志士という言葉はたしかに一坂先生が言われるように、勝者の言葉であり敗者に志士という言葉は使われていない。歴史の舞台に登場した者は皆、熱い思いをもっていろんな志を持っていたのに、歴史が二分してしまい、勝った方にのみ志士という称号を与えたのでしょうか。
田中河内介さんのお話が書かれている書籍は少なく中々知られていることにない方だがその背景は驚くべきものがある。
明治維新には二つの流れがある。
一つは外様大名雄藩を中心とした動き、そしてもう一つは在野の人たちを中心とした動きで、
今回は在野に相当する。
1815年(文化12年)~1863年(文久3年)
但馬の国出石郡神美村香住(豊岡市香住)の小森家(医者)の家出身。
この但馬には古くから、天皇家の末裔が移り住んだという話があることから、家庭境域が行き届いているという言い伝えがある。
元々は小森正造(和歌山出身)が移り住み教信(もりのぶ)という農家の青年だが熱心なので養子として医者を継がせ2代目となる。その子供が信古と河内介とのこと。
河内介はとても勉強熱心で21歳(天保六年 1835年 )、で京都へ行きざまざま著名な儒教家に入門。そしてついに念願の私塾を開く。
非常に評判が高いことから尊攘派公卿の中山大納言忠能(ただやす) 卿に仕えることとなる。
その後、家臣の田中近江守綏長(あやなが)家に入り婿となり、田中姓となる。
中山大納言忠能(ただのり)には忠愛(ただなる) という長男(後の右中将)・次女の慶子(よしこ)(後の明治天皇の母) 、そして忠光(ただみつ)(天誅組で有名)という次男が居た。
河内介には長男の左馬介(磋磨介)が誕生。非常に賢くて9歳で詩を作り出すくらい。
嘉永五年(ペリー来日の1年前)忠能の次女の慶子が妊娠する。彼女は孝明天皇の側室である。
妊娠を知った河内介は安産祈願で大阪本町にある座磨神社へ祈願に行っている。
そして無事誕生!祐宮睦仁が誕生。
通例では女官が養育するが河内介は女性を全員排除し、男性ばかりの環境で河内介自らが5歳になるまで養育を行う。
河内介は毛利と薩摩は特別視をしている。
元々天皇家は200石程度の生活基盤であるが、毛利、薩摩は多額の献金をしている。
さて、ペリー来航の条約勅許のドタバタ騒ぎのときには中山忠能はまったく動いていない。日和見的な立場であったのか。国家の一大事である時勢の対応に対し不満をもった河内介は辞表をだして仕えることを辞めてしまう。(安政4年8月)
※わざと辞めた恰好としていろんな密命を与えていたという説あり。
そして九州旅行へでかけている。
目的は真木和泉に会うこと。ところがタイミング悪く会えなかった。その後、島津斉彬に会うことができて武力での進軍を提案している。
そう簡単に動くわけはない。
そこで忠愛(ただなる)を通じて青蓮院宮に働きかけて斉彬に動くように働きかけた。うまくいくように見えたがなんと斉彬が急死してしまう。
そこで、親交があった大分県岡藩の小河一敏、薩摩の是枝柳右衛門(誠忠組)へ働きかける。
誠忠組は和宮降嫁反対・春嶽・慶喜の復権を望んでいる過激グループ。
鎮西義動・・九州には沢山の同志がおり、みんなで立ち上がることを目的に河内介の説得が始まる。そのために勅許をを得るか、青蓮院宮より指示をいただいた形にするか、もしくは大原三位と同行し薩摩をけしかけるか・色々と検討したがいずれもNG。結局は忠愛(ただなる)の手紙をもち各藩を廻り決起を促すことに落ち着く。
そして出発するその直前で意外な客がやってくる。
それは薩摩藩士柴山愛次郎/橋口壮助。彼らは安藤信正が死んだという情報(坂下門外の変)と島津久光が1000人の兵隊を連れて上京するという話をした。
実際は安藤信正は死んでいないし、上京の目的は別にある。
そして討幕のチャンスは今しかない!と吹き込んで行く。
すぐに河内介は小河一敏、真木和泉へ決起を促す手紙を送る。
その後、京都の薩摩屋敷に各藩より有志が集合するがあまりに目立つために京都ではなく
大阪の薩摩屋敷(二十八薩摩屋敷)へ集合させる。そして京へ移動。そこへ久光らが到着・・・征伐せよとの指令により寺田屋事件が起こる。。。。。
河内介らは助かったが翌日捕縛。
大阪天保山より船に乗せられて薩摩へ送られる途中神戸の垂水沖で息子の左馬介とともに惨殺、その亡骸を海に投げ込まれてしまい、その後小豆島に流れ着く。。
辞世は・・・ながらえてかわらぬ月を見るよりも 死して払わん世々の浮雲
法要が行われたニュースがありました。
http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/locality/20110503000127
さて、その後、戊辰戦争が勃発。その真っ最中の1868年(慶応4年)3月26日に明治天皇の臨席で天保山沖で「軍艦叡覧(日本初の観艦式)」が行われている。その後、座磨神社へ参拝にいかれた明治天皇は宮司より、田中河内介の文章を目にする。。
側近に、『河内介』の所在を聞いたが誰も知るものがなかった。
それから数年後、明治天皇と内閣らが会食の最中に河内介の話が出た。
そこで、誰も話さない中で、当時堺県知事の小河一敏が、真相を話してしまうと同席していた
大久保らの顔が青ざめた。。そりゃそうだ。。
自分を5才まで養育してくれた河内介を薩摩藩がひそかに殺害しているのだから。
その後小河は閑職を転々とさせられたらしい。