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2013/03/21

2013 3/21 西遊草

先日の一坂先生の歴史と人間講座で話されていました[西遊草]を購入!
届いてびっくり!初版本でした!
 
 
幕末の方がどう観光地をとらえていたか・・大阪の風景の変遷や戦国時代をどう見ていたか・・などなど・・興味がいっぱいです。
じっくりと腰をすえて、読んでみたいとおもいます。
 

2013/03/16

2013 3/16 歴史と人間 ~清河八郎~

清河 八郎は天保元年10月10日(1830年11月24日)生まれ。
天保元年といえば吉田松陰先生と同い年。
東北の庄内藩出身で幕末の志士の象徴的な人物。

私の知るところでは新撰組の母体となった浪士組をまとめ、京都へ送り込んだ中心人物という理解だけでした。

そんな幕末の志士のまったく違ったイメージのお話。
安政2年(1855年)に母を連れて西日本を旅しており、その母のために読み返すことを前提とした日記を書いている。実際、母は15歳の時に生んでいるのでこの旅行の時は母は40歳くらいか。。

元々清河八郎は出羽の国清川村の造り酒屋 斎藤元司の裕福な家に生まれている。
18歳で家出をして江戸へ。古学 東条一堂を師と仰ぎ国学を学んでいる。のち、昌平坂学問所へでも学んでいる。また剣術は北辰一刀流で有名な千葉周作に学ぶ。

この旅行記は1855年3月19日に出発し9月10日に帰国。【西遊草】に纏められている。

この日記は実に当時の大坂文化を感じることができ、また志士の代表的な清河八郎の考え方を推察することができる。

6月1日
唐物屋で唐紙を購入。
本願寺(津村別院)前の風呂敷播磨屋で100まいを購入。京都の商人を酷評。陶器も同じく京都を酷評。
四ツ橋のうなぎ屋を東京のうなぎ屋と比較し批評。上方風のウナギはよろしくないとのこと。

3日
難波 大津屋の茶屋へ。四天王寺、大阪城の天守閣、難波の米蔵を眺める。

5日
日本橋から三十石へ乗り京都へ向かう。上り舟のために船頭らの苦労をねぎらう。
途中の風景描写がとても優雅。
八幡、淀の城下へ入り船頭が2人追加。京都へ入ると祇園祭の鉾が見えてきた。

7日
祇園祭の初日。
豊臣秀吉のかけた三条大橋の擬宝珠の薀蓄。
本能寺の信長のお話。
関白秀次の経緯をもとに『天下をたなごころの中に握るほどの衆にすぐれた人物だから、かえって矛盾するような性格があるのだろう』

幕末の人物が、戦国時代をどう見ていたかを知ることができる。

知恩院さんの忘れ傘。
有馬へ向かい、温泉にまつわる歴史的な武将の噺が続く。
蓬莱峡の奇岩に感動をする。

24日
大坂に入る。目的は天神祭。
難波橋の夕涼みの描写。

25日
天神祭の当日。
あまりの混雑に、宿屋の火の見台で酒肴を楽しみながら見物した。

26日

難波橋付近の遊山船の情景。
花火。
大坂の大金持ちを皮肉る。米屋平兵衛兵、鴻池らがケチだから
大塩平八郎の話もでてくる

27日
生玉明神へ。
天保山、港の帆柱のにぎわい。
堺の町まで見えた。

28日
舟遊び。

29日
午前10時に地震!
舟で逃げるという常識を非難。地震の恐怖を外夷にたとえる。
俗人は天下の憂いに気が付かず、有識者は前兆が現れない前からわかっている。

<参考ページ>

大地震両川口津浪記石碑
http://sweet-mikan.blogspot.jp/2011/06/2011-617_3937.html


擁護璽
http://sweet-mikan.blogspot.jp/2011/03/2011-322.html



30日
堺住吉明神の祭。

この詳細な様子は東洋文庫、岩波文庫から『西遊草』が出ているので
さっそく買い求めた。
本の到着が楽しみ。

※生玉神社の風景や三十石は落語にもなってる。
大坂のイキイキした当時の様子を知る貴重な手がかりとしたい。

2013/03/12

2013 3/12 下駄かくし

昭和45年、大阪万博が開催され高度成長期へ。
南海平野線も現役で活躍、近鉄南大阪線はまだ高架工事が始まっておらず
家の前の道はアスファルトではなく砂利道で、其々の家の洗濯物は
電車沿いの柵に物干し場を作り干していた。

 各踏切りには踏み切り小屋があり電車が来るたびに手動で遮断機を下していたそんな時代。


阿倍野近鉄百貨店は庶民の百貨店でつっかけ姿で行くことができた。
また向かいのステーションデパートをつなぐ真新しい歩道橋には
傷痍軍人さんが、アコーディオンを鳴らしておられた姿も数年前までは見ることができました。


