今から何年前になるでしょう。ある日、自分にまったく歴史の知識が無かったことに気がついたのは。
せっかく様々な歴史がうずもれている大阪に住んでいながら地元の歴史すらしらないなんてあまりに情けないっておもって、色々と学び出したのがキッカケです。
そんな当時の私が「桜田門外の変」に対して知っていたのは「大老 井伊直弼が桜田門外で過激な武士に暗殺された」だけ。おそらく歴史に興味の無い方々はこの程度の知識しか無いでしょう。
このテーマは「2009 7/18 安政の大獄と井伊直弼」で語られていますのでもう下知識はバッチリで鑑賞しにいきました。それでもこの事件の背景や様々な人とのかかわりと計画が緻密に描かれていてあらためて認識しました。
そして事後にに直接的にかかわった水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士、家族などの関係者が次々と壮絶な亡くなり方をしていくそのシーンは非常にスリリングで何度も目を伏せてしまいました。
実際は井伊直弼を護衛していた彦根藩の者のほぼ全員が切腹や斬首となっていることを考えると、安政の大獄で次々と命を奪ってゆく井伊直弼の命を奪う為にどれだけの命が失われたのかを考えると胸が痛くなります。
■教科書に書かれない幕末史
http://sweet-mikan.blogspot.com/2010/04/2009718.html
13代将軍就任後にすぐさま起こる跡目候補擁立問題で南紀派と一橋派の争いが水面下で繰り広げられるそんな中にまた大問題が勃発。
黒船来航による脅威とその対応問題を幕府のみで処理したのをチャンスとして一橋派は井伊直弼を非難。
ところが謹慎やらで逆襲されてしまう。そこで一橋派は朝廷に働きかけた結果、幕府の頭を飛びこた形で勅状が水戸藩に降りてしまう(戊午の密勅)。この事件の黒幕探しで一橋派に対する執拗弾圧が始まり(安政の大獄)勅状は偽者であるという事で水戸藩に返却を求める幕府に対し藩内では様々な意見が飛び交うことになり、ついに井伊直弼襲撃の話が持ち上がる。狙いは薩摩が3000人を京都へ挙兵、制圧し幕府を転覆させられる。ところが運命は皮肉なもので、了承を得ていた薩摩藩主の島津斉彬氏が急死してしまい島津久光は方向転換をしてしまい、計画はすべて頓挫してしまうことに。
生瀬 勝久演じる高橋多一郎は大阪寺町を抜け四天王寺近くの茶屋で見つかってしまった結果、執拗な追っ手からついにここまでと、壮絶な死を迎える。実際この親子のお墓は四天王寺さんにあり、墓標には<怨霊消滅>と描かれているくらいだからよほど凄まじい死だったのだろう。
■公式サイト
http://www.sakuradamon.com/
フランス風懐石料理中華風・・・寺社仏閣が大好きです。 大阪市内に居ますが九度山と信州上田が心の故郷です♪尊敬する人は真田昌幸さんと幸村さん親子・吉田松陰先生、金子みすゞさん、大石順教尼さん。日本美術なら富岡鉄斎さんに横山大観さんに村上松園さん。そして大好物は甘々なみ・か・ん♪ ・・ようは何でもアリなのです
2010/10/16
2010 10/16 教科書に書かれない日本史 神戸事件と伊藤博文
菅総理が奇兵隊内閣云々と言った件は色々アメディアを賑わしました。その後国会で色々な議員が幕末の志士を尊敬していることを話したらしいですがその実像を知らないで簡単に言葉にするのは足をすくわれる元となってしまいます。特に菅さんの奇兵隊のイメージ実際とは相当違うようです。特に間違って理解されやすいのは「奇兵隊は倒幕のために組織された軍でもなければ、有終の美を飾り円満に解散したわけでもない」
それでも固執するのは、歴代の総理大臣を8人?(菅さんを入れたとすると9人)排出した長州出身というネーミングは、いわば政治家の一流のブランドなのでしょう。
長州が輩出した総理大臣の中でも誰もが知っているのは伊藤博文氏。この伊藤氏は非常にラッキーな星を背負っていたらしい。
