昭和45年、大阪万博が開催され高度成長期へ。
南海平野線も現役で活躍、近鉄南大阪線はまだ高架工事が始まっておらず
家の前の道はアスファルトではなく砂利道で、其々の家の洗濯物は
電車沿いの柵に物干し場を作り干していた。
各踏切りには踏み切り小屋があり電車が来るたびに手動で遮断機を下していたそんな時代。
阿倍野近鉄百貨店は庶民の百貨店でつっかけ姿で行くことができた。
また向かいのステーションデパートをつなぐ真新しい歩道橋には
傷痍軍人さんが、アコーディオンを鳴らしておられた姿も数年前までは見ることができました。
そんな中でどこからともなく子供たちの遊びの歌が聞こえてくる。
橋の下のねずみが、草履をくわえてちゅっちゅくちゅー
ちゅっちゅくまんじゅは誰が食(く)た
だーれも食(く)わへんわしが食(く)た
表の看板三味線屋 裏から回って三軒目
先日、そんな懐かしい風景の夢をみました。