盛る蔵へ飛び込んだ友右衛門はご朱印を見つけたが、もう回りは火の海。
ご朱印を守る為に彼が取った驚くべき行動は・・・・。
自らの命と引き換えに家宝を守った友右衛門さん。血潮のご朱印を抱き泣き咽ぶ数馬さんでした。
 

2011 9/30 ただいまー!

無事、帰ってきました^^

まだまだ本調子ではありませんが徐々に元のペースに戻したいと思います。

応援いただきました皆様!本当にありがとうございました!

2011/09/19

2011 9/19 行ってきます!

急に降って湧いた様に今日の日が決まりました。
ちょっちだけBLOG更新が出来なくなりました。

申し訳ないのですが、 九度山講談会レポートと教科書に書かれなかった幕末史の
2項目の掲載は今週末の予定で掲載しますのでしばしおまちくださいませ。

お急ぎの方は下記へメールを戴きましたら当方携帯で拝見できます。
もうしわけありません。

  sweet-mikan☆mail.goo.ne.jp    ←☆マークを@マーク(半角)に変更して送信くださいませ。

2011/09/17

2011 9/17 教科書に書かれなかった幕末史 鉄道を造る

眠りについたのは明け方頃となり、ついに昨夜の九度山講談会の余波を引きずったままの朝日カルチャー「教科書に書かれない幕末史」となりました。
●鉄道を造る
鉄道は近代化の象徴~鉄道(イギリス)~原料や製品の輸送目的
1825(文政8 9/28)ストックトン-ダーリントン-ウィットパークの3つの炭鉱を結ぶ40Km
1830 マンチェスター-リバプールを開業~人間を運ぶ鉄道
1836 イギリスでの鉄道大成功 各国に続々と鉄道が引かれ始める。
日本では・・
長崎、プチャーチンが機関車の模型を持参してきた。
1854年 2回目のペリーも持参。このときにすでに鉄道の事に詳しい日本人がいたらしく所謂「鉄ちゃん第一号」である。
日本に鉄道を引く事にたいし反対意見も多くみられ、特に西郷さんは大反対。鉄道よりも軍隊を強化すべきとの意見。黒田清隆も事業中止を建白、大隈重信と険悪に。しかし洋行すると賛成派になった。
秘密留学生 (長州ふぁいぶ)の中の伊藤・井上勝が中心、中でも伊藤は明治2年2月に、大阪~神戸に鉄道をひくと早々に宣言。同12/5に三条実美、パークス、岩倉らが敷設を決定した。
大隈、伊藤が考えていたプランでは300万ポンドの大金が必要のためにホレシオ ネルソーレイと資金借用の契約を結んだが年12%と9%の差額を流用する事実が判明した為に首となった。
鉄道事業は工部省の担当(M10_10誕生)で、この省は近代工業推進の担当で鉱山、灯台、造船、土木等をおこなって民間に払い下げる方針。
慶応3年12月~小笠原長行(ながみち:幕府)、ポルトメン(米書記官:ペリーのオランダ語通訳官)の両名が担当となり、江戸~横浜間の敷設を許可していた。この契約内容は<5年以内に着手すること><3年以内に完成すること><機械類の輸入は無税>であるというもの。しかもこの鉄道を日本が買い取る場合は原価+50%を上乗せするという内容。
すなわち、幕府が考えた鉄道敷設は、アメリカまかせの契約であり、明治政府が考えた鉄道事業は外国人を雇い入れ敷設するという方針で双方の考え方に開きがあった。
明治2年1/11 横浜 東久世 通禧(みちとみ)が新政府に対し談判
明治2年2/10 旧幕府時代の話は無効であると通達する。
前島密(越後豪農の息子;郵政の父)
明治2年12月に民部省入り、鉄道事業に必要なお金を試算、鉄道憶測論により2,000万円と試算。
明治3年3月 新橋~横浜間 9/12に正式営業。 明治天皇参礼され開業式をおこなった。
明治5年5/7 品川~横浜間 外国技師により仮営業 1日2往復(50銭~1円50銭)
井上勝と外国技師とはたびたびに衝突。
がんこおやじ的な井上はナショナリズム的発送が強く、日本人だけの手で鉄道を造りたかった。
西日本では明治3年10/24に石屋川トンネルに着手する。石屋川は天井川のために川の下にトンネルを作ることにした。そして明治4年7月にトンネルが完成。このトンネルは昭和51年まで残っていた。
明治4年3月5日 イギリスより蒸気汽車が到着も、西日本の工事は非常に遅れており、これは強力な指導者がおらず東京からの連絡が早く回ってこないことに由来。それなら・・ということで鉄道寮を大阪に移転させる案がでたが山尾(長州ふぁいぶ)は中央集権が崩れるということで大反対。結果、上司の井上勝が辞職することとなる。
この事態に歯止めをかけることができる人物である伊藤博文は現在、岩倉使節団で不在。2ヵ月後に帰国、説得し鉄道守に据え一段落。
明治7年1月10日 鉄道寮は大阪に移る。
明治7年2月 井上が大阪に乗り込む。
明治7年5月11日 大阪-神戸間が竣工する。
AM6:55 神戸発梅田行きが一番列車。神戸の駅長は間島氏、梅田ステーション側の駅長はムトウマサアキ。高杉晋作の妹の夫で明治12年6月まで担当していた。
イギリスの鉄道は物資輸送で、民間主導で発達。日本は人を運ぶことを目的として国の
事業として発達。
日本の鉄道に寄与した井上勝は明治43年8月 ロンドンでたおれ享年68歳。鉄道事業に一生を尽くした。
東京駅丸の内には像が作られている。

