長州藩はとても面白い藩。佯狂を装い2面性をもった藩。実は当時の長州藩の政治の中枢を握った周布政之助さんは<攘排也、排開也、攘夷而後、国可開>と延べています。たしかに周布さんは土佐藩士の前で容堂公を罵ったために処罰されたはずが麻田公輔
と名乗り政治の実権を与えていた毛利のお殿様も偉大ですが。
さて、文久三年(1863年)、孝明天皇に攘夷の期限を迫られついに5月10日をもって攘夷を決行いたしますと答えた将軍家茂。ただしこの返事は「相手が攻撃をしてきたら」という但しがついていた。ところが血気盛んな長州藩では5月10日になったとたんに関門海峡を通行するアメリカ商船「ベングローブ号」へ発泡。次々と関門海峡を通行する船に攻撃しては勝利の雄たけびをあげる長州軍。それもそのはず、相手は商船であり本格的な武力の伴わない船ばかり。
6月に入るといきなり報復攻撃がはじまり、下関砲台は木っ端微塵。各国連合艦隊がすさまじい勢いで長州を叩いて行く。そしてついには講和が結ばれ有名な高杉晋作さんの出番。
と、ここまでは尊皇攘夷向きなお話だが、実は攘夷期限が過ぎた翌日5月12日に横浜から5人の長州人がイギリスに向かっています。政治の中枢をになう周布政之助尽力で最先端のイギリスへの極秘留学に旅立った。
たちよった上海で、彼らが見たものは。そしてようやく帆船旅行で4ヵ月半をかけてロンドンへ到着。当時のロンドンは産業革命真っ只中。30年前には鉄道が走り、なんと到着の前日には地下鉄までもが市内の地下を走っていたそう。
話は高杉晋作さん。彼は連合国との講和のために宍戸刑部と名乗りテーブルに着く。鬼のような形相・・云々と伝えられているが実は1回目の講和では長州藩の代表である委任状が無いために早々に退散。2回目の講和の際は命を狙われていたためにやむなく欠席し逃亡。そして3回目は藩の重鎮と一緒に締結になったそう。
外国からの様々な要求のなかでキーとなるのは賠償金300万ドル。この額は長州がはらえるはずも無く幕府に押し付けたとされている。ところがこの話には下記のような経緯があったそう。
日本にようやく足場を築いた外交勢。さらなる足場を拡大するために「兵庫の港」「西国の港」の開港を要求。当然幕府は300万ドルも払えるはずがないから、開港をするだろうというのが狙いだった。なので意図も簡単に幕府に尻拭いを押し付けられたそう。
ところが幕府は根性を見せたww 兵庫の港は京都に近い、西国の港はこの下関を指しており、この港を開国すれば長州藩へ多額の利潤があつまる・・。よし!300万ドルを払おうとなったそうだ。
さて話しの舞台はロンドンへ。
英語のわからない5人(井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝))は1年間は聴講生としてロンドン大学でお勉強。1864年の3月。ある日たまたま新聞を見て驚いた。どうやら連合艦隊で長州を攻撃するらしい。この記事で大急ぎで
伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)は帰国する。さすが未来の政治家です。
遠藤謹助は体調を崩し1866年に帰国。そして野村と山尾は1868年(明治元年)11月19日に帰国しました。
今日の講座ではロンドンで出会った19人の薩摩藩士の話しや北海道開拓使、払い下げ事件・・そしてサッポロビールにまつわる不思議なお話をいただきました。
いつもとおり充実した時間でした。