天保12年に生まれた林利助(ちなみに高杉さんは同10年、松蔭先生は元年生まれ)。父である十蔵と村とのトラブルにより萩へ出稼ぎに行くことに。その出稼ぎ先で下級武士(足軽:中間)伊藤弥右衛門に気に入られ、また男子が居ない為に伊藤家の養子となったので伊藤姓を名乗ることとなった。
そしてちょうど世間は黒船騒ぎ。萩藩は幕府より三浦半島の警備をおおせつかっていたので、もちろん伊藤少年も1年間の予定で警備に着いた。その先で赴任してきた来原良蔵に付いて学ぶ機会を得る。さて1年が経過する際に来原良蔵は、伊藤氏の勉強熱心さに打たれ、萩にある松下村塾を紹介したことがきっかけとなり伊藤氏の塾通いがはじまる。そしてまたまたラッキーなことに自宅から数百メートルしか離れていないので熱心に通うことができたらしい。
長州藩はとてもおもしろい藩で、表向きは攘夷を唱えながらも、裏ではイギリスへ留学生をおくっている。その中に入っていたのが伊藤氏。彼には実績が会ったが、それでもネーミング不足だったのか不思議なことに、王政復古の大号令で強引に樹立した新政府。その中に伊藤氏は入っていない。
再度留学を目指すための船を捜すために伊藤氏は下関から神戸に向かい慶応4年1/12に到着した彼が見たものは・・・・・・・・・・・・。
前年12/9に王政復古。1/1に慶喜さんの倒薩の檄。1/.3に鳥羽伏見の戦い、そして1/10に大阪城引渡しが起こっているそんな背景で、行動の読めない尼崎藩(譜代大名)を牽制するために新政府は岡山藩に西宮まで進軍する命令を出した。当時の岡山藩の家老は日置建帯刀(ひきたてわき)。2000名を出兵し西宮を目指したその中の分隊500人が、1/11に大倉谷の宿場を出発し正午頃に神戸村三宮神社辺りを通過したそのときに、居留地から神社側へ行く為に500人の行列横切ろうとしたフランス兵2人。もちろん無礼な話である。滝善三郎(第3砲撃隊長)はヤリで追い返した再に軽症を負わせてしまい、この事件が発端で発砲騒ぎにまで発展してしまう。(神戸事件)居留地を迂回する徳川道を通ればこんなコトにならなかったのに。
さて、この事態をチャンスと捉えたイギリス公使パークスはなぜか激怒。アメリカやフランス公使を炊き付け居留地以外の場所を占領した上に、港に泊まっていた各藩の船を拿捕してしまう。
そんな事態が発生した翌日に登場した伊藤氏。幸いにパークスや各公使と顔見知り。
事情を聞いて仲立ちをしようと向かった結果、パークスはこの事態を利用して新政府と各国の力関係をはっきりさせておきたかったコトを目的に、王政復古から1ヶ月以上経つのに各国へ通知の無いことに苛立ちをもっていたことがわかった。
伊藤はすぐさま大坂にいる東久世通禧(外国事務総督)に会い、事情を説明し、すぐさま神戸の運上所に各国公使を集めて<新政府の貿易の窓口>であることを宣言した。(対外和親の布告)
後にこの働きによって伊藤は外国事務係に就任し、政治の中枢へ入ってゆくラッキーな方。
さて神戸事件に対して外国側は岡山藩から責任者を出して死刑にすることを新政府に要望。
まさか、フランス兵2人の軽症に対して切腹を求めるってどうよ??
各国公使で話し合いが行われ、さすがに言いすぎた感のある弱腰になったパークスに発破をかけて切腹を譲らなかったフランス公使のロッシェ。
その結果が新政府に届きこんな無茶な要望は受理しないだろうとおもっていたが、まさか・・まさか新政府の交渉をおこなった伊藤はこの条件を飲んでしまい、岡山藩から【滝善三郎氏】が名乗りをあげついに切腹することになる。
そして2/9に切腹が行われた。(現在のカネテツの工場の辺り)
現在もその遺書は岡山と神戸の子孫の自宅に残っているらしい。
この様子はアーネストサトウ氏や様々な文献で様子が書かれており、<日本=ゲイシャ・フジヤマ・ハラキリ>のハラキリはこの滝善三郎氏の切腹を始めてみた外国人が比喩した言葉とのこと。
そのときの様子は文献に書かれているが実はそれらの文献にはあまり書かれていない下記の言葉を一番初めに呟いたそう。