さて、講座がおわり普段見ることができない映画の時間。
申し訳なかったのですが後ろの方に移動し2時間近く爆睡!
さすがに寝不足だったので、邪魔にならないよーにしてました。

その後、恒例の一坂先生を囲んでの飲み会は総勢10人。
幕末史ファンがこれだけ集まると話しが途切れることはありません。
なんとしゃべり続けて飲み続けて20時に散会となりました。

明日一日は、翌日からの入院生活の為に食事制限が始まります。
なので今夜のお料理はホントにおいしかったです。

2011 9/16 九度山講談会 裏話

午後14時、南左衛門さんの自宅前でご一門の方々と集合し九度山に向かって出発。
前回、九度山へ行った際には戦国鍋TVの録画で盛り上がりましたので、今回は、懐かしいDVD『真田太平記』の26話あたりからを再生。
ちょうど関ヶ原の戦いに破れ、九度山蟄居が始まるあたりになります。

大阪をひた走り2時間10分で九度山到着。
駐車場で、住民クラブ代表の阪井様がお出迎え下さっており一同感激!



あいにくの雨模様のなか真田いこい茶屋へ向かい、ご用意いただきました美味しいお蕎麦を頂戴して会場にむかいます。






開演2時間前
慌ただしく準備がおこなわれる様々な中で、このイベントにかける情熱を垣間見る事ができました。




会館入口に貼られている案内書きを初め、ステージの設営や名びら立て、音響にチラシ、受付の方々に到るまで一丸となってそのチームワークは素晴らしいものです。
沢山の九度山の皆様が、講談会の成功を祈って精一杯お世話をいただいています。


感謝の気持ちでいっぱいです!






開演1時間前
エレベーターが到着する度に沢山の方々が降りてこられます。
その顔は今日の講談への期待にあふれ、誰もが素朴で素敵な笑顔をされていました。
岸和田祭用に作成された鳥居商店様より提供いただいた団扇200本が早々に無くなり、会場がどんどん埋まって行きます。

開演10分前
司会の方の前説が開始。
講談を生で聴かれたことがある方はほんのわずかだとのこと。やはりこの真田幸村公の聖地の九度山で『難波戦記』を企画いただいてホントによかった。

終わったのは21時20分。大熱演のために大幅に時間を超過!

後片付けをしで22時過ぎに九度山を後にしました。
天候は小雨。

予定では和歌山IC経由の大回りを予定していましたが風吹き峠をぬけ、泉南に抜けるルートで帰阪。
南左衛門さん宅へは12時過ぎ。南斗さん宅へは12時30分過ぎ。
無事にお送りできて一安心で帰宅しました。

