2011/10/22 第8回 商工会創立60周年記念興行 笑好寄席
昨夜からの強雨で心配していましたが、今朝からはだいぶマシになりなした。
13時には会場に到着、すでに数人がこられていました。開場時間前にはたくさんのお客様がこられていましたので急遽開場を早める人気ぶりとなりました
笑福亭 呂好
マクラなくネタの投入。ネタは「色事根問」。
女性にもてる秘訣の1番から10番までを話したところでシンプルに終了しました。
それでも山代名物宇治の蛍踊りで会場はHOTに。
笑福亭 扇平
22年目とのことで立派な中堅。会場の広さや男女比率、客層等のネタや一分線香即席話で心を掴む。
中でもネタにつながる浮気ネタを連発。その流れでネタは「風呂敷」。
この「風呂敷」は初めて。
内容は旦那のいない隙に、呉服屋清吉を自宅に引っ張りこむ奥さん。
そのまま旦那は一人酒。
押入に清吉を隠してその間に奥さんは仲人さんに相談して奇想天外な方法で清吉を逃がすことに成功する。
桂 小枝 (特別ゲスト)
本来は小枝さんのはずですがなぜか文三さんが登場。桂小枝さんがまだ到着されていないとの事。
桂文三
ご本人はお酒は飲まれないとのことです。きっと飲まれないだけに酔っぱらいさんを観察されているのでしょうねー。
酒飲みの会話なんかも注意深く聞いておられるのかもしれません。
ネタは替り目。
奥さんにおでんを買いに行かせた間に旦那の泣きが入るが実際は奥さんは買いに行ってなかったのですべて聞かれてしまう。
この箇所で小枝さんが到着したとのことで、ぶった切った形でもったいないですが高座を降りられました。
で、小枝氏が高座にあがられるのかとおもいきや、なぜかまた文三さんの登場。
もう少し繋いで欲しいという指令があったのでしょうか。
いきなりの高座で、急遽、寄席文字についてのお話をわずか5分程度されていよいよ小枝氏の登場か。。。
とおもいきや中入りに突入!?
~ 中 入 り ~
中入りに突入したかとおもうとわずか5分程度で鳴り物が鳴り出し中入りの終わりをつげ、小枝氏が慌ただしく高座へ。
おそらくお手洗い中の方は間に合わなかったとおもわれます。
この時点で15時19分。
この後16時50分には祇園花月で出番があるそう。
なぜか、キダタローさんのエピソードを3本程度紹介する強引な流れ。
そして自らの携帯電話をあけ、見台の下に置き、時折眺めながら高座を降りました。こ
の時点で15時24分。
なんと5分の高座でした。
観客はあっけにとられ、皆ぼーぜん!
そのまま中入りに突入となりました。
中入りが終わる直前に、舞台の前に桂文三さん・笑福亭竹林さんが並んで立たれ、今日のどたばた劇を詫びられました。
もともと今日の小枝さんの予定は空いていて、本人はたっぷりと古典落語を話されるとのことでしたが、吉本興行よりスケジュールを入れられた為に今日のどたばた劇になったとのこと。
だれよりも一番悔しかったのは小枝さんであるとのこと。
悔しかったのは、笑好寄席よりも京都花月を優先することで、小枝さんの噺を楽しみにしていたお客様でしょう。
今月になり、祇園花月の出番がわかった時点で代演を立てるべきでしょう。
笑福亭 竹林
ご自身は和歌山上北山村のご出身とのこと。
今回の豪雨の被害の会った地区で、村長さんが同級生、慰問にいったら皆さんは松茸ご飯を食べておられたそう。それでも救援募金に関するお話をきっちりとされ心を打たれました。
生で聞くのは初めてのお話。米朝全集の中にある「豆狸」。
秋の大阪ミナミの三ツ寺を舞台にしたお話です。
所々に注釈を入れられたおかげでわかりやすく手直しされています。
ストーリーはわかっているのに、三ツ寺さんの境内で亡くなっている狸が発見されたときには、私の目から大粒の涙がこぼれていました。
ほんとにしっとりした大阪のお話で、情景を見事に竹林さんが再現されました。
フランス風懐石料理中華風・・・寺社仏閣が大好きです。 大阪市内に居ますが九度山と信州上田が心の故郷です♪尊敬する人は真田昌幸さんと幸村さん親子・吉田松陰先生、金子みすゞさん、大石順教尼さん。日本美術なら富岡鉄斎さんに横山大観さんに村上松園さん。そして大好物は甘々なみ・か・ん♪ ・・ようは何でもアリなのです
2011/10/15
2011 10/15 征韓論争と大阪会議
征韓論争と大阪会議
今日から朝日カルチャーの芦屋教室で新しく一坂先生の講義が開講しました。
もうちょっと近かったら行くんだけど・・残念。
江戸幕府の間、隣国である朝鮮への貿易や国交はずっと対馬藩宗家が行ってきましたが、ところが、日本が各国と条約を結んだことで朝鮮とは国交が途絶ることとなった。(※朝鮮も日本同様に鎖国政策をとっていた。)
けっこう過激発言の木戸さん曰く「朝鮮くらいは日本に加えても問題ない」と、今で思えばとんでもない発言!