「私は遠国の者(おんごくのもの)故、朝廷が外国人を大切に扱う方針になっていたとは知らなかった」二枚舌を持つ新政府を批判した痛烈な言葉。
一坂先生は実はこの「教科書にかかれない幕末史」の講座の初回にこんな事を言われています。
日本を始め世界中の歴史は強者や勝者の歴史。本当はそこのには敗者や弱者の歴史がうずもれています。その歴史を調べる事で事実を知る事ができると。
まさにそのとおり。今の政府も二枚舌にならないようにして欲しいものです。
※注意) この文章は一坂先生が言われた内容に対し、私が文脈を色々と追加した内容です。
それでも固執するのは、歴代の総理大臣を8人?(菅さんを入れたとすると9人)排出した長州出身というネーミングは、いわば政治家の一流のブランドなのでしょう。
長州が輩出した総理大臣の中でも誰もが知っているのは伊藤博文氏。この伊藤氏は非常にラッキーな星を背負っていたらしい。
天保12年に生まれた林利助(ちなみに高杉さんは同10年、松蔭先生は元年生まれ)。父である十蔵と村とのトラブルにより萩へ出稼ぎに行くことに。その出稼ぎ先で下級武士(足軽:中間)伊藤弥右衛門に気に入られ、また男子が居ない為に伊藤家の養子となったので伊藤姓を名乗ることとなった。
そしてちょうど世間は黒船騒ぎ。萩藩は幕府より三浦半島の警備をおおせつかっていたので、もちろん伊藤少年も1年間の予定で警備に着いた。その先で赴任してきた来原良蔵に付いて学ぶ機会を得る。さて1年が経過する際に来原良蔵は、伊藤氏の勉強熱心さに打たれ、萩にある松下村塾を紹介したことがきっかけとなり伊藤氏の塾通いがはじまる。そしてまたまたラッキーなことに自宅から数百メートルしか離れていないので熱心に通うことができたらしい。
長州藩はとてもおもしろい藩で、表向きは攘夷を唱えながらも、裏ではイギリスへ留学生をおくっている。その中に入っていたのが伊藤氏。彼には実績が会ったが、それでもネーミング不足だったのか不思議なことに、王政復古の大号令で強引に樹立した新政府。その中に伊藤氏は入っていない。
再度留学を目指すための船を捜すために伊藤氏は下関から神戸に向かい慶応4年1/12に到着した彼が見たものは・・・・・・・・・・・・。
前年12/9に王政復古。1/1に慶喜さんの倒薩の檄。1/.3に鳥羽伏見の戦い、そして1/10に大阪城引渡しが起こっているそんな背景で、行動の読めない尼崎藩(譜代大名)を牽制するために新政府は岡山藩に西宮まで進軍する命令を出した。当時の岡山藩の家老は日置建帯刀(ひきたてわき)。2000名を出兵し西宮を目指したその中の分隊500人が、1/11に大倉谷の宿場を出発し正午頃に神戸村三宮神社辺りを通過したそのときに、居留地から神社側へ行く為に500人の行列横切ろうとしたフランス兵2人。もちろん無礼な話である。滝善三郎(第3砲撃隊長)はヤリで追い返した再に軽症を負わせてしまい、この事件が発端で発砲騒ぎにまで発展してしまう。(神戸事件)居留地を迂回する徳川道を通ればこんなコトにならなかったのに。
さて、この事態をチャンスと捉えたイギリス公使パークスはなぜか激怒。アメリカやフランス公使を炊き付け居留地以外の場所を占領した上に、港に泊まっていた各藩の船を拿捕してしまう。
そんな事態が発生した翌日に登場した伊藤氏。幸いにパークスや各公使と顔見知り。
事情を聞いて仲立ちをしようと向かった結果、パークスはこの事態を利用して新政府と各国の力関係をはっきりさせておきたかったコトを目的に、王政復古から1ヶ月以上経つのに各国へ通知の無いことに苛立ちをもっていたことがわかった。
伊藤はすぐさま大坂にいる東久世通禧(外国事務総督)に会い、事情を説明し、すぐさま神戸の運上所に各国公使を集めて<新政府の貿易の窓口>であることを宣言した。(対外和親の布告)
後にこの働きによって伊藤は外国事務係に就任し、政治の中枢へ入ってゆくラッキーな方。
さて神戸事件に対して外国側は岡山藩から責任者を出して死刑にすることを新政府に要望。
まさか、フランス兵2人の軽症に対して切腹を求めるってどうよ??
