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2011/06/20

2011 6/20 かじやまち講談会

2011 6/20 かじやまち講談会

旭堂南華:青木民部と千姫
旭堂南華:無心は強い

行きなれない岸和田での開催ということで、この岸和田で創業80年以上の歴史がある某昆布屋の社長さんとご一緒させていただきました。



いつも出演されている旭堂南舟さんは、ラジオきしわだへの出演があるということで、旭堂南華さんのご出演でした。私はこの会場へはもちろん初参加、来場者さんを見渡しますともう毎回参加されているような男性の方ばかり。う~ん・・なんだか浮いてる気がしましたが、そこは遠慮なくど真ん中の最前列へ(笑)





マクラは南舟さんいじりww
いつの間にかスゥっとよってきて、スゥっつおした声で話し、いつの間にかいなくなってるという。そのシーンを描いただけでも南舟さんのキャラを知っている方は爆笑。
「姉さん、最近イズミヤのポイントカードを作ったんですぅぅ・・・・」という口真似をすると会場から「そうそう!南舟クンと、ようイスミヤで会うで~!」との声。
ご両親からは3年は帰ってくるな!との事。応援していますのでどうぞ頑張って日々の修行に励んでくださいね^^
たしかに、南華さん曰く「楽屋では気を配り、大きな声で先輩の用事をこなし、そしてムードメーカーにならないと使ってもらえない」のはその通り。益々の活躍を願っています。

○青木民部と千姫
大阪冬の陣が終わり、和議が成立。ところが豊臣方では和議の内容を巡り対立が目立ってくる。そこで秀忠は気持ちを纏めるために大酒宴を催すことに。その中の家臣、青木民部は家康の孫娘にあたる千姫を連れて来ると出世させるという約束が交わされていた。

大酒宴をチャンスと脱出する予定だった青木民部の部屋に突如、入ってきた真田の家臣1名。後へ続く真田大助。怒り狂う大助をなだめその家臣の話しを聞いたところ、自分と婚約を交わした紅梅を上司である大助が横恋慕したそう。
そんな恋の仲介をした青木民部に一つの案がひらめいた。
紅梅はなんと千姫のお付きの者。それならこの家臣の面倒を見ることで利用できるかも。。。

いよいよ夏の陣の火蓋が気って落とされた。この時がチャンスと千姫を連れて抜け出した青木民部。
念願の家康との対面の瞬間。
「おじいさまー!」と駆け寄る千姫・・・・そこで繰り広げられる予想外の行動とは・・・。その後の運命は・・・。

○無心は強い

兵庫湊川に住む「山本南流斉」それは立派な体格の大男。誰もが恐れおののくようないかにも怖そうな男の職業は「※さえもんがたり」(う~ん・・・講談はわからない言葉が出てくる・・・汗)
悪友がとんでもない商売を持ちかける。
それは、道場破り。ところが山本南流斉は見かけによらずまったくの武芸知らず。悪友曰く「木刀を交える瞬間に誤れば先方は、負けてくれたのか・・と考え、酒や食事のほかわらじ銭まで出してくだる」とのこと。
それならとさっそく江戸へ出てみると初めは失敗したものの徐々に上手く行くように。

ある昼前に目をつけた道場。そこは麻布にある長沼久太郎の道場。
いよいよ2人の対決が始まる。

道場のメンツや弟子達大勢が見ている前でまけるわけにはいかない!絶対に勝たねばならないと力む長沼久太郎。それに引き換え、打ってきた瞬間に謝るコトばかりを考えている山本南流斉。
勝負の行方とその後の顛末はいかに・・・。


いずれの話しも初めて聞いたので間違ってたらごめんなさい(m´・ω・`)m ・・・。
それにしてもあらためて感心した事が沢山。。。。後日記載します。

2011/06/19

2011 6/19 第12回 講談祭

2011年6月19日 第12回 講談まつり




会場へは会場20分前に到着。時間前になると入場の列が出来たくらい。
講談ファンの芯の強さを感じました。
会場は前回より座椅子席が登場。この座席の事をグリーン席と呼んでいるらしいですが(南湖談)おかげさまで今回もきっちりグリーン席に座らせていただけました。
 