まぁ色々と策を考えるもので、国交を断絶している間に日本は国力を蓄えて、木戸を大使、宋氏を副使として清国とたいとうにな関係をつくれば、おのずと朝鮮を下位におくことができる・・・等など・・。
征韓論といえば西郷さんが牽引したイメージがありますが実は西郷さんは態度を明確には
していませんでした。同郷の横山安武氏(森有礼の実兄)が明治3年(1870年)7月、新政府への批判10箇条を挙げた書を集議院門扉に公示し、津軽藩邸前で屠腹して果てていますがその碑文の中にはおなじく政府への批判が書かれています。
さて、明治新政府は明治元年(1868年)国交貿易を復活させるべく国書(「皇政維新の書契」)を朝鮮へ持っていきましたが、その文章に使われている文字が江戸時代の形式と異なり、国書の中に「皇」「勅」「天朝」「皇室」「皇祖」「皇上」という文字が使われたり、印が違ったりしていたことが原因で朝鮮側に拒否。
その後数回にわたり国書を訂正したが受け入れられることはなかった。
つぎに明治3年(1870年)2月、佐田白茅、森山茂を派遣しましたが、やっぱりNG。佐田は朝鮮の状況に憤慨し、帰国後に征韓を建白。
明治5年(1872年)1月には、対馬旧藩主を外務大丞に任じ、9月には、外務大丞花房義質を派した。
明治6年になってからは現地では排日の風がますます強まり、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。
当時は朝鮮には日本の本拠地である藩の施設があり、「倭館」と呼ばれていた。(明治の廃藩置県後は「釜山草梁公館」と称する)。この倭館で日本人を侮蔑するような事件がおこりついに征韓論が沸騰。
明治6年(1873年)6月の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。
ここで注目のキーマンは大久保利通。この方は大蔵卿でしたが参議ではない。元々島津久光(国父)に見出されていますので、参議になるのを遠慮していたのかもしれません。
一足早く岩倉使節団から帰国していた大久保は帰国早々に夏休みをとり有馬温泉に行くことに。
途中、友人の堺県知事の税所篤(薩摩藩:さいしょあつし)と会い、風光明媚な高師浜へ。ところが、その松の木の数が激減!森林伐採を禁止して【音に聞く 高師浜の はま松も 世のあだ浪は のがれざりけり】と詠んでいます。
当時の閣僚は下記のとおり。
太政大臣(三条実美)、右大臣(岩倉具視)、左大臣(空席)、
参議(木戸孝允(長※洋行中)・西郷隆盛(薩)・板垣退助(土)・大隈重信(肥)・江藤新平(肥)・大木喬任(肥)・後藤象二郎(土)・井上馨(長)
ところが忘れてはいけないのは、岩倉使節団からの申し送りがあり、重要な事は留守中には決定しないようにという含めがあった。
板垣退助は閣議において、この倭館の居留民保護を理由として軍隊を派遣することを進言。
ところが西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと強く主張。
歴史は難儀なもので、西郷隆盛氏は征韓論者のイメージが強く、現に私もそうでした。
そのいわれは、板垣退助へ送った1枚の手紙。
その中身は、「日本から軍隊を派遣したら、朝鮮軍はなにかアクションを起こすに違いない。そうなったらそれを理由に武力制圧すればいい」との内容。
毛利敏彦さん(大阪市立大学の先生)曰く、この内容は板垣さん以外にこんな過激な内容を伝えていない。
これは自分が朝鮮に行きたいがためのポーズであるのかもしれない。西郷さんが主張しないと、外務卿の副島種臣さんが行くことになるからか?と分析。
この閣議では8月に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣し、その日程は9/20と決定した。
しかし最高の決定権を持つ太政大臣の三条実美は「岩倉使節団で洋行中の岩倉が帰国するまでちょっと待って」と、この案件をペンディング扱いとした。
岩倉使節団で洋行中に所管が届く。
それは留守政府が色々と行っている為に早く帰国して欲しいという催促。そこで木戸孝允と大久保利通は岩倉よりも早くに帰国することとなったがこの二人は中が悪いので別々に帰国している。
さて岩倉が帰国し大久保と合流。そこへ三条が相談に行くことになり、大久保を参議にする案がでてくる。
そして3週間説得され、ついに12/12に大久保と副島が参議になる。
このときに大久保は「ただ命に、ただ従い」と言葉を残している。
これが二通りの意味にとれる。
すなわち、大久保は三条のロボットとなるという意味と大久保はGoingMyway でいくという意味。
月日ばかりが過ぎてゆく。
西郷さんがぶちきれた!「わしの朝鮮行きはどうなった!」
正式に朝鮮へ派遣されると考えていた西郷隆盛でしたが一向に閣議が開かれない。
実はそれどころではなく、使節団の条約改正の失敗や、氏族、廃藩置県の後始末やら国内で起こっている長州関連の汚職事件(山城屋事件:明治5年:陸軍省の御用商人山城屋和助が陸軍省から無担保で借り受けた公金を返済できず自殺。山城屋の借り出した公金は総額約65万円で当時の国家歳入の1%にあたる:ちなみに2009年の歳入は約89兆円)のもみけしでドタバタ!
