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2011/06/18

2011 6/18 教科書に書かれない幕末史 ~脱落する人たち

2011 6/18 教科書に書かれない幕末史  ~脱落する人たち~

この内容は一坂先生から教えていただいたものを元に私が勝手に纏めているだけなので、私の認識不足から事実と異なる場合があります。
そんな時は素直に謝りますwwゴメンナサイ!

それでは、今回の朝日カルチャーの内容です。


明治政府があっさりと捨てたモノ・・それは攘夷思想。
幕末の時代を吹き抜けた尊皇攘夷思想。もとろん薩摩藩や長州藩の中にその思想は多かったはずが、政権を取ったとたんにあっさりと手のひらを返した感が否めない。

おもいっきりの縦社会であった藩という概念が、攘夷という思想によって、同士という藩の垣根を越えた横のつながりが形成されました。と同時に外国からの攻撃により、”日本人というアイデンテティ”が芽生えた。
悲惨な事件として神戸事件では壮絶な切腹をした滝善三郎は「自分は遠国の者故、外国人を手厚く保護するとは知らなかった」と強烈な皮肉を漏らしている。

古部の垂水にある舞子霊園内永服地福寺墓地にある「土岐一郎のお墓」は2mくらいの巨大なお墓。
元々和田岬にあったらしく、非常に古く誰の墓なのか長らく不明のまま。明治44年「西摂大観」ではお墓の側面に攘夷を感じさせる詩が書かれていることから、志士の墓ではないか?と記されているらしい。
さてこのお墓は調べてゆくうちに、神戸事件で切腹をした滝善三郎の部下で、外人を槍で突いた本人の墓ではないか?と判明してきた。
そこで、滝善三郎が眠る墓の横に並べては?という声があがるが。これにSTOPがかかった。
土岐一郎は偽名で本名は太田彦郎、小豆島出身(岡山の津山藩)。津山藩は洋学が非常に盛んな藩で、数年前に小豆島の住人が外国人の殺されるという事件が起こっていることから攘夷論者であったことが考えられる。
ある日、神戸へ出てきた太田は町を闊歩する外交人の数に驚いてしまう。そんな背景で津山藩藩士と激しい口論の中でついに明治2年2/24に和田岬で殺されてしまったことが判明。享年25歳。その後、彼の墓は「残念さん」と呼ばれて信仰の対象となっている。
それは攘夷を唱えた信念に教官を覚える人々が多かったことをあらわしているのではないか?

明治2年9/4の夜半には兵部太夫の大村益次郎が京都で襲われている。
村医者であったがオランダ語を学んだことで兵学所の翻訳を進めるうちに兵学者となり、フランス式の軍隊に傾向。当時考えた徴兵制はそれは画期的な方法であった半面、士族には恨みを買うきっかけとなっている。

明治2年8月 大阪を軍事の拠点とすべく関西へ。
さて、大村を襲ったのは「神代直人」ら8人。21歳~29人の若者たち。内長州人は3人。

明治2年7月には、京都で合流、それぞれが知り合い、西洋化を推進しているのは大村であると目的を決めた。
9/2には大村bに対する斬奸状を作っている。(神州之国体を汚し朝憲を蔑し・・・・)
犯行後は神代は長州まで逃げ帰ったところで捕縛。藩内で取り調べを行い、即斬首の後、太政官へ報告をしている。なぜ、京都へ引き渡さなかったのか・・・。おそらく世間では攘夷論がまだまだ盛んで、神代の名誉を守ることが目的だったのではないか。

元々、この事件を予見していた木戸孝允は、細かな注意を与えていた。
特に京都弾正台の不穏な動きを伝えている。

さて、襲われた大村は斬られたキズが悪化、大阪の鈴木町に移動しボードウィンによって足を切断したが敗血症により1/5に亡くなる。大阪市内にある巨大な碑にはあの東条英機の名前がある。
切断した足は東寺町の龍海寺にあり、これは彼の大阪に対する思いと同時に蕎麦に眠る緒方洪庵に敬意を示したのでしょう。
この大村の墓はなんと昭和14年にようやく建立されている。やはり、当時は攘夷論がまだまだ盛んで立てることが出来なかったのでしょう。