各国公使で話し合いが行われ、さすがに言いすぎた感のある弱腰になったパークスに発破をかけて切腹を譲らなかったフランス公使のロッシェ。
その結果が新政府に届きこんな無茶な要望は受理しないだろうとおもっていたが、まさか・・まさか新政府の交渉をおこなった伊藤はこの条件を飲んでしまい、岡山藩から【滝善三郎氏】が名乗りをあげついに切腹することになる。
そして2/9に切腹が行われた。(現在のカネテツの工場の辺り)
現在もその遺書は岡山と神戸の子孫の自宅に残っているらしい。
この様子はアーネストサトウ氏や様々な文献で様子が書かれており、<日本=ゲイシャ・フジヤマ・ハラキリ>のハラキリはこの滝善三郎氏の切腹を始めてみた外国人が比喩した言葉とのこと。
そのときの様子は文献に書かれているが実はそれらの文献にはあまり書かれていない下記の言葉を一番初めに呟いたそう。
「私は遠国の者(おんごくのもの)故、朝廷が外国人を大切に扱う方針になっていたとは知らなかった」二枚舌を持つ新政府を批判した痛烈な言葉。
一坂先生は実はこの「教科書にかかれない幕末史」の講座の初回にこんな事を言われています。
日本を始め世界中の歴史は強者や勝者の歴史。本当はそこのには敗者や弱者の歴史がうずもれています。その歴史を調べる事で事実を知る事ができると。
まさにそのとおり。今の政府も二枚舌にならないようにして欲しいものです。
※注意) この文章は一坂先生が言われた内容に対し、私が文脈を色々と追加した内容です。
2010 10/16 大切な言葉
2007年のクリスマスが終わった翌日から2008年の初めにかけて病院で過ごました。
年末年始を病院のい冷たいベッドの上で過ごしました。
あの、お米の形が無く、お碗に自分の顔が映るくらいのお粥を食べた年末の寂しさは忘れる事ができません。
あらら・・私・・何してるんだろ・・ってつい自暴自棄になりかけた年末。
そしてようやく2008年になり、ようやくベッドから起きる事ができて、ふと見つけた病院のロビーに掲げられていた額にかかれていた言葉がすごくショックで、おもわず写真を撮りました。
事務局へ訪ねたところ、院長さんがか海外へ行かれた際に
知ったそうでどうやらニューヨーク大学リハビリテーション科の患者さんがつくられた詩のようです。
大きなことをなし遂げるために
力を与えてほしいと神に求めたのに
謙虚さを学ぶようにと弱さを授かった
より偉大なことができるようにと健康を求めたのに
より良きことができるようにと病弱さを与えられた
幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった
世の人の賞賛をえようとして成功を求めたのに
得意にならないようにと失敗を授かった
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いは全て聞きとどけられた
神の意にそわぬもとであるにもかかわらず
心の中の言い表せないもの全て叶えられた
私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ
甘えちゃダメなんです。
人は謙虚であるべきなんです。
そして感謝の心を持ち続けることなんですよね。
年末年始を病院のい冷たいベッドの上で過ごしました。
あの、お米の形が無く、お碗に自分の顔が映るくらいのお粥を食べた年末の寂しさは忘れる事ができません。
あらら・・私・・何してるんだろ・・ってつい自暴自棄になりかけた年末。
そしてようやく2008年になり、ようやくベッドから起きる事ができて、ふと見つけた病院のロビーに掲げられていた額にかかれていた言葉がすごくショックで、おもわず写真を撮りました。
事務局へ訪ねたところ、院長さんがか海外へ行かれた際に
知ったそうでどうやらニューヨーク大学リハビリテーション科の患者さんがつくられた詩のようです。
大きなことをなし遂げるために
力を与えてほしいと神に求めたのに
謙虚さを学ぶようにと弱さを授かった
より偉大なことができるようにと健康を求めたのに
より良きことができるようにと病弱さを与えられた
幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった
世の人の賞賛をえようとして成功を求めたのに
得意にならないようにと失敗を授かった
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いは全て聞きとどけられた
神の意にそわぬもとであるにもかかわらず
心の中の言い表せないもの全て叶えられた
私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ
甘えちゃダメなんです。
人は謙虚であるべきなんです。
そして感謝の心を持ち続けることなんですよね。

2010/10/15
2010 10/15 見えない世界

お賽銭入れの前にいつも「ぼだい」という葉書が積まれていて参拝者は自由に持って帰っています。
たしか葉書サイズではなくB4程度の小雑誌もあったとおもいますが、おそらく真言宗で発行されているのだと思います。