怒れる西郷さん・・ついに10月14日、15日と閣議が開かれた。
閣議では「国内の山積する問題を片付ける方が先」~岩倉・大久保に対し、「征韓ではなく話し合いに朝鮮にいく」と遣韓論を述べる。(「朝鮮事件ニ付西郷隆盛建白」)
岩倉・三条は「大久保は西郷を押さえ込む役」を求めその結果とおりに働いたが、なんと2日目の閣議では
岩倉・三条はなぜか西郷側にまわってしまう。これでは大久保はたまらない。
大久保は即辞表を叩きつけ、翌日、岩倉も辞表を出した。
それを聞いた太政大臣三条は高熱を発し、病に倒れた
こうなれば政府は混乱状態。
10/20に大久保は独自に岩倉邸を訪ね策を協議し、岩倉をTOPにする太政官代理を画策。腹心の部下の黒田清隆へ、天皇侍従の吉井友実に岩倉具視を太政大臣就任させるように天皇に働きかけさせるというものであった。策は成功し、岩倉具視を太政官とした仮政府ができあがる。
10/22には、西郷さんらが、天皇に意見を伺って欲しいと要求したがなんと岩倉さんは「閣議決定にしばられること無く、自分の考えで天皇に上奏する」とのこと。そして岩倉さんは天皇に対し派遣か延期かを聞いた結果 、延期とのこと。実はこのプランを強引にやめさせる為に岩倉さんは奥の手を使っていた。
それは幕末のドタバタ騒ぎでもよく使われた手法で天皇を巻き込む作戦。なんと天皇に経緯と利害を説明した際に、自分は反対である旨を誇張、そしてついに天皇より正式に10/24には遣韓中止が決定された。
ついに西郷さんは辞表提出し怒り心頭し辞表を叩きつけて鹿児島に帰ってしまった。同時に板垣、後藤、江藤、副島は翌日に辞表提出。もちろん腹心の部下も同様に600人・・。これを明治六年政変というらしい。
この時点でいままでみんなで話し合った内容が吹き飛んでしまった。何のために話し合ったのか!
征韓賛成派であった大久保・後藤・江藤らは辞表を提出。
いわば士族武断主義と官僚主義との構図となった征韓論争。
のこった大久保さんはエスカレートして、台湾出兵。これを心配する伊藤に井上。
もう収集が付かない。。
なんとか事態収束を目的として大久保・井上・井戸ができるだけ目立たない場所で話し合うことに。
明治7/12 大久保さんは冬のバカンスということで大阪へ行くことに。有馬兵衛に宿泊。もっぱら五代と碁をして過ごしていたそう。途中、蓬莱峡を絶賛!そして中山寺を越え、大阪入り。
目指すは、大阪北浜の「加賀伊」。
明治8年1月~2月には木戸・板垣・大久保の大阪会議が開催。
ここでは木戸が政府に戻る条件に三権分立を主張した(司法・立法・行政)そして3月には復職し4月には三権分立が決定された。
北浜の「加賀伊」は主人からの望みで「花外楼」となり、当時の書が残されている。
今日から朝日カルチャーの芦屋教室で新しく一坂先生の講義が開講しました。
もうちょっと近かったら行くんだけど・・残念。
江戸幕府の間、隣国である朝鮮への貿易や国交はずっと対馬藩宗家が行ってきましたが、ところが、日本が各国と条約を結んだことで朝鮮とは国交が途絶ることとなった。(※朝鮮も日本同様に鎖国政策をとっていた。)
けっこう過激発言の木戸さん曰く「朝鮮くらいは日本に加えても問題ない」と、今で思えばとんでもない発言!
