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2024/06/22

映像の世紀 バタフライエフェクト 日米安全保障条約

大好きなテレビ番組にNHK 映像の世紀バタフライエフェクトがあります。この番組を見るたびに自分自身の無知を恥じることをきっかけに番組から読み取れる内容を核として、いろんな情報を加筆していますので、番組の内容と異なる部分があります。
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1951年9月8日、第二次世界大戦の法的な終着点となったサンフランシスコ平和条約(Treaty of Peace with Japan)の調印数時間後、日米安全保障条約が締結されました。
 この条約の問題となったのはアメリカ軍が「極東における平和と安全を維持するため」ひきつづき日本に駐留し、日本が基地を提供することを定めたが、アメリカが他国の侵略から日本を防衛する義務は規定されておらず、日本の義務のみを定める片務的であったこと。
※アメリカの視点は、米ソ冷戦により在日米軍を創設することにあった。

サンフランシスコ平和条約の調印者は、吉田茂(首相:48代~51代)・池田勇人(蔵相)・苫米地義三(国民民主党最高委員長)・星島二郎(自由党常任総務)・徳川宗敬(参議院緑風会議員総会議長)・一万田尚登(日銀総裁)。しかし、日米安全保障条約は吉田茂(首相)のみで、これは責任は吉田茂が取るという意思表示の意味で自身のみが調印。

このタイミングで勃発した朝鮮戦争(1950年6月25日 – 1953年7月27日)により、国内の軍需産業が牽引し好景気化。国民の関心は低いといえた。

この不平等を改定交渉したのが岸信介首相(56代~57代)。1957年にアイゼンハウワー大統領との間に改定実務を進め1960年1月19日に調印(新安保)。5月20日に衆議院で強行採決。6月19日に自然成立。
5条 日本国の領域でいずれかが攻撃された場合に共同防衛する。 
6条 極東における国際の平和および安全に寄与するためにアメリカ軍による施設・区域(基地)の使用が許される
そして、日米地位協定によりメリカ軍(在日米軍)への基地提供および使用に関する細則が定められました。

この強行採決に対し、「60年安保闘争」が勃発。6月15日に全学連の樺美智子さんが圧迫死によりさらに激化。アイゼンハウワー大統領の来日は中止、岸内閣は条約成立後に辞任。

岸信介は、東条内閣の商工大臣でA級戦犯であったことや日本が戦争に巻き込まれるという恐れ、そして在日米軍に対する裁判権、そして「搾取、貧困、抑圧、服従の絶滅と人間の真の解放を意味する世界共産主義革命」の趣旨から共産主義同盟(ブント)が世論をリードし大規模な安保闘争が勃発。学生運動家として頭角を現しその人なつっこい性格の唐牛 健太郎(かろうじけんたろう)氏が全学連委員長。しだいに、反政府・反米闘争にすり替わっていく。この騒乱を収めるために・・・
WIKIに書かれている記述を見て驚きました。本当なの??下記参照。
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首相岸信介は、警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、自民党内のアイク歓迎実行委員会委員長の橋本登美三郎を使者に立て、暴力団関係者の会合に派遣した。松葉会の藤田卯一郎会長、錦政会の稲川角二会長、住吉会の磧上義光会長、「新宿マーケット」のリーダーで関東尾津組の尾津喜之助組長ら全員がデモ隊を抑えるために手を貸すことに合意した。
さらに右翼と暴力団で構成された全日本愛国者団体会議、戦時中の超国家主義者もいる日本郷友会、岸首相自身が1958年に組織し木村篤太郎が率いる新日本協議会、以上3つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請した。
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池田勇人内閣(58代~60代)成立後、安保闘争は終結。
以降、ベトナム戦争反戦運動にすり替わってゆく。
※社会主義の北ベトナムに対し、資本主義の南ベトナム、双方の代理戦争
新安保の自動延長を迎える1970年にこの条約破棄を目的とした70年安保闘争が勃発。相当な激化であった。⇒筆者は大阪万博の華やかな印象しか存在しないのが70年だと認識していました。

共産主義同盟(ブント)⇒様々な団体に分裂し連合赤軍派が1970年に「よど号ハイジャック事件」1972年にあさま山荘事件を起こす。

映像の世紀 バタフライエフェクトでは、最後に唐牛 健太郎氏の現在を映像として放映。
トド撃ちの船で雑務をこなす唐牛氏のインタビューが印象的でした。様々な経歴を経て1984年3月に47歳の生涯を閉じられました。

2024/06/21

四天王寺 舎利出

 今日21日は「お大師さんの日」。弘法大師の月ご命日ということで境内には所狭しと様々な露天が並んでいて大変な賑わいです。
 骨董品、古道具屋さんに着物等の和装や洋装等の様々な古着屋さん、雑貨、インテリア等をはじめ、お好み焼きなどの粉もんの軽食等など。それはびっくりするくりのお店の数。
目当てにご年配の方々だけではなく学生さんもちらほら。もちろんインバウンドの影響なのか、各国の言葉も飛び交っていて驚きます。

21日は実は無料で中心伽藍に入ることができます。
今日の大阪は30度超えで境内はすごい熱気ですが、不思議なことにこの中心伽藍のは、とても心地よい爽やかな風が通り抜けてゆきます。