その内容はなかなか良い事が書かれいて、私の仕事用のデスクには、この葉書を写真立てにいれて時折読み返しています。
ちょうど昨日までは、いつしか某病院に掲げられていたあの言葉が。この言葉はまた次回で紹介しますがさっそく入れ替えた10月号には金子みすゞさんの精神を彷彿とさせる素晴らしい世界観が書かれています。
骨子としては先日まで放映されていたゲゲゲの女房の中で二女の善子が言ったセリフ「妖怪もすめない世の中では、人間だって住みにくいよね。」と茂に語りかえるところから始まります。
見える世界だけを基準にして物事を判断すると物欲やエゴに執着し世の中が荒れて行きます。私たちの知識で解明されているのはごくわずか。「見えない世界」の方が多いのです。ということを念頭に置く事も大切ではないか?という内容です。
~ 星とタンポポ ~
作:金子みすゞ
青いお空のそこ深く
海の小石のそのように
夜がくるまで沈んでる
昼のお星は目に見えぬ
見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ
散ってすがれたタンポポの
川原のすきにだぁまって
春のくるまで隠れてる
強いその根は目に見えぬ
見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ
享年26歳でこの世をさった金子みすゞさん。
自然の中に広大な宇宙を見たり、また生き物すべての世界の中に世界観を見出す事ができた童謡詩人。
自らの命と引き換えにわが子の親権を手放すことを拒んだ女性。
明治36年(1903年)-昭和5年(1930)
高度経済成長時代に育った親達が、バブル時期に生んだ子供たち。ゆとり教育と対極にある教育熱。
みえるモノだけに捉われてしまった結果が今のような心が荒んだ世の中になってしまったのでしょうか。
2010/10/14
2010 10/14 自分の感受性くらい
先日の休日の午後にたまたま見ていたテレビ番組。NHK全国学校音楽コンクールの決勝戦でした。
中学の部で決勝に残った11校が、課題曲と自由曲を歌い、そして審査のあと全国の頂点となる学校の栄誉をたたえるというものでした。
中学校時代の私たちのお遊びに似た合唱とはまったく違い、全員がきっちりと発声の基礎に裏づけされた素晴らしいハーモニーです。
そして番組は進み「島根大学教育学部附属中学校」の自由曲を聴いて、ドキッとしました。
これって昔、朗読したことがある詩。
ぜひこのBLOGをお読みになっている方も朗読ください。
************************************************
自分の感受性くらい
作:茨木のり子
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
************************************************
※島根大学教育学部附属中学校は銅賞となりました。
中学の部で決勝に残った11校が、課題曲と自由曲を歌い、そして審査のあと全国の頂点となる学校の栄誉をたたえるというものでした。
中学校時代の私たちのお遊びに似た合唱とはまったく違い、全員がきっちりと発声の基礎に裏づけされた素晴らしいハーモニーです。
そして番組は進み「島根大学教育学部附属中学校」の自由曲を聴いて、ドキッとしました。
これって昔、朗読したことがある詩。
ぜひこのBLOGをお読みになっている方も朗読ください。
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自分の感受性くらい
作:茨木のり子
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
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※島根大学教育学部附属中学校は銅賞となりました。
2010/10/13
2010 10/13 サービスのお話Ⅱ
朝のラジオ番組で聞いたサービスにまつわるお話。
シュチエーションは少し違うかもしれないけれど本筋は同じ。
ある私鉄の定期券売り場に男性が駆け込んできた。
この私鉄の駅はJRの乗り換えも出来る混雑する駅だそう。
「コインロッカーはどこにありますか?」
その定期券売り場の女性はこう答えました。
「この売り場を出て右に曲がられた並びにありますが、もしいっぱいの場合は、一つ目の角を左に行かれて20mほどのJRの乗り場の右手にあります。」
この返事でもたいしたもの。
まぁ、よほどこの手の質問が多いのでしょう。
男性は「ありがとう」と立ち去ろうとしたそのとき
後ろからまた声がかかりました。
「お客様、100円玉はおもちですか?」
この一言が言えるかどうかがサービスの決め手でしょう。
雨の日に来られたお客様に対し「いらっしゃいませ」に対し一言付け加えるなら
「お足元の悪い中、お越しいただき、ありがとうございます」
雨の降る日に傘を差してお店に来るお客さまはおもいっきり目的買。
いわばお得意さまか、お得意さま予備軍。