思えば半年以上前から色々とお声を掛けていただきようやく一つの事がおわりました。
きっとこれは終わりではなく、始りなのでしょうね♪

本当に皆様、ありがとうございました。

2011/09/16

2011 9/16  九度山講談会~日の本一の兵・真田幸村~ 第6回真田寄席 上方講談

九度山講談会~日の本一の兵・真田幸村~
第6回真田寄席 上方講談

平成23年9月16日(金) 19:00開演
九度山町ふるさとセンター 5階
まちおこし基金一口¥1,000で入場券1枚をお渡し。(当日券有り)
企画:九度山町住民クラブ
1)「真田大助駿府の使者(難波戦記)」旭堂南斗
2)「大助の初陣(難波戦記)」旭堂南舟
3)「徂徠豆腐(赤穂義士伝)」旭堂南左衛門
中入
4)「九度山の真田幸村(難波戦記)」旭堂南左衛門

《お問合せ》真田いこい茶屋 TEL 090-5906-7689
(営業:10:00~16:00 ※木曜日はお休み)










人とはいろんなご縁で繋がっているもの。まさに人生は因縁生起の連続なんだと思います。
幸村公と九度山があり、大阪の陣を大河ドラマにする会の発会式があり、そして東日本大震災による真田祭の中止を経て九度山住民クラブの方との出会いがあり今日の講談会に繋がりました。
単なる歴オタの私が抱いた素朴な疑問、「真田幸村公の思い出の場所の九度山の皆様は、難波戦記を聞いた事があるのかな?」からはじまったこの企画がこんな盛大に開催されたなんて夢のようです。
ご出演いただきました旭堂南左衛門さんをはじめご一門の南舟さん、南斗さん、そしてもみじさんも本当にありがとうございました。
また、運営面すべてをしてくださいました阪井様をはじめ役員の皆様、本当にありがとうございました。


旭堂南斗

なんだかとっても緊張されている様子。それでもたいしたもので、すぐにいつもの飄々とした調子に戻りました。九度山の到るところまで真田十勇姿が書かれており、夕方にいただいたコーヒーについていたミルク(スジャータ)にまで書かれていたくだりで会場が和み始め本題へ。

旭堂南舟
出囃しが流れ南舟さんの登場。その線の細さに会場には一瞬の沈黙が流れるものの、一声発するとその容姿とのギャップの無い、ほのぼのとした雰囲気が伝わったのかいつものようにマクラが滑り出しました。
この春に正式な前座となられ少しずつ口調や視線が変わって来ているように思えます。

旭堂南左衛門
出囃しが流れ万来の拍手の中でいよいよ登場です。
松本幸四郎先生のお話や史実・実録のお話で巧にお客の心を掴んで行かれネタに突入です。
出だしの『豆~腐~♪』ですでに拍手が起こり、皆さんはすでに話しの世界に引き込まれていると実感。ほろりとさせる世界観が伝わり、大きな拍手とともに中入りに入り、この時すでに20時40分。

開演少し前にお見えになられていた岡本町長さんを楽屋へご案内させていただき、わずかな時間となりましたが南左衛門さんとご歓談。

さて最後の演目「九度山の真田幸村」が始まります。
関ヶ原の戦いに負けて長い蟄居生活に入り不幸が襲う。父と妻の死によりすっかり様子が一変した幸村公でした…。
このあたりになると、熱心に聴かれているみんなに不安の色が感じられます。

これはきっと九度山に住まわれている方々からするとすごく身近な方のように感じておられるからなのでしょう。
そして様々なエピソードが続き話しはクライマックスへ。だれもが熱心に聴き入り、終わったと同時に万雷の拍手!講談の面白さを感じていただけた瞬間となりました。

このあと抽選会がおこなわれ、終わったのは21時20分。大熱演となりました。
舞台撤収をはじめ後片付けも手際よく九度山の皆さんのチームワークの良さにびっくり。
小雨の振る深夜…安全第一で帰阪するために、岩出から風吹峠を越え、泉南より高速に入り、無事に南左衛門をお送りした後、南斗さんもご自宅近くまでお送りし、興奮覚めやらぬ母と別れたのは0時をだいぶ越えた頃となりました。

色んなご縁が紡ぎ出した今回の九度山講談会。沢山の皆様のご尽力の賜物。
本当にありがとうございました。

2011/09/10

2011 9/10 【さよなら原発】 小出裕章先生 講演会


2011 9/10 【さよなら原発】 小出裕章先生 講演会

主催 さよなら原発実行委員会
共催 市民社会フォーラム




大阪クレオ中央にて講演会開催。会場は150人!立ち見がでたくらいの入りでした。


今回のレジュメを参考に、当日小出先生の話された内容を元に私の解釈を文章に起こしています。
なので、小出先生の話された内容と異なる部分が多々存在しますのでご注意ください。