まぁ色々と策を考えるもので、国交を断絶している間に日本は国力を蓄えて、木戸を大使、宋氏を副使として清国とたいとうにな関係をつくれば、おのずと朝鮮を下位におくことができる・・・等など・・。
征韓論といえば西郷さんが牽引したイメージがありますが実は西郷さんは態度を明確には
していませんでした。同郷の横山安武氏(森有礼の実兄)が明治3年(1870年)7月、新政府への批判10箇条を挙げた書を集議院門扉に公示し、津軽藩邸前で屠腹して果てていますがその碑文の中にはおなじく政府への批判が書かれています。
さて、明治新政府は明治元年(1868年)国交貿易を復活させるべく国書(「皇政維新の書契」)を朝鮮へ持っていきましたが、その文章に使われている文字が江戸時代の形式と異なり、国書の中に「皇」「勅」「天朝」「皇室」「皇祖」「皇上」という文字が使われたり、印が違ったりしていたことが原因で朝鮮側に拒否。
その後数回にわたり国書を訂正したが受け入れられることはなかった。
つぎに明治3年(1870年)2月、佐田白茅、森山茂を派遣しましたが、やっぱりNG。佐田は朝鮮の状況に憤慨し、帰国後に征韓を建白。
明治5年(1872年)1月には、対馬旧藩主を外務大丞に任じ、9月には、外務大丞花房義質を派した。
明治6年になってからは現地では排日の風がますます強まり、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。
当時は朝鮮には日本の本拠地である藩の施設があり、「倭館」と呼ばれていた。(明治の廃藩置県後は「釜山草梁公館」と称する)。この倭館で日本人を侮蔑するような事件がおこりついに征韓論が沸騰。
明治6年(1873年)6月の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。
ここで注目のキーマンは大久保利通。この方は大蔵卿でしたが参議ではない。元々島津久光(国父)に見出されていますので、参議になるのを遠慮していたのかもしれません。
一足早く岩倉使節団から帰国していた大久保は帰国早々に夏休みをとり有馬温泉に行くことに。
途中、友人の堺県知事の税所篤(薩摩藩:さいしょあつし)と会い、風光明媚な高師浜へ。ところが、その松の木の数が激減!森林伐採を禁止して【音に聞く 高師浜の はま松も 世のあだ浪は のがれざりけり】と詠んでいます。
当時の閣僚は下記のとおり。
太政大臣(三条実美)、右大臣(岩倉具視)、左大臣(空席)、
参議(木戸孝允(長※洋行中)・西郷隆盛(薩)・板垣退助(土)・大隈重信(肥)・江藤新平(肥)・大木喬任(肥)・後藤象二郎(土)・井上馨(長)
ところが忘れてはいけないのは、岩倉使節団からの申し送りがあり、重要な事は留守中には決定しないようにという含めがあった。
板垣退助は閣議において、この倭館の居留民保護を理由として軍隊を派遣することを進言。
ところが西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと強く主張。
歴史は難儀なもので、西郷隆盛氏は征韓論者のイメージが強く、現に私もそうでした。
そのいわれは、板垣退助へ送った1枚の手紙。
その中身は、「日本から軍隊を派遣したら、朝鮮軍はなにかアクションを起こすに違いない。そうなったらそれを理由に武力制圧すればいい」との内容。
毛利敏彦さん(大阪市立大学の先生)曰く、この内容は板垣さん以外にこんな過激な内容を伝えていない。
これは自分が朝鮮に行きたいがためのポーズであるのかもしれない。西郷さんが主張しないと、外務卿の副島種臣さんが行くことになるからか?と分析。
この閣議では8月に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣し、その日程は9/20と決定した。
しかし最高の決定権を持つ太政大臣の三条実美は「岩倉使節団で洋行中の岩倉が帰国するまでちょっと待って」と、この案件をペンディング扱いとした。
岩倉使節団で洋行中に所管が届く。
それは留守政府が色々と行っている為に早く帰国して欲しいという催促。そこで木戸孝允と大久保利通は岩倉よりも早くに帰国することとなったがこの二人は中が悪いので別々に帰国している。
さて岩倉が帰国し大久保と合流。そこへ三条が相談に行くことになり、大久保を参議にする案がでてくる。
そして3週間説得され、ついに12/12に大久保と副島が参議になる。
このときに大久保は「ただ命に、ただ従い」と言葉を残している。
これが二通りの意味にとれる。
すなわち、大久保は三条のロボットとなるという意味と大久保はGoingMyway でいくという意味。
月日ばかりが過ぎてゆく。
西郷さんがぶちきれた!「わしの朝鮮行きはどうなった!」
正式に朝鮮へ派遣されると考えていた西郷隆盛でしたが一向に閣議が開かれない。
実はそれどころではなく、使節団の条約改正の失敗や、氏族、廃藩置県の後始末やら国内で起こっている長州関連の汚職事件(山城屋事件:明治5年:陸軍省の御用商人山城屋和助が陸軍省から無担保で借り受けた公金を返済できず自殺。山城屋の借り出した公金は総額約65万円で当時の国家歳入の1%にあたる:ちなみに2009年の歳入は約89兆円)のもみけしでドタバタ!