そんな百貨店の開店と同時に店内に入ろうとすると、左右両方に従業員さんが並んでお出迎えをしてくださいます。
「おはようございます、いらっしゃいませ」
心から言っているか、それとも本当にそう思っているかは疑問だけれど今の百貨店には、口先だけで言う余裕はない。
また話題の市内にある大手のディスカウントスーパーへ行く機会がありましたがその店内は酷いもの。
がさがさになった商品棚、歪んでいたりPOPが外れかかっている。
商品が前出しされておらず通路にはパッキンが放置されている。
挙句の果てに非常用非難通路には自転車が置かれている。
明らかに人手も指導者も不足してる。こんな店舗にはサービスという感覚はないのでしょう。
値段だけが安くてもサービスを語るレベルに達していないお店は淘汰されるでしょう。
シュチエーションは少し違うかもしれないけれど本筋は同じ。
ある私鉄の定期券売り場に男性が駆け込んできた。
この私鉄の駅はJRの乗り換えも出来る混雑する駅だそう。
「コインロッカーはどこにありますか?」
その定期券売り場の女性はこう答えました。
「この売り場を出て右に曲がられた並びにありますが、もしいっぱいの場合は、一つ目の角を左に行かれて20mほどのJRの乗り場の右手にあります。」
この返事でもたいしたもの。
まぁ、よほどこの手の質問が多いのでしょう。
男性は「ありがとう」と立ち去ろうとしたそのとき
後ろからまた声がかかりました。
「お客様、100円玉はおもちですか?」
この一言が言えるかどうかがサービスの決め手でしょう。
雨の日に来られたお客様に対し「いらっしゃいませ」に対し一言付け加えるなら
「お足元の悪い中、お越しいただき、ありがとうございます」
雨の降る日に傘を差してお店に来るお客さまはおもいっきり目的買。
いわばお得意さまか、お得意さま予備軍。
そんな百貨店の開店と同時に店内に入ろうとすると、左右両方に従業員さんが並んでお出迎えをしてくださいます。
「おはようございます、いらっしゃいませ」
心から言っているか、それとも本当にそう思っているかは疑問だけれど今の百貨店には、口先だけで言う余裕はない。
また話題の市内にある大手のディスカウントスーパーへ行く機会がありましたがその店内は酷いもの。
がさがさになった商品棚、歪んでいたりPOPが外れかかっている。
商品が前出しされておらず通路にはパッキンが放置されている。
挙句の果てに非常用非難通路には自転車が置かれている。
明らかに人手も指導者も不足してる。こんな店舗にはサービスという感覚はないのでしょう。
値段だけが安くてもサービスを語るレベルに達していないお店は淘汰されるでしょう。
2010/10/12
2010 10/12 サービスのお話Ⅰ
辛口な文章を書くのはなかなか気持ちが辛いもので、出来れば避けて通りたいのですが、ここ数週間で色々と感じたことを気持ちを整理する意味で2日間にわたって書いてみることにします。
私は色々な施設を利用させていただく機会が多く、そのたびに色々なお勉強をさせていただいています。
展示物を見たり、お話を聴いたりして様々な感動と知識を得ていますが、どの施設でもそれぞれのスタッフの方々は非常に謙虚にサービスをしてくださいます。此処で言うサービスとはモノを下さったり特別扱いをしてくださることではなく自分の職務に忠実に、受付をされる方は丁寧に受付をいただき、案内をされる方などは親切に案内してくださるという当然の範囲を指しています。そしてそのスタッフの方々は一様に知識人で非常に心地よい印象を与えてくださいますが実はこれは当然の事。
なぜなら、不快な印象を与えてしまえば二度とその施設を利用しなくなることを知っているから・・・もありますが人が人に接する出会いに対する心配りという常識だからです。
ただし所がかわり、快適性を求めるホテルではそのサービスを受けることは当然だし、美味しさを前提とした飲食等であれば食事が美味しいのは当然でしょう。
でももし美味しくなく、食事を残してしまっても感謝の気持ちは忘れないことは利用する側の常識だし、私たちは美術館に行って、「絵や書」がつまらないからと言いって「お金を返して欲しい」などとは言いません。
私の大好きな落語会は最近毎日どこかで開催されるくらい人気です。
その内情はきっと場所代を払ってまで開催される噺家さんはホントに大変なご苦労をされているのでしょうし、また会場側も施設の維持のために様々な努力をされていることと察します。
その表れとしておのずから「お客様にせっかく来ていただいているのだから」という気持ちが強くなるのでしょう。
もちろんお客様側は「演者さんとそのスタッフへの心配り」を忘れてはなりませんが、特別な事をする必要なんてなにもなく、心からそれぞれのイベントを愉しめばいいのでしょう
仮に面白くない落語を聴いても「お金を返してほしい」とは言わないし言う必要は無く、ただその演者さんの落語会に二度と行かなければそれでいいのです。
もしも・・・
美術館の絵が素晴らしくても受付の方の態度が悪かったらどうしますか?
美味しいお料理でもウエイターがぞんざいな言葉であったらどうしますか?
ふかふかのベッドと清潔なお部屋でも、ホテルマンの態度がイヤミであったらどうしますか?