原子力発電所も火力発電所も、ジェームス・ワットに発明された蒸気機関を元に水蒸気によりタービンを回転させ発電しています。
その原子力発電所は100万kwを基本として1基が1年間に燃やすウランの量はおよそ1トン。(生成する核分裂生成物の重量)ちなみに広島を襲った原爆のウランの量はわずか800g。そんな莫大な危険物を生み出す原子力発電所が日本に54基ある。

さて、日本は元々巨大地震に襲われてきた歴史があり、元暦2年(1185年)の地震は特に大規模でした。そんな歴史を顧みずに原子力発電所を建造することは正しいことなのでしょうか?
あの記憶に新しい阪神淡路大震災の直前に、「防災科学研究所理事長」は下記のようなことを言っています。
「~様々な海外の学者から日本の建築は大丈夫なのか?という質問を受ける。あれくらいの地震では日本の建築はびくともしません。というのが我々の答えである。なんといっても最大の理由は地震や震災に対する知識レベルの高さである」
・・・その直後に阪神淡路大震災が起こっている。

世界レベルでみて地震の起こる場所は特定されており、それは環太平洋地域と中国から地中海を抜けるライン。
したがってアメリカの原子力発電所は西海岸にはほとんど無く、大半は東海岸にある。またヨーロッパは地盤が安定しており地震は非常にまれです。その反面、日本は、おもいっきり地震の多発地帯にあり、その上に原発が存在します。

そんな日本に原発を導入するために日本に原発を導入した原子力推進派は「原発は都会にはつくらないことにした」。
原子炉立地審査指針は下記の通り。

1.原子炉のからある距離は非居住地域であること
2.非居住地域の外側は低人口地であること。
3.原子炉敷地は人口密集地からある距離だけはなれていること。

そしてその指針により、東京電力は自分の供給範囲より原発を追い出した構図ができてしまった。もちろん関西電力も同様。

原子力は絶対に安全で、クリーン・・・という触れ込みで拡大を図る。。。
そしてついに1999年9月のJOC臨界事故がおこる。

そこで原子力推進派が取った対策は・・・。


原発は機械であり時には事故を起こす。
原発を動かすのは人間であ、人間も誤りを犯す。
どんなに願ったところで破局的な事故の可能性は消えることはないのだから
それらの事故は「想定不能」と烙印を押して無視することにした。

2000年度の原子力安全白書では、原子力は安全であると言い続けていたことを反故にし、過剰な信頼感、安全実績に対する過信、そしてなんと『絶対的安全への願望』だと言うまでになってしまいました。
そして今回の2011年3月11日に福島第1原発事故がおこる。
この事故では1,3,4号機の原子炉建屋が吹き飛んでしまったことは記憶に新しい。


沸騰水型原子炉(BRW)の構造説明によりに、わずか1/3程度しか発電につかわれておらず、残りの2/3は海に放出し海を暖めるに過ぎない。しかも核分裂による発熱以外にも、崩壊熱という制御出来ない熱が出続けている。これは原子炉を停止して72時間が経っていても、1分間に140リッターの水を蒸発させてしまうだけの熱量をもっている。この崩壊熱が建屋を吹き飛ばした原因と考えられる。

当然、今回の事故では電気系統が壊れ、水を巡回させるポンプが停止したことで、温度が上昇し爆発したのだから管理制御を行う場所は暗闇。被爆を防ぐ意味から外気も入らず、窓の無い部屋で必死で作業をいまでも行っています。
当然、爆発により多くの放射能が放出されていますが実は政府はSPEEDIIという計算プログラムで放射能の流れを掴んでいたと考えられますが、その内容はまったく公開されず、同心円上的に避難をさせてしまったために多数の方々が甲状腺被曝量は500mSvを越えたがよう素剤の投与はされなかった。
第一次産業に従事される方々はなすすべもなく、家畜が餓死するか・・もしくはその鎖を解くしかなかった。

通常、放射能に従事する方は、放射能管理区域に立ち入った場合は、その衣服や身体に放射能がついていないかの厳しい検査を受けてからでないとエリア外に出ることが出来ない。
福島県の東半分を中心にして、宮城県南部、北部、さらに茨城県、栃木県北部などを放射線管理区域にしなければならないほどの汚染を受けた。これをチェルノブイリ事故の非難基準を適用すれば、琵琶湖の2倍、日本の法令を厳密に適用すれば福島県全域に匹敵する地域を放棄しなければならない状態である。