怒れる西郷さん・・ついに10月14日、15日と閣議が開かれた。
閣議では「国内の山積する問題を片付ける方が先」~岩倉・大久保に対し、「征韓ではなく話し合いに朝鮮にいく」と遣韓論を述べる。(「朝鮮事件ニ付西郷隆盛建白」)
岩倉・三条は「大久保は西郷を押さえ込む役」を求めその結果とおりに働いたが、なんと2日目の閣議では
岩倉・三条はなぜか西郷側にまわってしまう。これでは大久保はたまらない。
大久保は即辞表を叩きつけ、翌日、岩倉も辞表を出した。
それを聞いた太政大臣三条は高熱を発し、病に倒れた
こうなれば政府は混乱状態。
10/20に大久保は独自に岩倉邸を訪ね策を協議し、岩倉をTOPにする太政官代理を画策。腹心の部下の黒田清隆へ、天皇侍従の吉井友実に岩倉具視を太政大臣就任させるように天皇に働きかけさせるというものであった。策は成功し、岩倉具視を太政官とした仮政府ができあがる。
10/22には、西郷さんらが、天皇に意見を伺って欲しいと要求したがなんと岩倉さんは「閣議決定にしばられること無く、自分の考えで天皇に上奏する」とのこと。そして岩倉さんは天皇に対し派遣か延期かを聞いた結果 、延期とのこと。実はこのプランを強引にやめさせる為に岩倉さんは奥の手を使っていた。
それは幕末のドタバタ騒ぎでもよく使われた手法で天皇を巻き込む作戦。なんと天皇に経緯と利害を説明した際に、自分は反対である旨を誇張、そしてついに天皇より正式に10/24には遣韓中止が決定された。
ついに西郷さんは辞表提出し怒り心頭し辞表を叩きつけて鹿児島に帰ってしまった。同時に板垣、後藤、江藤、副島は翌日に辞表提出。もちろん腹心の部下も同様に600人・・。これを明治六年政変というらしい。
この時点でいままでみんなで話し合った内容が吹き飛んでしまった。何のために話し合ったのか!
征韓賛成派であった大久保・後藤・江藤らは辞表を提出。
いわば士族武断主義と官僚主義との構図となった征韓論争。
のこった大久保さんはエスカレートして、台湾出兵。これを心配する伊藤に井上。
もう収集が付かない。。
なんとか事態収束を目的として大久保・井上・井戸ができるだけ目立たない場所で話し合うことに。
明治7/12 大久保さんは冬のバカンスということで大阪へ行くことに。有馬兵衛に宿泊。もっぱら五代と碁をして過ごしていたそう。途中、蓬莱峡を絶賛!そして中山寺を越え、大阪入り。
目指すは、大阪北浜の「加賀伊」。
明治8年1月~2月には木戸・板垣・大久保の大阪会議が開催。
ここでは木戸が政府に戻る条件に三権分立を主張した(司法・立法・行政)そして3月には復職し4月には三権分立が決定された。
北浜の「加賀伊」は主人からの望みで「花外楼」となり、当時の書が残されている。
2011 10/15 NHK ちょっといい旅「菊のころ想いはめぐる冬の陣」
2011年10月15日(土) 5時15分~5時50分
ちょっといい旅「菊のころ想いはめぐる冬の陣」(昭和63年11月10日)が再放送されました。
ちょっといい旅「菊のころ想いはめぐる冬の陣」(昭和63年11月10日)が再放送されました。
~案内文章
大阪城で恒例の菊の花の展覧会が行われているころ。講談師の旭堂南左衛門さんが、大阪城内のさまざまな遺跡を訪ねて、400年の歴史にふれる旅の様子をお伝えします。当時をしのぶ建物や、堀に住みついた魚の調査など、さまざまな視点から大阪城を楽しみます。
ということで、20年以上も前の大阪城のレポート番組をみました。
レポーターは旭堂南左衛門さん。白いスエットにインナーのフード部分だけを出した当時らしいスタイル。
またアラレちゃん眼鏡で、髪を短く刈り上げていますのでまるで別人のようです。
でも声は南左衛門さんに間違いないww。
でも声は南左衛門さんに間違いないww。
なんとなーく早足で公園内をスタスタっと歩かれる南左衛門さん、緊張されてるみたいでした^^
放映中には難波戦記を演じられるシーンがあったりしてすっごい面白かったです。
旭堂南左衛門さんはS51のご入門でS62/10に真打となり南左衛門となられていますので
ちょうど南左衛門さんになられて1年後の番組となります。
2011/10/09
2011 10/2 四天王寺秋季大学 2日目

定刻より講義開始。
秋の涼しさがかんじられる亀の池です.