あくまでもそれぞれのスタッフは影の存在でありサービスの対象である絵やお料理やお部屋の価値の足を
ひっぱったりすることはありえないのです。
先日行ったその会場はある有名な市の所有物。
会場を取り仕切る方がその部下に対し様々な指示を出す風景は小さな手作り寄席の会場では
よく見られることですが、すでに会場にお客様が居られる状態でその言動で不快感を与えては大きなマイナスです。
もちろんッスタッフがお客様へ上からの目線で命令口調で話したり、なれなれしく話しかけるなんて失礼の極みです。
そしてついに落語の途中でその会場の電話が鳴るなんて前代未聞でありえない会場ですが実際にありました。
あまりに素人臭い運営なんて恥ずかしい限りです。所詮、役人の天下り施設だから頭を下げることができない人達の集まりなんだと思われてもしようがないのでしょう。
私は色々な施設を利用させていただく機会が多く、そのたびに色々なお勉強をさせていただいています。
展示物を見たり、お話を聴いたりして様々な感動と知識を得ていますが、どの施設でもそれぞれのスタッフの方々は非常に謙虚にサービスをしてくださいます。此処で言うサービスとはモノを下さったり特別扱いをしてくださることではなく自分の職務に忠実に、受付をされる方は丁寧に受付をいただき、案内をされる方などは親切に案内してくださるという当然の範囲を指しています。そしてそのスタッフの方々は一様に知識人で非常に心地よい印象を与えてくださいますが実はこれは当然の事。
なぜなら、不快な印象を与えてしまえば二度とその施設を利用しなくなることを知っているから・・・もありますが人が人に接する出会いに対する心配りという常識だからです。
ただし所がかわり、快適性を求めるホテルではそのサービスを受けることは当然だし、美味しさを前提とした飲食等であれば食事が美味しいのは当然でしょう。
でももし美味しくなく、食事を残してしまっても感謝の気持ちは忘れないことは利用する側の常識だし、私たちは美術館に行って、「絵や書」がつまらないからと言いって「お金を返して欲しい」などとは言いません。
私の大好きな落語会は最近毎日どこかで開催されるくらい人気です。
その内情はきっと場所代を払ってまで開催される噺家さんはホントに大変なご苦労をされているのでしょうし、また会場側も施設の維持のために様々な努力をされていることと察します。
その表れとしておのずから「お客様にせっかく来ていただいているのだから」という気持ちが強くなるのでしょう。
もちろんお客様側は「演者さんとそのスタッフへの心配り」を忘れてはなりませんが、特別な事をする必要なんてなにもなく、心からそれぞれのイベントを愉しめばいいのでしょう
仮に面白くない落語を聴いても「お金を返してほしい」とは言わないし言う必要は無く、ただその演者さんの落語会に二度と行かなければそれでいいのです。
もしも・・・
美術館の絵が素晴らしくても受付の方の態度が悪かったらどうしますか?
美味しいお料理でもウエイターがぞんざいな言葉であったらどうしますか?
ふかふかのベッドと清潔なお部屋でも、ホテルマンの態度がイヤミであったらどうしますか?
あくまでもそれぞれのスタッフは影の存在でありサービスの対象である絵やお料理やお部屋の価値の足を
ひっぱったりすることはありえないのです。
先日行ったその会場はある有名な市の所有物。
会場を取り仕切る方がその部下に対し様々な指示を出す風景は小さな手作り寄席の会場では
よく見られることですが、すでに会場にお客様が居られる状態でその言動で不快感を与えては大きなマイナスです。
もちろんッスタッフがお客様へ上からの目線で命令口調で話したり、なれなれしく話しかけるなんて失礼の極みです。
そしてついに落語の途中でその会場の電話が鳴るなんて前代未聞でありえない会場ですが実際にありました。
あまりに素人臭い運営なんて恥ずかしい限りです。所詮、役人の天下り施設だから頭を下げることができない人達の集まりなんだと思われてもしようがないのでしょう。
2010/10/09
2010 10/9 第四十七回 落語みゅーじあむ寄席
2010 10/9 第四十七回 落語みゅーじあむ寄席
池田落語みゅーじむ寄席に行ってまいりました。
池田に出来ていたのは知っていたのですがなかなか行くチャンスがありませんでした。
さて、池田は落語での街おこしやアマチュア落語によるイベントが盛んな場所。
落語大好きな私にとってはありがたい場所です。
会場のお客様もお見かけしたところ、リピーターが多いようで、演者さんもやりやすい場所だとおもいます。
朝から雨空で開場についた11時には完全に大降り。ホームページには11時開場ということで行きましたが、落語の開催される日は開場が遅いらしい。開場でお話を聞いたところ12時半頃であれば整理券をいただけるということで思いがけない1時間半ののんびりしたランチタイムをいただくことができました。
