江戸時代にも何度も地震が発生しており、有名なところでは
安政元年と安政2年、安政6年の大地震。この時の教訓を生かすために
大正区の橋と、堺の大浜公園に碑が置かれている。
※大浜公園の碑<擁護璽>は近日中掲載します。
明治元年4月11日は江戸城開城の日。この日、城内の兵器はもちろん
船の引渡しも要請されていたが榎本武揚は、これを拒否。
幕府の船7隻を率いて品川から脱出を図るが残念ながら失敗する。
榎本武揚氏は幕臣の次男坊。長崎の海軍学校で基礎を学んだ経験があり、幕府がオランダへ軍艦を発注するタイミングでオランダに留学。そして6年後、海律を身に着けて、幕府が発注した開陽丸に乗って慶応3年に帰国してきた経歴の持ち主。
その榎本氏は、江戸城開城についての不安点として旗本8万人の行く末が決まっていないことに
非常不安を覚え、常々北海道の開拓を計画、立案していた。
そんな榎本氏に仙台、会津、米沢各藩より熱烈なラブコール。奥羽列藩同盟への参加を促してきたことで、再び江戸脱出の決心を固めたらしい。
実際、榎本氏は上野ノ宮(輪王寺宮に対し、その狙いには乗ってはいけないことを伝えていたそう。
慶応4年8月 午前4時に8隻の船を率いて品川沖を脱出。この中には彰義隊のメンバーも乗船していた。
もちろん榎本氏は、薩長が構成する官軍は変だ!文句を言っても聞き入れてもらえない。
日本の悪い風習を改めさせ他国と肩を並べる為に実行するんだ!と決意が固い榎本艦隊(徳川脱藩家臣団)8隻。ところが幸先の悪いことに暴風雨により、あの咸臨丸は清水沖で座礁、沈没し多数の死者がでた、その弔いを行ったのがあの清水の次郎長さん。
8/26に仙台港につけたのは6隻。さぞ積極的に官軍と戦っているだろうとおもいきやだいぶ事情が変わっていて、藩のムードは官軍への降参ムード。(9/中には実際に降伏している)そんな雰囲気を打ち破る吉報が。
仙台にいる榎本艦隊を目指し続々と人々が集まってきた。もちろんこの中にはあの新撰組のメンバーもいた。
実際乗船できる人数は決まっているので残念ながら1万人を残し、北海道を目指す。
さて、この榎本艦隊にはフランス軍事顧問団の10人が乗船しており、10/20に鷲の木(北海道)に上陸し箱館を目指し移動を開始。
当時の箱館には、朝廷側の役所である箱館府がおかれており裁判所なる役所が存在、この建物が
五稜郭。五稜郭は1864年に完成したヨーロッパ風の城で、当時の知事は清水谷公考(きみたる)さん。
元々榎本さんは攻撃的ではなく清水谷さんに対し嘆願書を送ったが残念ながら届かず。
また、清水谷さんから見れば、いきなり上陸してきた大群に対し脅威を感じ、速攻で攻撃を仕掛けてきた。榎本にしてみれば、いきなり喧嘩を売ってきた清水谷に対し喧嘩を買って、その挙句、簡単に勝ってしまった状態。清水谷さんは陽春丸で青森へ逃げてしまった。
次の制圧先として目指したのは松前。捕虜としていた松前藩の人(サクライジョウタロウ)を使者として藩に送ったところ、藩主は激怒!いきなり切り殺してしまった。
10/28に福山城を攻略し11/5には落城。さぁ、これからだ!とのことでここでケチがつく。なんと11/15の夜に開陽丸が江差沖で座礁し沈没してしまう。このため、榎本らは五稜郭に篭ることとなってしまった。
ちなみにこの開陽丸は明治7年・37年・昭和4年・17年と引き上げにチャレンジしたがいずれも失敗。
昭和47年にようやく成功した。沈没した船には徳川の紋がだれもが入っているとおもっていたがところがそこには葵の紋ではなく、丸に中にハートマークが3つ!おそらくオランダの技術者には葵が意味不明だったのでしょう。
さて五稜郭では入札が行われた。その結果榎本武揚が総裁となり函館政権が開始。
実際は仮政権のニュアンスで、いずれは徳川系のTOPを迎えて蝦夷地を開拓するのがあくまでも目的。
ちょうどそこへ、イギリス、フランスの船が入港。この使者に、官軍に対し嘆願書を運んでもらうよう依頼。そしてその通り新政府に届けてもらったがその返事は・・・残念ながらNG!
11/19には函館追討令が発令。11/27には青森口総督としてあの清水谷氏、サブとして山田いちのじょう、黒田清隆が起用、そして青森が集結基地となりそのお守りは弘前藩が担当。実際この年は大凶作で平年の1/4程度しか米が取れない大変な年でした。
そんな弘前藩に嬉しいおしらせ♪官軍側から「かかった費用はあとから払うから」とのお達し。実際は廃藩置県のドタバタでうやむやにww
主力の船である開陽丸を失った榎本側。それではと明治2年に官軍の船を奪う作戦を考えた。
眼をつけたのは甲鉄というアメリカ製の船。
3/9に品川をでた4隻のうちの1隻で3/18に宮古港に停泊している。
3/20に、榎本側は回天、ばん竜、高雄の3隻で作戦決行!作戦は「アボルダージュ」
3/24に山田港へ。この時回天以外は故障で使えない状態。回天はなんとアメリカ国旗を掲げて宮古港へ入り甲鉄を狙ったがあえなく敗退。
実はこの様子を若かりしころの東郷平八郎さんは目撃しており、後年に手記を残されている。
3/26には官軍は青森に大集結。4/9には乙部へ上陸し五稜郭を目指す。
一方榎本軍には4/13に仙台で船に乗れなかった応援部隊370人が加わると官軍には3600人が合流。
その攻撃力で4/17には福山城を奪還。そしてついに5/11に五稜郭に総攻撃が開始された。
敗北が濃厚となったとき、榎本武揚は、なんと「海律全書」を黒田清隆へ託し官軍へ届けた。
その代わりに酒や肴を官軍より受け取り最後の酒宴を行ったらしい。
5/17に五稜郭落城となる。
官軍に捕縛された榎本武揚を救ったのは、黒田清隆が西郷らに助命を嘆願した結果明治5年までは牢で暮らすことになったが以降は北海道開拓へ再チャレンジの任務を与え開放した。
また五稜郭が落ちたとき1254人が捕縛され、色々な藩で預かりとなった。
内6人は明石藩預かり。(松平家)場所は浜光明寺。藩では非常に大切に扱い、酒や健康診断付。6人の中のコマザキ氏は軍事に長けていることからオランダ式の軍事をフランス式に変える教練を担当。後日、静岡に移動命令がでたが、再び明石藩に戻りいついたらしい。
また榎本軍にいたフランス軍事顧問団の中の一人は後日「日本での冒険」という本を出版。参加の意味を「イギリスの魔の手から日本を守りたかった」と記載。
9人はフランス船に助けられて脱出。また後日シャルル・デュ・ブスケ氏は田中花子さんと婚姻し45歳で亡くなっている。青山霊園に仏人治部輔氏之墓と墓石に書かれている。