日本は法治国家のはず。
日本は一般人は年間1ミリシーベルト以上の被曝をさせてはならないという法律がある。
放射線管理区域から1㎡あたり4万ベクレルを超えて放射能で汚れたものを管理区域外から持ち出してはならないという法律もある。
福島原発事故を引き起こした最大の犯罪者は政府であり、その政府はこの事故がおきたらすぐにこの法律を反故にしてしまった。
炉心は1cm×1cmのサイコロ状に焼き固めジルコニアの鞘に400個を詰めている状態だが現在、大半は圧力容器内で溶け落ちておりしかも、その底までも溶融体として溶け続けている。
地下水に到達してしまうと、さらに汚染が広がる状況となっている。

放射線癌死の年齢依存性をみると、子供には影響力が高いこことがわかる。
子供達には原子力を許してきたという責任は無く、若いDNAは放射能に敏感に反応する。
私達、大人はなんとしても子供達を被曝させてはいけない。
それなら被曝による健康被害を選ぶのか、避難により生活の崩壊を選ぶのかという選択に行き着いてしまう。
長年の原子力の安全性神話はでたらめであり政府の情報操作である。
汚れてしまった大地は・・・返ってこないのか・・・。
東京電力が倒産するだけではなく、日本も危機に直面していることに気付くべき。
元々、石油資源は枯渇するといい続けられててきたために悲惨な戦争がおこったが、いまだに石油は枯渇していない。科学的に立証されていない埋蔵量のデマに振り回されたために戦争が起こってしまっている。
石油資源はまだまだ埋蔵されており、天然ガスはもちろん石炭も豊富に存在することは確認されている。企業であるかぎり採算を考えるのは当然だが、日本の電力会社が原発推進を進める理由は『電気事業法が利潤を決めているから』である。原発は建設コストが高く、建設期間も長い。核燃料を備蓄するばそれも資産となり、研究開発などの特定投資も巨額だがそれら全てが利潤を膨れ上がらせている。

原発依存から簡単に抜け出せる!
火力発電所の能力を引き出せば、原発は不要!
この夏に執拗に叫ばれた節電も本当に必要であったのかどうか。。


戦争目的で核開発を推進してきた技術を原発に転化すること。言い換えればいつでも核兵器をつくることができる技術である。
アメリカの言いなりで原発を建設、そしてその度に莫大な利益を生み出す既得権益があるために、廃止を言い出せない役人を筆頭に様々な企業が群がる
研究を推進するために御用学者が増え、国民を洗脳にかかる・・そんな結果、今回の事故がおこっても、まだ眼が覚めない。
私達が、今、出来ることは。原発はいらない!とはっきり言葉にすることです。

<原発はトイレの無いマンション>
生み出された廃棄物処理をすることもできず私達の未来に負の遺産を継承してしまう。
<原発は、海暖め装置>
大半の熱は利用されずに、回りの海水温度を上昇させてしまい、大きく生態系を崩壊させてしまう。

地球温暖化の見地から、火力発電は進めるべきではないという意見に対し、Co2が地球温暖化を進めている原因なのか?疑問であり
そもそも、地球は温暖化~冷温化を繰り返している。原発は、発電時にはCo2は出さないだけで、建設や原料の調達を含めればクリーンエネルギーでは無い。


さて、私はMBSの種まきジャーナルで小出先生のお話を聞いており、なんと私のような素人にでもわかりやすくお話してくださる方なんだと感じ、その話されるショッキングな内容に驚いていました。
そして今回初めて講演会に参加させていただくことができ様々な事実を知ることが出来ました。
このBLOGに五月雨的に書き、読まれる方には伝わりにくい文章で申し訳ないのですがぜひ、小出裕章先生の著書をお読みください。
ぜひ、小出先生の講演会に参加ください。そして本当に原発はもういらない!と声に出してみんなで言いましょう!

2011/09/06

2011 9/6  浜口悟陵さん「稲むらの火」と地震学者今村明恒さん

津波と戦った人 ~浜口悟陵伝(戸白四郎著)を読みました。
おそらく近いうちに現地に行ってきます!