 
 
 
旭堂南斗 :雷電の初相撲

信濃国小県郡大石村の為造(ためぞう)は体格に恵まれ相撲の道を志すことに。
谷風梶之助の弟子となりいよいよ初土俵。
その相撲はとんでもないことに。


旭堂南湖 :谷風の人情相撲

非常に説得力のある口調で、しかもカッコイイ!なんどか高座を拝聴したけどこんなに近くは初めてww
もう色んな箇所に仕掛けをたっぷりな講談できっちりと笑わせてくださいます。
ホントに今日のネタを考えていなかったんだろうか・・・。ネタを二つ上げて挙手の多いほうを演じられました。

講談会では何度か聞いた事があるこのお話。特に谷風と佐野山の勝負のシーンの描写では今まで以上にスリリングに感じました
 

座談会 :【講談の歴史と講釈師について】 旭堂南左衛門・旭堂左南陵・旭堂南湖

なんどか歴史についての様々なお話を聞いた事がありましたが、この話しは初耳!
「講談社は、講談の速記本を出していたから講談社となった」
「浪曲本を出すようになってから講談の本は出さなくなった」
「講談と浪曲は仲が悪い時期があった」
さっそく講談社のサイトで確認すると、創業は1909年(明治42年)「大日本雄弁会」。
1925年には「大日本雄弁会講談社」と社名変更している。

また 生玉さんの境内で講談を演じる 宝永7年(1710年)御入部伽羅女(ごにゅうぶきゃらおんな)。
これは大阪の風俗を描いた書物のよう。実際に絵は中ノ島図書館のサイトで見る事ができる。
http://www.library.pref.osaka.jp/lib/zempon/zem29.html

また佐野孝『講談五百年』 という書物があるらしい。ぜひ機会があったら拝読したいものです。


旭堂左南陵 :○○○○○○
 
残念・・・実は中入りのタイミングで講談会の後の予定の調整が入ったので止む終えずグリーン席を離れ会場の一番後ろで拝聴。断片的に抜けてしまったので頭に入らなかった。。。
あぁぁぁ・・・・・・・・すごく悔やまれます。
東京弁での講談・・・まるでNHKの「日本の和芸」をナマで見ているような。。。
たしか・・家康のしかみ像(南舟さんに似てるとのこと)と太鼓の音がキーワードの話し。
 

旭堂南左衛門:水戸黄門 漫遊記 鮫川の渡船場 扇の掟
何時だったか、南左衛門さんから「上方講談に出てくる水戸黄門さんは大阪弁」というの聞いた事が有ります。たしかにその通りで、もちゃっとした感じもありますがこれがきっと標準語だとまたイメージがかわってしまうのでしょうね。
いつも以上の大熱演のうちに講談祭が終了となりました。
 
あぁぁ・・ほんとに旭堂左南陵の聞き逃しが心から悔やまれる会でした。
すぐさまタクシーをGETして次の場所へ移動・・。充実した一日でした。

2011/06/18

2011 6/18 教科書に書かれない幕末史 ~脱落する人たち

2011 6/18 教科書に書かれない幕末史  ~脱落する人たち~

この内容は一坂先生から教えていただいたものを元に私が勝手に纏めているだけなので、私の認識不足から事実と異なる場合があります。
そんな時は素直に謝りますwwゴメンナサイ!

それでは、今回の朝日カルチャーの内容です。


明治政府があっさりと捨てたモノ・・それは攘夷思想。
幕末の時代を吹き抜けた尊皇攘夷思想。もとろん薩摩藩や長州藩の中にその思想は多かったはずが、政権を取ったとたんにあっさりと手のひらを返した感が否めない。

おもいっきりの縦社会であった藩という概念が、攘夷という思想によって、同士という藩の垣根を越えた横のつながりが形成されました。と同時に外国からの攻撃により、”日本人というアイデンテティ”が芽生えた。
悲惨な事件として神戸事件では壮絶な切腹をした滝善三郎は「自分は遠国の者故、外国人を手厚く保護するとは知らなかった」と強烈な皮肉を漏らしている。