10月2日 第一講目 13:00~14:20青蓮院 門跡 御門主
東伏見 慈晃(ひがしふしみ じこう)猊下 青不動のこころ
10月2日 第ニ講目
14:40~16:00龍谷大学文学部教授・龍谷ミュージアム館長
宮治 昭(みやじ あきら)先生
秋の涼しさがかんじられる亀の池です.
10月2日 第一講目 13:00~14:20青蓮院 門跡 御門主
東伏見 慈晃(ひがしふしみ じこう)猊下 青不動のこころ
仏教のあり方、天台宗、青蓮院についてのお話。
H5(50才)で得度され、元々は銀行マン。遅い出家
H16 門跡を務める。父の高齢化、門後寺院の継承。家は宮家・・。
法華経、伝教太子最澄⇒天台宗
四天王寺は戦前は天台宗であり、青蓮院は四天王寺の別当で権威があった。
また最澄が比叡山開山の際の房の役割をした。
天台宗~四種相承
法華円教~縁、空
真言密教~空海、印を結ぶ
達磨禅法~座禅、只管
大乗菩薩戒~戒、してはいけないこと
現代は何をしても自由な世の中。いまこそ戒が必要。
天台密教と青不動明王~絹に書かれており国宝指定。美術価値が高い信仰の対象。
密教~心に不動明王、大日如来を抱き、煩悩を沈め、また焼き尽くす、剣で断ち切ってしまう。
煩悩~貪(むさぼり)・瞋(いかり)・癡(おろか)
貪~すこしでも楽をしたい~原発事故、リーマンショック
癡~夫婦、子供の事をわかっていない、身近にいても知らない、
H5(50才)で得度され、元々は銀行マン。遅い出家
H16 門跡を務める。父の高齢化、門後寺院の継承。家は宮家・・。
法華経、伝教太子最澄⇒天台宗
四天王寺は戦前は天台宗であり、青蓮院は四天王寺の別当で権威があった。
また最澄が比叡山開山の際の房の役割をした。
天台宗~四種相承
法華円教~縁、空
真言密教~空海、印を結ぶ
達磨禅法~座禅、只管
大乗菩薩戒~戒、してはいけないこと
現代は何をしても自由な世の中。いまこそ戒が必要。
天台密教と青不動明王~絹に書かれており国宝指定。美術価値が高い信仰の対象。
密教~心に不動明王、大日如来を抱き、煩悩を沈め、また焼き尽くす、剣で断ち切ってしまう。
煩悩~貪(むさぼり)・瞋(いかり)・癡(おろか)
貪~すこしでも楽をしたい~原発事故、リーマンショック
癡~夫婦、子供の事をわかっていない、身近にいても知らない、
思い通りにならないことに対する苦しみ
情報化社会~疎外感、孤独を感じる苦しみ
農村、漁村~若者が居ない地域
自然災害~思い通りにならない・・・・・・・絶望感
繰り返し願うことで成就する~密教
東日本大震災では皆様の立場に立って仏教を話すこと。
心の内では家や家族、会社などを失った状況で、神も仏も信じられない気持ち。
仏教では、そんな絶望感や不運と戦わず、現実を受け止め、こだわらないこと。
被災していない人は慈悲の心をもち、相手のために尽くすこと。
政教一致~政治に道徳の考えを加えなければならない。
トレンミラーズ(書籍)アメリカの鏡 日本 (カドカワ)
東洋史の研究、マッカーサーのスタッフで、日本の労基法の基礎を策定した人。
なぜ、日本は戦争に負けたのか?⇒ペリーの黒船による不平等条約が原因であり、生麦事件や長州事件がすべての始まりであるという説。
10月2日 第ニ講目
14:40~16:00龍谷大学文学部教授・龍谷ミュージアム館長
宮治 昭(みやじ あきら)先生
シルクロードの仏教美術 失われたバーミヤーンの大仏と壁画
**************************************************
アフガニスタンにあるバーミヤンの遺跡について
1969年に始めて訪問。そのスケールの大きさに驚愕。
74年3回にわけて調査
79年5回にわけて調査
この地は古代遺跡の宝庫で文明の十字路と呼ばれている。
(他民族、多言語、多宗教・・)
ギリシャ文化(バクトリア文化)
1920~フランス考古学派遣団の参入、以降各国が調査する。
アイ・ハムヌ(ギリシア・バクトリア王国遺跡)
ティリヤ・テペ、スルフ・コタル、ベグラーム、カーピシー仏教遺跡、バーミヤン仏教遺跡等
●バーミヤン仏教遺跡
標高2500m の地帯に二大仏(38m・55m)があると同時に周辺には700」以上の石窟が存在。
1979年 ソ連の侵攻