さて、3/11の東日本大震災以降に様々な地震や津波などと天変地異にまつわる番組が放映されます。私がこの浜口悟陵さんの存在を知ったのもそんなNHKの番組です。

■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇
※本書P92を参照  稲むらの火 ~抜粋

「これはただ事ではない。」
とつぶやきながら五兵衛は家から出て着た。
五兵衛は、自分の庭から、心配げに下の村を見下ろした。
村から海へ移した五兵衛の目は、忽ちそこに吸い付けられてしまった。
波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れて来た。
「大変だ、津波がやって来るに違いない。」と、五兵衛は思った。
四百もの命が村もろ共ひとのみにやられてしまう。

「よし。」
と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明を持って飛び出してきた。そこには取り入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んである。
 「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ。」と五兵衛は、いきなりその稲むらの一つに火を移した。
火の手がぱっと上がった。
五兵衛は夢中で走った。
自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、まるで失神したように、彼は沖の方を眺めていた。
 日はすでに没して、稲むらの火は天をこがした。

「火事だ。庄屋さんの家だ。」と村の若い者は、急いで山手へかけ出し、老人も、女も、子供も続いた。
やっと二十人ほどの若者がかけ上って来て火を消しにかかろうとする。
五兵衛は大声に言った。
 「うっちゃっておけ。大変だ。村中の人に来てもらうんだ。」

 「見ろ。やって来たぞ。」
五兵衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に、一筋の線が見え、見る見る太くなった。広くなった。
非常な早さで押し寄せて来た。
 「津波だ。」と、誰かが叫んだ。海水が絶壁のように目の前に迫った。

 人々は、自分等の村の上を荒れ狂って通る白い恐ろしい海を見た。ニ度三度、村の上を海は進み又退いた。
一同は波にえぐり取られてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見下ろしていた。
 稲むらの火は、風にあふられて又燃え上がり、あたりを明るくした。始めて我にかえった村人は、此の火によって救われたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。 

■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇

浜口悟陵さんは、ヤマサ醤油の七代目で、勝海舟さんの生れる3年前。日本近海にたびたび外国船が現れいよいよ幕末の動乱にはいってゆく1820年に生れました。

当時、すでに千葉の銚子に醤油の製造をおこなっていたため銚子での厳しい丁稚修行の傍ら儒学などを学ばれている。
当時の最先端を走る蘭学者との交流が活発で種痘の撲滅のために力を注ぎ、また地元和歌山広村では自警団を組織する。33歳の時に黒船来航。そして1854年(安政元年)の34歳の時に安政大地震津波が和歌山を襲った。

安政時代は地震が非常に多く安政3大地震が下記。

安政元年11月4日(1854年12月23日)安政東海地震(M8.4)
安政元年11月5日(1854年12月24日)安政南海地震(M8.4)
安政2年10月2日(1855年11月11日)安政江戸地震(M6.9)

この浜口悟陵氏の驚くべき行動は【稲むらの火】だけではありません。
津波に襲われた村野復興と、今後の防衛のために堤防の増築に自費を費やします
それは1855年(安政2年)から4年の間に大防波堤の建設を進め、全長600m、高さ5mで、海側に松、陸側に櫨の木が植えられ現存しています。櫨の木は蝋がとれることを狙い、堤防のメンテナンス等の維持費に当てられたそうです。

稲むらの火の館
http://www.town.hirogawa.wakayama.jp/inamuranohi/index.html


この素晴らしい行いを、あの小泉八雲氏(ラフカディオ・ハーン)は大西洋論評(1896年)に発表。後の作品集の「仏陀の畠の落穂拾い」にも掲載されたことで世界中に拡散されました。

そして時代は経過しようやく今村明恒氏の登場です。
今村氏は明治3年生れの地震学者さん。関東大震災を予言し防災に努めたが町中はパニックになったことから「ほら吹き」と呼ばれてしまう。そして1923年9/1(T12)の関東大震災以降に脚光をあび地震研究の第一人者となる。
彼は防災が非常に大きな役割を担うという観念の中でも津波から逃れる為には幼少の頃からの教育が必要という考えから当時の文部省に何度もかけあいこの「稲むらの火」を教科書に掲載させた。
なので今では少なくなりましたが戦前の方の中にはこの稲むらの火のエピソードはご存知の方がおられました。
そして戦中・戦後教育では教科書から姿を消してしまい、今回の3・11を迎えてしまったわけです。