古部の垂水にある舞子霊園内永服地福寺墓地にある「土岐一郎のお墓」は2mくらいの巨大なお墓。
元々和田岬にあったらしく、非常に古く誰の墓なのか長らく不明のまま。明治44年「西摂大観」ではお墓の側面に攘夷を感じさせる詩が書かれていることから、志士の墓ではないか?と記されているらしい。
さてこのお墓は調べてゆくうちに、神戸事件で切腹をした滝善三郎の部下で、外人を槍で突いた本人の墓ではないか?と判明してきた。
そこで、滝善三郎が眠る墓の横に並べては?という声があがるが。これにSTOPがかかった。
土岐一郎は偽名で本名は太田彦郎、小豆島出身(岡山の津山藩)。津山藩は洋学が非常に盛んな藩で、数年前に小豆島の住人が外国人の殺されるという事件が起こっていることから攘夷論者であったことが考えられる。
ある日、神戸へ出てきた太田は町を闊歩する外交人の数に驚いてしまう。そんな背景で津山藩藩士と激しい口論の中でついに明治2年2/24に和田岬で殺されてしまったことが判明。享年25歳。その後、彼の墓は「残念さん」と呼ばれて信仰の対象となっている。
それは攘夷を唱えた信念に教官を覚える人々が多かったことをあらわしているのではないか?

明治2年9/4の夜半には兵部太夫の大村益次郎が京都で襲われている。
村医者であったがオランダ語を学んだことで兵学所の翻訳を進めるうちに兵学者となり、フランス式の軍隊に傾向。当時考えた徴兵制はそれは画期的な方法であった半面、士族には恨みを買うきっかけとなっている。

明治2年8月 大阪を軍事の拠点とすべく関西へ。
さて、大村を襲ったのは「神代直人」ら8人。21歳~29人の若者たち。内長州人は3人。

明治2年7月には、京都で合流、それぞれが知り合い、西洋化を推進しているのは大村であると目的を決めた。
9/2には大村bに対する斬奸状を作っている。(神州之国体を汚し朝憲を蔑し・・・・)
犯行後は神代は長州まで逃げ帰ったところで捕縛。藩内で取り調べを行い、即斬首の後、太政官へ報告をしている。なぜ、京都へ引き渡さなかったのか・・・。おそらく世間では攘夷論がまだまだ盛んで、神代の名誉を守ることが目的だったのではないか。

元々、この事件を予見していた木戸孝允は、細かな注意を与えていた。
特に京都弾正台の不穏な動きを伝えている。

さて、襲われた大村は斬られたキズが悪化、大阪の鈴木町に移動しボードウィンによって足を切断したが敗血症により1/5に亡くなる。大阪市内にある巨大な碑にはあの東条英機の名前がある。
切断した足は東寺町の龍海寺にあり、これは彼の大阪に対する思いと同時に蕎麦に眠る緒方洪庵に敬意を示したのでしょう。
この大村の墓はなんと昭和14年にようやく建立されている。やはり、当時は攘夷論がまだまだ盛んで立てることが出来なかったのでしょう。

8人のうちの6人の処刑を行うことになった京都府。当時は府・藩・県がありなんともややこしい時代。処刑の寸前に京都弾正台の海江田より中止せよ!の指令が届く。困った京都府は太政官にお伺いを立ててようやく処刑を行った。そしてこの事件は山口藩の脱退騒動へとつながってゆく。

長州藩の奇兵隊は民衆を集めることでいまや5000人。
明治2年8月に山口藩を脅かす令が下った。四境戦争により手に入れた石見と小倉を返却することとなる。
これでいっきに収入の大幅減。この穴埋めとして不要な軍事力を整理するlこととして2250人は常備軍へ移行。残りは「はーい!解散!」(明治2年11月:諸隊解散令)
明治2年11/1 その処分により1200人が脱走し防府(宮田)に18の関門を築くことで2000人に膨れ上がる。
王政は幕政に劣る・・長州は徳川に劣る・・と嘆願書を出したり、大村の墓を暴いたりしていた。
明治3年1/24には藩知事の屋敷が襲われ、直属の干城隊を負かすと同時に、山口各地で農民の一揆が勃発。(脱退兵が鎮圧したという話も・・)
ついに武力鎮圧を決めた木戸孝允は2/8に実行したが翌日敗北。2/10には西郷が薩摩兵をつかうかどうかの打診があったがこれを当然断っている。2/11には体制を建て直しようやく制圧が行われた。
140人近くが処刑。島流しも多数。長州人同士が戦いあう事となった結果。