米ソ対立の中で中立を保っていたが代理戦争に巻き込まれてしまう。
2001年3月 タリ版によるバーミヤン大佛の破壊活動
2002年 ユネスコによる復興計画(日本、イタリア、ドイツなど)
大仏、石窟制作の記録は無い。
AD629 玄奘三蔵が訪問し、大仏の事が書かれている。
AD727 寺・僧が多く存在した。
年代論~壁画の漆喰の中のスサの炭素調査により6~8世紀と判明。
この後、貴重なスライドを拝見させていただきました。
切り取られた2対の大仏様の痛々しい顔と、その仏様が瓦礫と化し崩れ落ちている写真。
頭上に書かれている壁画とその元の図案や意味など。
**************************************************
二日間の四天王寺秋季大学は閉幕となりました。
なんとも重厚な五智光院に入る事ができ、その空間でのお勉強はとても貴重な体験です。
なんとも重厚な五智光院に入る事ができ、その空間でのお勉強はとても貴重な体験です。
また来年もぜひ参加させていただければと、会場を後にしました。
2011 10/1 四天王寺秋季大学 1日目

今年も四天王寺秋季大学に参加する事ができました。
体調は思わしく有りませんが、ほんとうにありがたいことです。
全員で般若心経を唱和して開講となりました。
10月1日 第一講目
13:00~14:20総本山四天王寺 管長
奥田 聖應(おくだ しょうおう)猊下
平和と仏教
・釈尊と太子に対し他から仕掛けられた戦いの例
釈迦族は戦争においても不殺生の掟を守り自ら滅亡の道を選択。
我身の為に万民を煩わせない事。
戦いに勝てば勇者ではなく、身を捨てて国に安定を斎する事が本当の勇者。
勝鬘経では、正しい教えを身につけるには、身と命と財を捨てよ。
・院生、南北朝時代の僧の生活
延暦寺、興福寺の強要的な手法は大衆(だいしゅう:仏教を学ぶ僧侶)がおこなった。
仏教の隆盛とともに質が低下、貴族への大圧力となってしまった。
比叡山 円恵の例~山の衰退を嘆き訴訟を起こすが1298年 座主(尊教)との対立が激化する。
高野山合戦の例~紀ノ川流域の荘園が戦場となり1294年に幕府が介入。所領が没収となる。
・太平洋戦争時
・現在
1937-国民教化運動
1939-宗教団体法~主務大臣の認可が必要
キリスト経一派、灯台社130人の検挙※明石順三氏等
1940-大政翼賛会
救世軍のスパイ容疑⇒救世団と改称
1941-教徒2000人の投獄、200余りの教会を閉鎖
偶像破壊を行ったイスラム教、植民地拡大のキリスト教、パレスティナ扮装、カシミール・・・・等など宗教は戦争とかかわってる現実が多い。
その反面、様々な平和への取り組みも盛ん。
世界宗教者平和会議、宗教サミット、非戦平野、出版
日蓮宗 一殺多生⇒とんでもない思想
ファシズム社会下ではじっと耐えるしかない。
10月1日 第ニ講目
14:40~16:00奈良大学教授・日本学士院会員
東野 治之(とうの はるゆき)先生
14:40~16:00奈良大学教授・日本学士院会員
東野 治之(とうの はるゆき)先生
上宮聖徳法王帝説と木簡研究
太子の研究のよりどころである上宮聖徳法王~唯一の伝記。
法王帝説は信頼性が高い内容であるがすべて写本であるが故に内容の増減のあるばあいがある。
また、筆での写しのために本の形態をとっていない。
その歴史は法隆寺より流出した後、知恩院にある。
研究の最高峰は家永三郎【上宮聖徳法王帝説の研究】(1953 角川)であるが近年の木簡の研究により見直すべき点が出てきた。
◇木簡研究
S36(1961)平城京跡 40点
S36(1961)平城京跡 40点
平成元年(1989)長屋王邸 35,000点
現在は36万点余り~いちやく古代史研究の主役となる。
木簡研究の効果は他の分野への波及、文字使いや用語にとらわれてしまうと意味が異なってしまう。
一つの文字が色々な読み方をされ、初期は人名や地名の文字はむちゃくちゃ。
平安前期までは発音が主体(文字は何でもかまわなかった)
◇構成
A 系譜、親族
B 人となり 実績
C 古史料の引証
D 事跡
E 略歴
F 裏書
実はD/EはA/Bへの裏書が写しなおされて本文化したのではないかと考えられる。