◇笑福亭生寿 花色木綿
マクラは婚約ネタ♪ホントにおめでとうございます。
さて、生寿さんのこのネタの花色木綿は何度もお聞きする機会があり、そのたびに完成度が上がってるなって感じます。表情や所作が豊かでよく通る声で、会場を笑いの渦に巻き込んで行きます。
生寿さんが楽屋入りされる際に初めて生寿さんをみたお客様が私に「生寿さんって中村獅童に似てるねぇー♪」って^^
そういえば・・細面にしたら似てるかもです。
◇林家染雀 七段目
そういえばたしか、町屋寄席でも生寿さんと一緒にご出演されていました染雀さん。あのとき同様に「阿呆の三寸間抜けの五寸」ってコトバ、すごく説得力があります。
歌舞伎に精通されている染雀さんの造詣の深さにはホントに驚きです。
歌舞伎で実際にあったとんでもないエピソードをお話されました。もちろん「七段目」の中でくりひろげられる劇中劇の仮名手本忠臣蔵の世界にまでも連れていってくださいました。
◇桂梅団治 ねずみ
梅団治といえば撮り鉄で有名な方。いきなり今日から山口県で走るはずの電車の撮影にいかれるはずだったそう^^すごく楽しそうにお話されていて、ホントに愛されてるんですねー。で、今日もご自身の30周年予告と同じくらいに、鉄道写真の個展の宣伝をされていました。
さて話はすすみ、内弟子時代の思い出。
修業は本来は3年あるが、2年で切り上げ、世間の風に当たることになったが冷たくなかったそう。とってもユニークな梅団治さんです。
さて、「ねずみ」は左甚五郎を扱ったネタの中の一つ。飛騨高山から出てきて天満の真砂楼に世話になっている甚五郎が今度は岡山へ出かけたその道中宿場での人情話。
大好きなお話のひとつです。
もちろん見せ場は、ねずみ屋の主と息子、分銅屋の主の会話。胸がきゅんきゅんと痛むくらいに落語の世界に連れて行ってくださいました。
さて、次回11月はすでに予定が入っていましたので次回は12月♪
楽しみにしています。
池田落語みゅーじむ寄席に行ってまいりました。
池田に出来ていたのは知っていたのですがなかなか行くチャンスがありませんでした。
さて、池田は落語での街おこしやアマチュア落語によるイベントが盛んな場所。
落語大好きな私にとってはありがたい場所です。
会場のお客様もお見かけしたところ、リピーターが多いようで、演者さんもやりやすい場所だとおもいます。
朝から雨空で開場についた11時には完全に大降り。ホームページには11時開場ということで行きましたが、落語の開催される日は開場が遅いらしい。開場でお話を聞いたところ12時半頃であれば整理券をいただけるということで思いがけない1時間半ののんびりしたランチタイムをいただくことができました。
◇笑福亭生寿 花色木綿
マクラは婚約ネタ♪ホントにおめでとうございます。
さて、生寿さんのこのネタの花色木綿は何度もお聞きする機会があり、そのたびに完成度が上がってるなって感じます。表情や所作が豊かでよく通る声で、会場を笑いの渦に巻き込んで行きます。
生寿さんが楽屋入りされる際に初めて生寿さんをみたお客様が私に「生寿さんって中村獅童に似てるねぇー♪」って^^
そういえば・・細面にしたら似てるかもです。
◇林家染雀 七段目
そういえばたしか、町屋寄席でも生寿さんと一緒にご出演されていました染雀さん。あのとき同様に「阿呆の三寸間抜けの五寸」ってコトバ、すごく説得力があります。
歌舞伎に精通されている染雀さんの造詣の深さにはホントに驚きです。
歌舞伎で実際にあったとんでもないエピソードをお話されました。もちろん「七段目」の中でくりひろげられる劇中劇の仮名手本忠臣蔵の世界にまでも連れていってくださいました。
◇桂梅団治 ねずみ
梅団治といえば撮り鉄で有名な方。いきなり今日から山口県で走るはずの電車の撮影にいかれるはずだったそう^^すごく楽しそうにお話されていて、ホントに愛されてるんですねー。で、今日もご自身の30周年予告と同じくらいに、鉄道写真の個展の宣伝をされていました。
さて話はすすみ、内弟子時代の思い出。
修業は本来は3年あるが、2年で切り上げ、世間の風に当たることになったが冷たくなかったそう。とってもユニークな梅団治さんです。
さて、「ねずみ」は左甚五郎を扱ったネタの中の一つ。飛騨高山から出てきて天満の真砂楼に世話になっている甚五郎が今度は岡山へ出かけたその道中宿場での人情話。
大好きなお話のひとつです。
もちろん見せ場は、ねずみ屋の主と息子、分銅屋の主の会話。胸がきゅんきゅんと痛むくらいに落語の世界に連れて行ってくださいました。
さて、次回11月はすでに予定が入っていましたので次回は12月♪
楽しみにしています。
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