南側から仁王門・五重塔・金堂・講堂がそびえたち、西側と東側にはそれぞれ西重門・東重門があります。

さて、「舎利出」は四天王寺さんのHPには下記のように記載されています。
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毎日、11時より中心伽藍内の金堂において舎利出しの法要を厳修しています。お舎利とは、お釈迦様のご遺骨のことを言い、このお舎利を頭に頂き、御仏のお導きを祈る厳かな法会です。同時に、ご回向・ご先祖供養が厳修され、お経木にお舎利をお受けいただけます
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昨日、はじめてこの「舎利出」を体験することができました。
金堂には救世観世音菩薩とその四方を守護する持国天(東方)、増長天(南方)、広目天(西方)、多聞天(北方)の四天王像が安置され、壁面には 中村岳陵画伯の「仏伝図」が、釈迦の誕生から入滅までをわかりやすくそして美しく彩っています。

そして薄暗くも蠟燭の揺らめく金堂には「舎利礼文」が響いています。

一心頂礼。万徳円満。釈迦如来。 

真身舎利。本地法身。法界塔婆。

我等礼敬。為我現身。入我我入。

仏加持故。我証菩提。以仏神力。

利益衆生。発菩提心。修菩薩行。

同入円寂。平等大智。今将頂礼。

曹洞宗の我が家では、毎年の法事で聞き覚えのあるお経。。

「舎利出」は毎日朝11時より行われていますがなかなか機会がなく、参拝することがありませんでしたが、その厳かで神秘的なその儀式には感動を覚えました。
「舎利職」が救世観世音菩薩の向かって左前にある舎利塔より「南無佛のお舎利」を取り出し、供養し、参詣者の頭上に頂く儀式となります。

太子は生まれたときに左の手を握りしめたままであったが1歳になられた2月15日に東の空に向かって合掌され南無佛と唱えられました。その時に左手より仏舎利がこぼれ落ちたという。その舎利が南無佛舎利で太子信仰の中心。

四天王寺には守屋祠の謎、大阪には、上ノ太子(叡福寺),中ノ太子(野中寺)、下ノ太子(大聖勝軍寺)等、まだまだ聖徳太子に纏わる場所が沢山あります。

もちろんこの堂内は聖域につき、静粛かつ撮影禁止エリアです。

帰りはMIOの蔵元豊祝で軽くいっぱい!昼飲みが止まりませんww

2024/06/01

映像の世紀 東京裁判とニュルンベルク裁判

第二次世界大戦における敗戦国である日本のA級戦争犯罪人を裁いた国際司法で正しくは、「The International Military Tribunal for the Far East」。先日NHKで放映された「映像の世紀バタフライエフェクト」を見て驚きました。1946年5月から1948年11月までの長期間に審判され、A級とされた28人が裁かれ、うち7人が絞首刑(巣鴨拘留所)。
映像を見ると、絞首刑を宣告された方と、終身刑を宣告されたかたのその表情や心情・・その方々の本当の心の中なんてわかるはずはないけれど、それでも私の心の中にわだかまりのようなものが生まれたように感じました。

先進国で死刑を廃止している国が多い中で絞首刑を宣言した現実・・核爆弾を落とし、多数の犠牲者を出したことを正論としたアメリカとオッペンハイマーの苦悩。
無期懲役を宣言ざれたA級先般は数年後には釈放された事実。終戦前のどさくさ紛れの8月8日に日本に侵攻したロシアの北方領土の実効支配。

1929年アメリカウォール街の株価大暴落に端を発した世界恐慌は世界中に様々な影響を及ぼし、これは1914年~1918年に行われた第一次世界大戦の賠償責任を中央同盟国の国に特に深刻な影響を与えました。1933年にドイツ国首相に任命されたアドルフ・ヒトラーは経済を立て直す様々な政策により数年で完全雇用を達成、領土拡大を目指し1939年9月にポーランド侵攻により第二次世界大戦の火蓋が切られたが連合国の参入以降、様々な戦禍により1945年4月30日に自殺。そして6月5日の連合国の「ベルリン宣言」で敗戦が決定つけられました。その後7月26日にポツダム宣言・・原爆投下・・ソビエトの侵攻・・8月15日に無条件降伏という流れ。

東京裁判の数か月前に「ニュルンベルク裁判」(1945年11月)が1年がかりで行われ、戦勝国が敗戦国を裁くという一方的な図式であった。しかししでに自殺しているヒトラーに罪を被せたという印象におもえ、真実はわかりません。

初代西ドイツ首相に任命されたコンラート・アデナウアーは「私たちはナチスのにおいを嗅ぎまわることをもう終わりにすべきなのです」
1966年には、戦時中はナチ党員として外務省で働いていたクルト・ゲオルク・キージンガーが第3代西ドイツ首相に任命、戦後の目覚ましい発展の中で戦争の記憶は薄れてゆく。4代西ドイツ首相となったヴィリー・ブラント氏は実はこのニュルンベルク裁判を記者席で取材していた。
「国民は自らの歴史を冷静に振り返る心構えが必要です、なぜなら過去を記憶するものだけが現在を見極め、未来を見通すことができるからです。歴史との対話はとくに若い世代にとって大切です、たとえ生まれる前の事であったとしても引き継いだ歴史から誰もが自由にはなれないのです。」

この言葉はとても重く、今の若い世代は幕末以降の現代史をどこまで知っているのかとても不安でなりません。
いまの日本を取り巻く災いと軍靴の音。中国の台湾進攻があったら。。中国と香港の関係・・朝鮮半島有事・・ウクライナとロシア・・シリア内戦(政府軍vs反体制派)・・アフガニスタン紛争(アメリカvsタリバン勢力)・・これだけではありません。

安全保障条約と自衛隊・・アメリカ大統領選の行方・・などなど、今の私に何ができるか?を考えると、こんな記事を書くことくらいなのかもしれません。


NHK映像記録