反乱兵の佐々木祥一郎は処刑される際はわめき散らした為に鉄の棒で滅多打ちしたあげくに首切りの後、さらし首。(宇部)
反乱兵の長島義輔の首を持ち帰った家族が仏壇に供えたところ鼻血をだして答えた。
多数の反乱の結果、死者を出した彼らの墓は・・・靖国に祀られる事は無かった。。。

この処刑をなんとか免れた多数の反乱者は実は、九州の久留米に逃げ込んでいた。
藩主は有馬頼咸(よりしげ)。幕末にはすでに軍艦を七隻も保有していた海軍力のある藩。

明治元年1/8には、徳川慶喜さんに力を尽くすことを決定し1/26には出発する手はずとなっていた。ところがその当日の1/26には藩の重鎮である不破美作(ふわみまさか)が攘夷論者の小河真文(おごうまさふみ)ら24人により暗殺された。もちろん12か条からなる斬奸状を出している。
この事件で久留米藩はあっさりと倒幕派に変更。
2/28には京都の警備を任されている。実は久留米藩は1000人から成る奇兵隊をモデルにした応変隊(討幕軍)と6000人の常備軍を持ち、外国と戦う為に軍を強化している。そこで山口藩から逃げてくる脱走者を匿うこととしていた。
粘着質な大楽源太郎は、西山塾を山口県大道で開いており塾生が神代直人。ちなみにこの横の村が大村の出身村。
たまりかねた山口藩は政府へこの久留米藩の問題をなんとかしてもらう為に願い出ていると同時に、久留米藩内では、中央政府への不満が高まってくることになる。

この背景で京都では大変な事件が起こる。

公家の愛宕直旭(おたぎみちあきら)と外山光輔(とやまみつすけ)が、東京へ行ったままの天皇を武力で取り返す計画を立てており、大楽らと階段を行い攘夷をも進めていた。
政府転覆計画・・・これは2府39県からなる大反乱計画となっていたが明治4年3/4に事件が京都で発覚。すぐさま京都で80人以上が捕縛。3/10には弾正台より久留米藩主に対し出頭命令が出され東京に呼び出される。
3/16には計画が漏れることを恐れ、大楽ら4人を筑後川で暗殺
この結果、全国で200人以上が処分され、明治4年12月以降には新政府に逆らうものは誰もいなくなった。

2011/06/17

2011 6/17 大地震両川口津浪記石碑

大正橋の浪速区側にある石碑。大地震両川口津浪記石碑。こんな大きいのになんどか探したけどまったく気がつかなかった。
http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000009171.html


堺大浜公園の擁護璽と同じように後世の人々への注意喚起の内容となっているとともに大きく違うのは、ちゅあんと保存していこうという心が感じられること。堺市も見習うできでしょう。

堺大浜公園の擁護璽
http://sweet-mikan.blogspot.com/2011/03/2011-322.html


~大阪市 ホームページより引用~

安政元年(1854)11月4日・5日に発生した地震と、それに伴う津波によって犠牲となった人々の慰霊と、後世への戒めを語り継ぐことを目的として長堀茂左衛門町(ながほりもざえもんちょう)の森氏が発起し、長堀茂左衛門町の家中と石碑の建つ幸町の人々が協力して建てた石碑である。
碑文には、地震の後船に避難した人が津波によって大きな被害を受けたこと、148年前の宝永地震でも同じことがあり、教訓を生かすことができなかったことが書かれている。
そして、年月がたてば伝え聞く人は稀となり、忘れ去られてしまうが、今後はこのようなことがないよう、災害を後世に語り継いで欲しいと結んでいる。
記念碑保存運営委員会では、毎年地蔵盆にあわせて石碑を洗い、刻まれた文字に墨を入れるのが年中行事となっている。
建碑の精神が、150年間受け継がれている意味においても稀有な例である。
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大地震両川口津波記(現代語訳)  横にある案内版より。。

