連日の猛暑、一阪先生も汗だくで教室入り、額からはまだ大粒の汗が。。たぶん駅から走ってこられたのかもしれません。
開口一番、気象庁関連の知人にこの猛暑について聞いたところ、なにやら不穏な空気を察知されたとのこと。ひょっとしたらなにか良からぬことが地球におこっているけれど、その対策がなられていないので発表すると大変なコトになるということで密かに報道管制が引かれているのかもしれません。
さて今回の内容は前回の続きです。王政復古の大号令に至るそれぞれの思惑が違うところが今回のポイント。
慶応3年10月14日(1867年11月9日)に慶喜さんは大政奉還を上奏し翌日に勅許がでた。
これは政治の権限のみを返上したという言わばきわめて抽象的な内容で、第1回目の諸侯会議が行われるまでは慶喜さんは今までとおり政治の実権をもったままだということに注意。さて、この中心思想の公儀政体をすすめたのが土佐藩山口容堂さん。とはいえ土佐藩のなかは実はいろんな意見が飛び交っていてぐちゃぐちゃであったそう。
さてその諸侯会議も圧倒的な支持で慶喜さんが合法的に選ばれる段取りとあぐらをくんでおりましたがちょっとずつ情勢が狂いだしてくる。
このまま第1回目が開かれるとまた徳川政権となってしまうと危惧した倒幕派の薩摩藩+岩倉具視は大政奉還は無理と踏んでおり武力倒幕に進んでいたが実現したために諸侯会議が開かれてはまずい!と考えるのは当然。
12/2にはとにかく第1回目が開かれるまではと我慢していた後藤象二郎さんのイライラも最高潮!それではと聖断をしていただこうという方向が濃厚になる。聖断がでてまずいのは慶喜さん。あわてて諸侯に上洛を促すことになる。
じゃ聖断はいつがいいか?でいろんなやり取りが行われる。
12/5は?だめだめ!まだ容堂さんが京都にこられていないということで却下!
この背後で武力倒幕をもくろむ薩摩はパートナー探しを水面下でおこない、土佐・安芸・尾張・越前・宇和島・備前にほぼ決定。(尾張と越前は徳川との結びつきが強いので要注意・宇和島、備前は京都に藩主がいないので却下)
なんとか聖断の日程を遅らせてもらう為に後藤は、中山忠能へ日延べ依頼。しかもこの時に慶喜さんは3役にはいっているんでしょうね?と確認をしている。また後藤はおなじく松平慶永にも確認し、聖断があることを慶喜に伝えて欲しいと依頼する。
さて少しだけ日付を戻す。
12/5 慶喜さんは全国諸大名に上洛を促す。
12/6 慶喜さんは聖断が近日中に行われることを知る。
12/6 容堂さんが関西到着。
12/7 容堂さんが枚方入り
12/8 容堂さんが京都到着。
12/8 岩倉は12/8に固執
12/9 中山忠能は「天皇が乗る籠ができていないことを理由に却下」
ということは、京都が戦場になることをすでに予感していたということか。。
実際11/29には長州800人が西宮付近に待機。朝敵の烙印をおされている長州藩が倒幕の秘勅をもっているといういわめてヘンテコリンな状態がおこっている。
さて12/8 夕刻から翌日にかけて行われた朝議で長州親子の官位復活と八月十八日の政変で追放された7人の公家の赦免(現在は5人)が決められ12/9の朝には終わった朝議。
一部が退席した後に薩摩・芸州・尾張藩などの軍が御所の門を取り囲み明治天皇がおられる場所で王政復古の大号令が発せられた。
ついに発せられた王政復古の大号令。すぐさま小御所会議が開かれて総裁・議定・参与が決定する。
総裁には有栖川宮熾仁親王、議定には仁和寺宮純仁親王、中山忠能や徳川慶勝(元尾張藩主)、松平慶永(前越前藩主)浅野茂勲(芸州藩世子)、山内豊信(前土佐藩主)、島津茂久(薩摩藩主)、そして参与には公家から岩倉具視ら5人、尾張藩士、越前藩士、芸州藩士、土佐藩士、薩摩藩士らが選ばれた。
しかも決まったのはこれだけではなく、全国の1/4の天領をもつ慶喜さんに対し、辞官納地を命じることになった。
後藤さんは愕然だっただろうし、慶喜さんは踏んだり蹴ったり。
この怒りのパワーが日本の大惨事の戊辰戦争を引き起こすことにつながるのですが
新政府を勝利に導いた錦の御旗についてのお話がありました。
10/6 岩倉具視さんが大久保氏(薩摩)・品川氏(長州)と打ち合わせ。岩倉の腹心の国学者玉松操に依頼しデザインをさせていた。
日本人はシンボリックなモノに弱いことをちゃんと押さえていたんですよね。さっそく大久保は西陣で生地を購入。品川は生地を受け取り長州で製作にかかる。実際の製作は長州の有職故実研究家の岡吉春が製作にかかりました。
日本で錦の御旗が登場したのは南北朝時代。また「皇旗考」という書籍にデザインもかかれていたらしく4.2m×90cmで太陽、月、菊がデザインされており全部で22琉(りゅう)完成した。
明治元年1/3(実際は慶応)15,000人対5000人(薩摩、長州)で圧倒的に討幕軍は不利。ところが1/4東寺に錦の御旗があがると同時に各藩が官軍に参加。
慶喜さんは淀城へ退却し体制を立て直そうとしたが、藩主不在で、しかも錦の御旗パワーで、慶喜さんはお城に入ることができず大阪まで敗走。
1/7には慶喜追討令が発せられ時代は大きく動こうとしている。