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2011/09/06

2011 9/6  浜口悟陵さん「稲むらの火」と地震学者今村明恒さん

津波と戦った人 ~浜口悟陵伝(戸白四郎著)を読みました。
おそらく近いうちに現地に行ってきます!

さて、3/11の東日本大震災以降に様々な地震や津波などと天変地異にまつわる番組が放映されます。私がこの浜口悟陵さんの存在を知ったのもそんなNHKの番組です。

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※本書P92を参照  稲むらの火 ~抜粋

「これはただ事ではない。」
とつぶやきながら五兵衛は家から出て着た。
五兵衛は、自分の庭から、心配げに下の村を見下ろした。
村から海へ移した五兵衛の目は、忽ちそこに吸い付けられてしまった。
波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れて来た。
「大変だ、津波がやって来るに違いない。」と、五兵衛は思った。
四百もの命が村もろ共ひとのみにやられてしまう。

「よし。」
と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明を持って飛び出してきた。そこには取り入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んである。
 「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ。」と五兵衛は、いきなりその稲むらの一つに火を移した。
火の手がぱっと上がった。
五兵衛は夢中で走った。
自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、まるで失神したように、彼は沖の方を眺めていた。
 日はすでに没して、稲むらの火は天をこがした。

「火事だ。庄屋さんの家だ。」と村の若い者は、急いで山手へかけ出し、老人も、女も、子供も続いた。
やっと二十人ほどの若者がかけ上って来て火を消しにかかろうとする。
五兵衛は大声に言った。
 「うっちゃっておけ。大変だ。村中の人に来てもらうんだ。」

 「見ろ。やって来たぞ。」
五兵衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に、一筋の線が見え、見る見る太くなった。広くなった。
非常な早さで押し寄せて来た。
 「津波だ。」と、誰かが叫んだ。海水が絶壁のように目の前に迫った。

 人々は、自分等の村の上を荒れ狂って通る白い恐ろしい海を見た。ニ度三度、村の上を海は進み又退いた。
一同は波にえぐり取られてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見下ろしていた。
 稲むらの火は、風にあふられて又燃え上がり、あたりを明るくした。始めて我にかえった村人は、此の火によって救われたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。 

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浜口悟陵さんは、ヤマサ醤油の七代目で、勝海舟さんの生れる3年前。日本近海にたびたび外国船が現れいよいよ幕末の動乱にはいってゆく1820年に生れました。

当時、すでに千葉の銚子に醤油の製造をおこなっていたため銚子での厳しい丁稚修行の傍ら儒学などを学ばれている。
当時の最先端を走る蘭学者との交流が活発で種痘の撲滅のために力を注ぎ、また地元和歌山広村では自警団を組織する。33歳の時に黒船来航。そして1854年(安政元年)の34歳の時に安政大地震津波が和歌山を襲った。

安政時代は地震が非常に多く安政3大地震が下記。

安政元年11月4日(1854年12月23日)安政東海地震(M8.4)
安政元年11月5日(1854年12月24日)安政南海地震(M8.4)
安政2年10月2日(1855年11月11日)安政江戸地震(M6.9)

この浜口悟陵氏の驚くべき行動は【稲むらの火】だけではありません。
津波に襲われた村野復興と、今後の防衛のために堤防の増築に自費を費やします
それは1855年(安政2年)から4年の間に大防波堤の建設を進め、全長600m、高さ5mで、海側に松、陸側に櫨の木が植えられ現存しています。櫨の木は蝋がとれることを狙い、堤防のメンテナンス等の維持費に当てられたそうです。

稲むらの火の館
http://www.town.hirogawa.wakayama.jp/inamuranohi/index.html


この素晴らしい行いを、あの小泉八雲氏(ラフカディオ・ハーン)は大西洋論評(1896年)に発表。後の作品集の「仏陀の畠の落穂拾い」にも掲載されたことで世界中に拡散されました。

そして時代は経過しようやく今村明恒氏の登場です。
今村氏は明治3年生れの地震学者さん。関東大震災を予言し防災に努めたが町中はパニックになったことから「ほら吹き」と呼ばれてしまう。そして1923年9/1(T12)の関東大震災以降に脚光をあび地震研究の第一人者となる。
彼は防災が非常に大きな役割を担うという観念の中でも津波から逃れる為には幼少の頃からの教育が必要という考えから当時の文部省に何度もかけあいこの「稲むらの火」を教科書に掲載させた。
なので今では少なくなりましたが戦前の方の中にはこの稲むらの火のエピソードはご存知の方がおられました。
そして戦中・戦後教育では教科書から姿を消してしまい、今回の3・11を迎えてしまったわけです。

※WIKIに面白いエピソードが書かれていましたので転載します。
2005年1月、インド洋大津波をうけてジャカルタで開催された東南アジア諸国連合緊急首脳会議でシンガポールのリー・シェンロン首相が当時の小泉純一郎総理大臣に「日本では小学校教科書に『稲むらの火』という話があって、子供の時から津波対策を教えているというが、事実か?」と尋ねた。しかし、小泉は戦後世代なのでこの話を知らなかった。東京の文部科学省に照会したが、誰も知らなかったということである。