そんな中でどこからともなく子供たちの遊びの歌が聞こえてくる。

下駄隠ししゅうりんぼう
橋の下のねずみが、草履をくわえてちゅっちゅくちゅー
ちゅっちゅくまんじゅは誰が食(く)た
だーれも食(く)わへんわしが食(く)た
表の看板三味線屋 裏から回って三軒目

先日、そんな懐かしい風景の夢をみました。

2013/03/10

2013 3/10  新大阪イーグルボウル イーグル寄席

午後から降り出した雨にも関わらず大勢のお客様が来られていました。
ほんとにありがたいことです。

今日の前座さんは桂福丸さん。
数年前のお蕎麦屋さんで開催されていました寄席へ頻繁に通っていた以来で、すごく久しぶりです。

桂福丸 「天災」

マクラは師匠から受け継いだお名前の「福」の字。福丸さんがお弟子さんを取られた際のお名前はどうなるのか。。。まるで阪急電車京都線のようなお名前が!
ネタの天災では細かな箇所に至るまで色々と工夫が見られきっちりと会場を沸かしておられました。


旭堂 南左衛門 「大坂の豪商・淀屋と水戸黄門」

大阪を処払いとなった淀屋辰五郎。八幡にわずかな土地を幕府よりもらったものの200人以上いる使用人らへの退職金を渡すことができない。そこで東国の大名らの屋敷を巡り取り立てに行くもののけんもほろろ。。そんなときに水戸黄門と出会う。。。


笑福亭 仁嬌 「佐々木裁き」

松屋表町の桶屋職人の高田屋綱五郎の息子の四郎吉のイメージがピッタリ!
佐々木信濃守と四郎吉の掛け合いのシーンの描写とテンポがとてもよかった。
桂   枝女太 「猿後家」
マクラはご自身が胃カメラを飲まれた際の爆笑体験談。
さて、このネタはとても久しぶり。畳み込むような奈良の描写とつい禁句を言ってしまうシーンが印象的でした。
さて、久しぶりに私の蔵書で確認。。。

寛政元年江戸板「新作落噺室の梅」所蔵の「物忌」が原本とのこと。
「さる旦那殿、猿にそのままなれば家内、猿ということを遠慮しけり。或初春に至り、元日早朝に別家の番頭年始に来たり旦那殿の前へ出て、『まず未の年も首尾よくお越え遊ばされ、早や申の元日』といふや否や、旦那目をむき出し、『おれが前で猿と申すは慮外千万、向後出入り無用』と叱り給えば、番頭手に汗を握り、『左様仰せられましては私、木から落ちました』と言ひさして、旦那の顔を眺め『木から落ちました猫で御座います。』」

※上方落語の歴史 前田勇著S33限定1000部発刊NO583

2013/03/08

2013 3/8 春の味覚 

春の味覚といえばこれ!

いかなごの釘煮!

2013年は2月23日に漁が解禁となり一斉に市場に出回りましたが
ここまで粒ぞろいのは久しぶり。

極小でなんともいえない歯ごたえに、お醤油とショウガの風味が絶品ないかなごの釘煮をいただきました。
大好きな桜の小鉢に盛っていただきました^^


2013/03/03

2013 3/3 四天王寺わつか市

3月3日のお雛祭りの今日は四天王寺さんでのわつか市。
午前中は若干肌寒かったものの午後からは日差しもあって沢山のお客様がお見えになられました。

いろんなご縁のおかげで宇口農園さんをお手伝いさせていただいて半年近くが経過しましたがその間、ほんとに楽しく過ごさせていただいています。ありがたいことです。

今回の宇口農園では、ミカン好きの為のミカンと異名をとる「はるみ」と減農薬で完熟の「ネーブルオレンジ」、そして料理好きには堪らない橙酢(だいだいす)を販売させていただきました。

爽やかな酸味と濃厚な甘さのバランスが楽しめる「はるみ」も、これ以上甘くならないくらいの甘さの「ネーブルオレンジ」も大好評で、はるみの小玉、ネーブルオレンジが完売となりました!

次回はいよいよ「甘夏」のお目見えです。
左の写真のように元気に育っているそうです!
 
次回4月7日も四天王寺さんでお会いできるのを楽しみにしています。






このたび、宇口農園のホームページが出来上がりました!
通信販売でお買い求めいただけるおミカンの情報や三重県御浜町の
色んな風景がお楽しみ頂けます!
 