嘉永七年(一八五四年)六月十四日午前零時ごろに大きな地震が発生した。大阪の町の人々は驚き、川のほとりにたたずみ、余震を恐れながら四、五日の間、不安な夜を明かした。この地震で三重や奈良では死者が数多く出た。
同年十一月四日午前八時ごろ、大地震が発生した。以前から恐れていたので、空き地に小屋を建て、年寄りや子供が多く避難していた。
地震が発生しても水の上なら安心だと小舟に乗って避難している人もいたところへ、翌日の5日午後4時ごろ、再び大地震が起こり、家々は崩れ落ち、火災が発生し、その恐ろしい様子がおさまった日暮れごろ、雷のような音とともに一斉に津波が押し寄せてきた。
安治川はもちろん、木津川の河口まで山のような大波が立ち、東堀まで1.4mの深さの泥水が流れ込んだ。両川筋に停泊していた多くの大小の船の碇やとも綱は切れ、川の流れは逆流し、安治川橋、亀井橋、高橋、水分橋、黒金橋、日吉橋、汐見橋、幸橋、住吉橋、金屋橋などの橋は全て崩れて落ちてしまった。さらに、大きな道にまで溢れた水に慌てふためいて逃げ惑い、川に落ちた人もあった。
道頓堀川に架かる大黒橋では、大きな船が川の逆流により横転し川をせき止めたため、河口から押し流されてきた船を下敷きにして、その上に乗り上げてしまった。
大黒橋から西の道頓堀川、松ケ鼻までの木津川の、南北を貫く川筋は、一面あっという間に壊れた船の山ができ、川岸に作った小屋はながれてきた船によって壊され、その音や助けを求める人々の声が付近一帯に広がり、救助することもできず、多数の人々が犠牲となった。また、船場や島ノ内まで津波が押し寄せてくると心配した人々が上町方面へ慌てて避難した。
その昔、宝永四年(一七〇七年)十月四日の大地震の時も、小舟に乗って避難したため津波で水死した人も多かったと聞いている。長い年月が過ぎ、これを伝え聞く人はほとんどいなかったため、今また同じように多くの人々が犠牲となってしまった。
今後もこのようなことが起り得るので、地震が発生したら津波が起こることを十分に心得ておき、船での避難は絶対にしてはいけない。また、建物は壊れ、火事になることもある。お金や大事な書類などは大切に保管し、なによりも「火の用心」が肝心である。川につないでいる船は、流れの穏やかなところをえらんでつなぎ替え、早めに陸の高いところに運び、津波に備えるべきである。
津波というのは沖から波が来るというだけでなく、海辺近くの海底などから吹き上がってくることもあり、海辺の田畑にも泥水が吹き上がることもある。今回の地震で大和の古市では、池の水があふれ出し、家を数多く押し流したのも、これに似た現象なので、海辺や大きな川のそばに住む人は用心が肝要である。
津波の勢いは、普通の高潮とは違うということを、今回被災した人々はよくわかっているが、十分心得ておきなさい。犠牲になられた方々のご冥福を祈り、つたない文章であるがここに記録しておくので、心ある人は時々碑文が読みやすいよう墨を入れ、伝えていってほしい。