※WIKIに面白いエピソードが書かれていましたので転載します。
2005年1月、インド洋大津波をうけてジャカルタで開催された東南アジア諸国連合緊急首脳会議でシンガポールのリー・シェンロン首相が当時の小泉純一郎総理大臣に「日本では小学校教科書に『稲むらの火』という話があって、子供の時から津波対策を教えているというが、事実か?」と尋ねた。しかし、小泉は戦後世代なのでこの話を知らなかった。東京の文部科学省に照会したが、誰も知らなかったということである。

2011 9/6 秋を感じた今朝・・

私が小学生の時のエピソードです。

大好きだった女の先生が結婚されそして産休に入られました。

替わりにこられたのがすごく年配の怖そうなおじいさん。


たしかお名前は・・・うろ覚えですがたしか「ナガオ コウシン」さん?だったように記憶しています。
自己紹介でなぜか、竹刀持参で「わしは軍隊上がりでバシバシっと行くぞ!」みたいな事を言われ
生徒は恐怖で顔を引きつらせたようにおもいます。


そしていきなり黒板に書かれた言葉がこれ。

~身体髪膚是を父母に享く 敢えて毀傷せざるは 孝の初めなり~

丁寧に文章の意味を説明してくださったので理解できましたが
よく考えてみると、自己紹介では、体罰を肯定してるのに、私達には怪我するな!と言ってる??と
混乱したおかげで、何時までも脳裏にこの言葉が残っていました。


たしかに素晴らしい言葉です。

私達の体の全ては父母よりの授かり物。怪我しないことが親孝行の最初なんだ。。

そんな先生の教えに背き、子どもの頃から怪我ばかり。大人になるとピアスをはじめしなくても良いのに
自分の体を敢えて毀傷させてばかりで親には随分心配をかけました。


いつの間にか秋らしくなった台風一過の今朝。

ふとこんなことを思い出しました。

2011/09/04

2011 9/4 第21回 彦八まつり

台風12号のために彦八祭は日曜の開催のみとなってしまいました。
例年、当日は異様なほどの残暑に苦しめられましたが・・今年はひょっとしたら涼しいかも・・と
期待を抱いて会場入り。例年になく異様な湿度で例年の暑さに加えて湿度が高く、また時折降りだす雨に難渋した一日となりました。
しかし来場されるお客様は回を重ねるごとに増えているようで、老若男女であっというまに境内は満員、上方落語のファン層の厚さを感じました。


先日のNHKの特番で井原西鶴さんの特集がありました。日本で始めての経済小説である【日本永代蔵】。そして奔放な性の遍歴をもつ世之助の【好色一代男】、そして5組の男女の不倫、心中物について書かれた【好色五代女】をさっそく読破。
井原西鶴さんはこの生國魂神社さんの境内で興行をされた思い出の地でもあります。それより時代はすこし後ろにずれますが、おなじくこの境内で米沢彦八さん(上方落語の祖)が興行をされたおかげで、今日の上方落語の隆盛に繋がっているのはすごい縁なんですよね。


さて、4日は開始の1時間前に到着。曇りがちでいまにも降りだしそうな天候でしたが、沢山の屋台の準備の中にはすでに待ちきれない大勢のお客様が!ようやく定刻10時より扇納祭が開始。厳粛さを感じる儀式のあとに賑やかに、“年に一度の落語家の文化祭&ファン感謝デー!” 第21回彦八まつりが開催されました。

さっそくお目当ての噺家さんのブースへ行き、サインと記念撮影タイム!今年は桂米團治さん、桂きん枝さんをはじめ笑福亭福笑さんや今年の実行委員長さんの桂梅団治さん、をはじめ沢山の噺家さんと記念撮影とサインを頂戴し、また楽しいお話させていただき充実した時間を過ごさせていただきました。
本当にありがとうございました。

2011/09/01

2011 9/1 人生の転機

誰にでも自分の人生を決定付ける分岐点があるとおもいます。
今思えば、あれが分岐点だったのかなー?と思えるものから、長い間悩み、進むべき道を決めるくらいのものもあります。

長ーい、長ーい間抱え続けた結果が出るのがこの9月。
そして私の新しいテーマが開催されるのも9月。
生きてゆくためにしなければならないもののトリガーが引かれるのも9月。

どう進んでも私の人生♪後悔したくないから進むだけ。

だから大きな分岐点を胸を張って進みます♪