◇長屋王家木簡の表記、律令用語の関連
「王」「女王」を区別しない
地名 川内⇒河内となる。
大刀自(おおとじ)⇒婦人の意味
◇裏書に対し裏書されている
8世紀⇒平安後期
太子~摂政をしていない。皇太子 王命 ミコトノミコ 天皇代行、補佐役でこれは朝廷での立場を
表している。
2011/10/07
2011 10/7 Lifetouch Note
今回の突然の入院はほんとに大変でした。
取引先さんにもちゃんと話していなかったことがあってお仕事は待ってくれません。
なにせ、手術の翌日にまだ色んな所からびよーんっとチューブが伸びている常態で、
お仕事の電話がかかってくるし、お仕事用のメールはすべて携帯へ転送していたのでもうなり続け。
…もぅひっちゃかめっちゃかでした(笑)
全身麻酔で気道確保のためにチューブを通していたようですがどうも
声がガラガラ声で電話に出て先方さんは、どうも私が風邪を引いているとおもわれたようで。。。
いやいや・・それどころちゃうねん。
下半身から3本、背中や手首や・・いそんなところからチューブが出てる状態やねんってww
で、いったん帰宅したものの、自宅ではカテーテルを通したまま、中腰でメールをチェックしたり…これが良くなかった。
やっぱ人間は腰がいのちですねぇ。。
ってことでちょっとした新兵器の導入です。
これがあればお布団の中ででもお仕事ができる(爆)
今回、はじめてのアンドロイドOSを購入!NECのLifeTouch Noteの登場です。
イメージとしてはおっきなスマホにフルキーボードが付いている感じかなぁ。
それでもノートパソコンよりずいぶん小さくて閉じた状態だと23.5cm×14cm程度で厚みは2.5cm。
7型ワイドなちっちゃいくせにKeyboardがついていて文書入力はバッチリ。
wifiでネットもつながり、なによりありがたいのがバッテリーは9時間近くもつらしい。
本体700グラムなので、非力な私でもかばんに入れて持ち運べます。
さっそく自宅、職場とそれからよく行くマクドでwifiを設定しました。
なかなか快適ですが、キーボードの配列に癖があるのとWINDOWSに慣れ親しんでいたからか
戸惑うこともしょっちゅう。慣れたら愛用のノートPCがいらなくなるかも。
2011/10/05
2011/09/30
2011 10/3 染模様恩愛御書 細川の血達磨
2011 10/3 「染模様恩愛御書」
にっぽんの芸能 芸能百花繚乱「染五郎 気迫のスタジオ歌舞伎」
放送日: 2011年9月30日(金) 22:00-22:45
旭堂南左衛門さんより放送があることを教えていただいてましたのでバッチリ録画!もちろん
ナマでも鑑賞いたしました^^
市川染五郎さんの二役で、もう胸ガキュンキュン!
市川猿弥威圧感のあるお姿と大立ち回り!
もちろん、旭堂南左衛門さんの、細川越中守役はかっこよかったー!
簡単なあらすじ♪
にっぽんの芸能 芸能百花繚乱「染五郎 気迫のスタジオ歌舞伎」
放送日: 2011年9月30日(金) 22:00-22:45
旭堂南左衛門さんより放送があることを教えていただいてましたのでバッチリ録画!もちろん
ナマでも鑑賞いたしました^^
市川染五郎さんの二役で、もう胸ガキュンキュン!
市川猿弥威圧感のあるお姿と大立ち回り!
もちろん、旭堂南左衛門さんの、細川越中守役はかっこよかったー!
簡単なあらすじ♪
ある日、大川友右衛門(染五郎さん)が美形の若衆の印南数馬(染五郎さん)に惚れてしまいます。
で、友右衛門は武士の位を捨て、細川邸に中間として奉公し、数馬に心を打ち明け友右衛門が数馬の寝室に忍びこんじゃいます。
で色々とお話をするうちに数馬から横山図書(猿弥さん)が父を殺した敵であることを聞かされ敵討ちのお手伝いをして無事にとげることになりました。
そんなある日、細川邸に火事が発生!宝蔵には家宝の家康公から賜ったご朱印が!
燃え盛る蔵へ飛び込んだ友右衛門はご朱印を見つけたが、もう回りは火の海。
ご朱印を守る為に彼が取った驚くべき行動は・・・・。
自らの命と引き換えに家宝を守った友右衛門さん。血潮のご朱印を抱き泣き咽ぶ数馬さんでした。
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