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2012/01/21

2012 1/21 教科書に書かれない幕末史 ~失業武士たち

今日の一坂太郎先生は、まず旭堂南左衛門さんとの出会いに関するお話をしていただきました。
もうすぐスペシャルな企画案があるそう^^で、その中で取り上げられる演目は「英国密航」~これは長州ファイブでいちやく有名になったお話。
そして一坂先生が熱望されたのは、井上聞太のお話で、20年くらい前にテレビから流れる講談を聞かれたそうです。
元治元年井上馨が刺客に襲われ、瀕死の重傷を負う。
戸板に乗せられ自宅にかつぎ込まれ、早く楽にしてやりたいと兄が介錯をする話へ。
ところが母は大反対!自分の生んだ兄が弟の介錯をするなんて・・なんとか助けてやりたいという一心で、当時、大阪の適塾で学んだ所 郁太郎により麻酔なく畳針で縫い合わせなんと一命をとりとめた。
この話は「母の愛」というタイトルで戦前の教科書に掲載されていたそう。
ところが現在は「無名の人」という司馬遼太郎の記載によるタイトルでトコロイクタロウを主人公にして教科書に掲載されているそうです。
ちなみに、井上馨を治療した後の半年後、腸チフスで亡くなったそう。

この井上馨氏はなかな難儀なところがあり、賄賂などの事件をおこしいまいち信用がおけない。
そのために爵位は候爵であり位が上の公爵にはなれなかった。
また自分の還暦の会では自分の銅像を建立、なんと高さは10m以上であったらしい。
またユニークな詩を詠んでいる。
「今日よりは ただの赤子に戻りけり みなちゃんごめん わがままで」

また、坂本竜馬のお話も出てきました。
竜馬はM15年の段階ではまったく無名で、当時発行の書籍の有名人ベスト100にも入ることは無かった。しかしM16の坂崎紫瀾の政治色の強い政治講釈の「汗血千里駒」の大ヒットで坂本竜馬が世間に広まり現在に至っています。

さて、今日の一坂太郎先生のテーマ「失業武士たち」のはじめのお話は日本茶で有名な静岡、牧之原のお話。
江戸時代は静岡という地名は無く、府中と呼ばれていました、新政府になると
不忠につながるということで静岡と改名しています。
この地は、旧幕府の家臣、すなわち旧幕臣が1000ヘクタールを開墾して茶畑にしたことに由来するそう。
また大井川の川越え人夫がM4の4月に渡し船ができた事が原因で、1,300人もが失業、牧之原で新しい産業の茶の栽培に参加したことも要因。

M6の10月に征韓論が覆り24日には西郷が帰国してしまう。
これは議会は通過したが天皇へ報告する際にNGとなった、アンフェアなもの。同時に300人もが帰国してしまう騒動になる。
当然、警察職がすっぽりと穴があいてしまうことに。
これを巡り水面下では長州と複雑な動きをみせる。
薩摩出身の川路利良(かわじとしよし)は何としても司法省へおいておきたかった。
長州は、福沢諭吉にヨーロッパの警察似関するレポートを提出させる見返りに、慶応義塾を現在の三田へ移すことを約束。色んな要素が絡み合い、西郷さんは板垣へ「言論だけではだめだ・・維新のやりなおしが必要だ・・」と
言葉をのこしている。

帰国した西郷は、当時の鹿児島県令の大山綱良(おおやまつなよし)に働きかけて、M7の6月に「私学校」を県費でつくる。この私学校は銃隊学校、砲隊学校で構成されておりM9には鹿児島のほとんどの郷に分校が創設されることになる。
鹿児島は他県と違い、士族が非常に多い。
全国平均で明治初年には全国平均は16人に1人。ところが鹿児島は3人に1人となっている。

さて、新政府は士族に対し次々と過酷な令を出してゆく。

M9の8月~秩禄処分。
武士はいままでは禄を藩よりもらっていたが、廃藩置県により藩が無くなったことで国が給料を出さねばならなくなった。そこで国は数年分の現金を渡すのでその間に職を見つけなさいというのが趣旨。
またM9の3月~廃刀令・M9の6月には断髪令でちょんまげを禁止している、ちなみに明治天皇はM6の3月に切られている。
これらにより武士のストレスは最高潮へ。

そしてついに10/24に熊本で火の手があがることとなる。

神風連(じんぷうれん)の乱と呼ばれ敬神党が本体、そのリーダーは太田黒伴雄。
また国学者の林桜園(はやしおうえん)の門下生で、すべての行いは宇気比(うけひ)という占いでその行動を決めていた。

県令は安岡良亮で土佐藩出身。M6には不穏な動きを察知して電信を引いている。ちなみに大阪(川口)
と神戸(京橋)間の電信は明治元年。

M9の2月に太田黒伴雄の占いに義挙を認める言う占いが出た。
同時に秋月(福岡)・萩(山口)に同士を募り10/24に熊本鎮台を襲うが、すでに近代火器で武装した2300人の兵隊が待ちかまえていた為に壊滅。
太田黒は必死必敗の覚悟で臨んだが結果は自決し120人が死亡、この必死必敗の覚悟は三島由紀夫に引き継がれる。
新政府は近代兵器で武装したものの100人近く亡くなったことは大問題。熊本鎮台のトップは土佐出身の谷 干城にかわることに。

さて10/27には福岡秋月で約200人の反乱が発生。
元々は小倉で合流+萩で合流し東京へ行く予定だった。
小倉藩は四境戦争により小倉ではなく豊津で維新を迎えている。ちなみに会津の家老の息子に当たる「郡長正(こおりながまさ)」がこの豊津に留学にきているが、なぜか自殺をしており、その原因は不明。
一説では、豊津の食事・・もしくは美少年・・・・。

さて、戦いは、北からは小倉連隊が・・南からは豊津の兵隊により挟み撃ちであっけなく鎮圧。


10/26には明倫館で士族が会合しそのまま挙兵となる、これが萩の乱。
明治維新後は結局、一部の連中しか良い目をしていないのでまったく不公平!そこに秩禄処分が追い打ちをかけた状態。
その中心人物は前原一生。彼はその実体をとりまとめ、政府に訴えるはずだった。
まず、山口鎮台を襲い、広島、大阪から東京へ向かう手はずだったが、前原一生は11/5に島根県で捕縛され12/3に仲間の9人とともに43才で処刑された。
ちなみに、萩の栄光の歴史の中ではBLACK歴史!県の歴史の書籍でもひたすら隠そうとしている感じがある。残念なことに前原一生の処刑の地の碑は工事の対象となり、松陰神社に移設。

さて、おもしろい話をしてくださった。

萩の連中は会津の連中とコンタクトをしていたという。

M9の12/29に、東京の思案橋に怪しい武士10人が船に乗り込もうとしていた。どうも様子が怪しいので警察に通報。結果、斬り合いとなる。

このリーダーの永岡久茂(ながおかひさしげ)は、千葉鎮台を襲い、東照宮にこもる計画だったそう。
萩の乱の知らせは電信。「コメノネダンガアガル」で前原が挙兵したことを知ったそうで思案橋事件と呼ばれている明治政府転覆を狙う未遂計画。