安政二年(1855年)七月建立

2011 6/17 かしく寺 法清寺




大阪梅新の交差点北川にある法清寺。ここはかしく寺として信仰を集めています。
私も今回はじめておまいりさせていただきました。

※金久右衛門の右隣です。


掛ってある額の文字。

かしく様は、北の新地新屋敷の遊女でしたが、平素はおとなしい女に似げなく、酒を飲むと打って変わったように前後を忘れる癖があって、兄の吉兵衛からいつも意見をせられていました。或る日も、酒のことからいさかいとなり、遂にあやまって兄を傷つけてしまいました。兄殺しの罪でかしく様が処刑せられたのは、今から二百五十余年前の寛延二年三月十八日のことであります。
その処刑に臨んで、かしく様は、油揚を所望し、その油を髪につけてきれいにときつけ、町々を引き廻されたので、女の身だしなみを忘れぬ奥ゆかしさが評判となり、「八重霞浪花濱荻」 その他の劇や浄るりに仕組まれて、今に至るまでその名をうたわれています。
かしく様は、最後の一念で、自分と同じ悪癖になやむ世の人のために、悪酒を止め、酒に乱れぬ心霊とならんと誓願しましたが、この墓に香華を供えて立願する人の絶えないのはこうしたわけであります。
法清寺は俗にかしく寺といわれ、凶を転じて福となす〃よいまもり〃(酔い守り)を授与し、命日の三月十八日には毎年盛大なかしく祭りを執行しております。

2011 6/17 なにわ最強醤油ラーメン 金久右衛門 



 

なにわ最強醤油ラーメン 金久右衛門 
http://www.king-emon.jp/




「大阪ブラック」を頂いてまいりました。
食べログで1位とのこと、運良く12:30の段階で5分程度待っただけ。それでも
お店を出ると10人は並んでいたかなー。

しっかしラーメンは難しい。ホントに難しい食べ物ですねー。

2011/06/15

2011 6/15 無添加工房 アンリ アップルパイ


最近、美味しいものを頂く機会が増えるとともに、真夏に向かって着実に体重が加速化傾向に!
たぶん夏痩せ対策なのかも・・です。

さて、街に出ると意外とパン屋さんって多いんですよね。
おそらくそれぞれの街には必ずそのエリアの銘店があることともいます。
そんな色々とあるパン屋さんの中でもアップルパイが超美味!なパン屋さんをご紹介します。
実はこのお店のアップルパイを頂いたのは今日で2回目!

無添加工房 アンリのアップルパイは超おいしいですヨ。
サックサクのパイ生地に絶妙な甘さのりんごがたっぷり!

箕面市の桜井店・牧落店・小野原店と、あとは吹田の北千里と全部で4店。
いずれも可愛い雰囲気のショップの中に個性的なパンが勢ぞろい。中でも
大人気はやはりアップルパイでしょう。
手間をかけて作り上げたアンリのアップルパイ♪
写真を見ただけでも・・どうでしょう?美味しさが伝わるかな?
牧落店はお店の裏側に駐車場3台ありました^^

http://www.apple-anri.jp/

2011/06/14

2011 6/14 踊るうどん 梅田店

ひさしぶりに美味しいおうどんを頂きました。
大半のおうどんのデフォルトでマイタケの天ぷらが乗っていて、これがまたサックサクの歯ごたえなんですねー。
近年のおうどんブームで巷にも沢出来ていて、たしかに歯ごたえが。。。

といっても生ゴムや太っといゴムチューブみたいな
麺をコシだと勘違いした店が多い中で、まともに麺の味を感じる事ができる数少ないお店です。


大阪第3ビルはうどんの激戦区。たくさんのうどん屋さんがひしめき合い、しのぎを削っています。
そんな中で、きつねうどんや天ぷらうどんのメニューではなく、「まいたけ天ぶっかけ」や「まいたけ天生しょうゆ」がメインメニューなので意外でした。
おうどんが美味しいだけではなく、お店スタッフの心遣いも感心!いきなりハートを掴まれてしまいました。
頂き物のアップルパイを持ってお店に入り、座席に座るやいなや、「お客さま、それ(アップルパイ)、よかったらお店の冷蔵庫に入れておきましょうか?」ですよ!要冷蔵のケーキだとおもって気を配ってくださいったんですね^^
こんな一言のあるおうどんやさんはまず無いでしょう。。
大阪市北区梅田1-1-3 大阪駅前第3ビル B2F
TEL 06-6344-3760
平日 11:00~15:00 17:00~21:00
土日祝 11:00~21:00
第2.4.5月曜定休日