8人のうちの6人の処刑を行うことになった京都府。当時は府・藩・県がありなんともややこしい時代。処刑の寸前に京都弾正台の海江田より中止せよ!の指令が届く。困った京都府は太政官にお伺いを立ててようやく処刑を行った。そしてこの事件は山口藩の脱退騒動へとつながってゆく。

長州藩の奇兵隊は民衆を集めることでいまや5000人。
明治2年8月に山口藩を脅かす令が下った。四境戦争により手に入れた石見と小倉を返却することとなる。
これでいっきに収入の大幅減。この穴埋めとして不要な軍事力を整理するlこととして2250人は常備軍へ移行。残りは「はーい!解散!」(明治2年11月:諸隊解散令)
明治2年11/1 その処分により1200人が脱走し防府(宮田)に18の関門を築くことで2000人に膨れ上がる。
王政は幕政に劣る・・長州は徳川に劣る・・と嘆願書を出したり、大村の墓を暴いたりしていた。
明治3年1/24には藩知事の屋敷が襲われ、直属の干城隊を負かすと同時に、山口各地で農民の一揆が勃発。(脱退兵が鎮圧したという話も・・)
ついに武力鎮圧を決めた木戸孝允は2/8に実行したが翌日敗北。2/10には西郷が薩摩兵をつかうかどうかの打診があったがこれを当然断っている。2/11には体制を建て直しようやく制圧が行われた。
140人近くが処刑。島流しも多数。長州人同士が戦いあう事となった結果。

反乱兵の佐々木祥一郎は処刑される際はわめき散らした為に鉄の棒で滅多打ちしたあげくに首切りの後、さらし首。(宇部)
反乱兵の長島義輔の首を持ち帰った家族が仏壇に供えたところ鼻血をだして答えた。
多数の反乱の結果、死者を出した彼らの墓は・・・靖国に祀られる事は無かった。。。

この処刑をなんとか免れた多数の反乱者は実は、九州の久留米に逃げ込んでいた。
藩主は有馬頼咸(よりしげ)。幕末にはすでに軍艦を七隻も保有していた海軍力のある藩。

明治元年1/8には、徳川慶喜さんに力を尽くすことを決定し1/26には出発する手はずとなっていた。ところがその当日の1/26には藩の重鎮である不破美作(ふわみまさか)が攘夷論者の小河真文(おごうまさふみ)ら24人により暗殺された。もちろん12か条からなる斬奸状を出している。
この事件で久留米藩はあっさりと倒幕派に変更。
2/28には京都の警備を任されている。実は久留米藩は1000人から成る奇兵隊をモデルにした応変隊(討幕軍)と6000人の常備軍を持ち、外国と戦う為に軍を強化している。そこで山口藩から逃げてくる脱走者を匿うこととしていた。
粘着質な大楽源太郎は、西山塾を山口県大道で開いており塾生が神代直人。ちなみにこの横の村が大村の出身村。
たまりかねた山口藩は政府へこの久留米藩の問題をなんとかしてもらう為に願い出ていると同時に、久留米藩内では、中央政府への不満が高まってくることになる。

この背景で京都では大変な事件が起こる。

公家の愛宕直旭(おたぎみちあきら)と外山光輔(とやまみつすけ)が、東京へ行ったままの天皇を武力で取り返す計画を立てており、大楽らと階段を行い攘夷をも進めていた。
政府転覆計画・・・これは2府39県からなる大反乱計画となっていたが明治4年3/4に事件が京都で発覚。すぐさま京都で80人以上が捕縛。3/10には弾正台より久留米藩主に対し出頭命令が出され東京に呼び出される。
3/16には計画が漏れることを恐れ、大楽ら4人を筑後川で暗殺
この結果、全国で200人以上が処分され、明治4年12月以降には新政府に逆らうものは誰もいなくなった。