三重県御浜町の柑橘類専門農園 宇口農園 Citrus-fruits UKOU Plantation
 


2013/02/17

2013 2/17 第16回 三国・アシスト寄席

早いもので第16回。
アシスト寄席は、お勉強会+交流会的な意義のある落語会。限定30人でデザート付。

毎回いろいろと誤植のあるチラシやハガキ。まぁ間違いさがしと表現されたオーナーさん!
さすがです。すでにこの時点で会場で笑いが生まれていました^^


桂華紋 池田の牛ほめ
要所で色々とオリジナル要素を入れてこられる華紋さん。
よく練習されているなーって感じさせられました^^好印象な方です。

桂枝太女 平の影
初めて聞いたお話。
文字が読めない者が受け取った手紙の内容を読んでもらおうと来た噺。
まぁなんとよくできた内容で、繰り返しの面白さが感じられます。
Wikiのサゲでは無く、五代目文枝さんバージョンだとおもわれます。
江戸噺の<手紙無筆>


旭堂南左衛門 親孝行の出世人 沢村才八郎
初めての講談。
細川越中守の陪臣となった力持ちの才八郎の心温まる出世の話。

笑福亭仁嬌 手切れ丁稚
この噺も初めて!今日は初物ばかりですごく楽しかった。
お手掛けさんへの手紙を言付かった丁稚。このこしゃまくれたというか、機転が効く
丁稚を基軸にした噺。

江戸噺の<手切れ>
本題に入るまでの室内の描写や沿線別の住んでいた地域の描写が秀逸!また仁嬌さんの丁稚の雰囲気はホントに感心です。

2013/02/16

20130216  歴史と人間 ~幕末編~ 和宮

今日の朝日カルチャー 一坂太郎先生の講座は「和宮」。

父は仁孝天皇、母は橋本実久の娘の経子(つねこ).

1846年閏5/10(弘化3年)生れ。生まれる4か月前の1月には父の仁孝天皇は崩御され、すでに孝明天皇が即位されていました。
2/13に践祚(天皇の位についたこと)9/23に即位。
15人のお子様が居ましたが成人されたのは孝明天皇様・ともこ様・和宮様の3人。

生まれた年は大変な年で5/27には米ビットルが浦賀にきて開国を求めている。これを受けて朝廷は幕府に対して海防強化確認している。これがすなわち朝廷の政治へのさらなる関与となってゆく。

また、丙午・・・これは井原西鶴の八百屋お七が丙午の女性。

さて、桜田門外の変が起こり、当然報復の機運が彦根藩に高まる。これを押さえ込んだのが老中の安藤信正。藩主が突然亡くなったのだから、通例だと藩はお取り潰しだが、実際は数か月生存していた事を条件に断絶を救った。この安藤信正が将軍家茂の夫人に和宮をと考え出したらしい。
これは2ルートある。井伊直助と九条尚忠を取り持った長野主膳ルート。そしてもう一つは左大臣の近衛忠煕(ただひろ)と小浜藩の酒井忠義を取り持った加納繁三郎。

4/1に安藤信正は老中の連署の奉書を酒井⇒九条⇒天皇へ。
この理由としては、日本は一枚岩であり降嫁は日本の為であると説く。

孝明天皇は5/4にNG!⇒九条⇒酒井⇒幕府へ。

その理由は・・
和宮はすでに有栖川宮熾仁(たるひと)さんと婚約していること。腹違いの妹だから意思を強制できないこと。彼女は外国人が大嫌いであること。しかしNGといったが幕府には隔心があるわけれはないことを付記。

5/26には2回目の申し入れを行った。そのポイントは・・・

国内の人心を一致させること。
国内の防御を厳重にすること。
攘夷を実行するために必要なこと。

困った孝明天皇は岩倉具視に相談。しかし岩倉はすでに酒井に通じていたので積極的に勧めた。
そのポイントは・・

すでに幕府に政治は無理。
朝廷の権威を復活させる。
内政の参加し政治の実権を持つ。

ついに、条約の破棄を条件に和宮降嫁を許可。しかし、外国人を追い払わないと和宮は絶対に江戸へは行かないと告げる。


7/4 武備充実してから外国人を追い払います⇒具体性がないからNG!
7/29 鎖国を再び実施します。⇒貿易は一時的であり武備が充実したら鎖国を行います。それは7~8年から10年以内にします!

これでOKをもらった。

和宮さんからも条件が。

1.先帝の17回忌が済んでからにすること。
2.万事御所の風儀で行うこと。
3.御所の女官1名+下級女官3名を付ける事
4.用があるときは橋本家より来てもらうこと。
5.上臈(じょうろう)・年寄を京へ向かわせること。

すべてOKとした幕府はいきなり1を無視して年内に江戸に来てほしいと回答。

折り合いをつけて1861年(文久)の春に決定。10/18に勅許。12/25には納采に礼(結納)
ところが11/28にはプロシア・スイス・ベルギーの3国と新たに条約を締結したことを事後に知った天皇は当然激怒!!

どのように取り持ったのかは不明だが12/9にはすべては九条に任せる旨の通知があった。
翌年7/2には同年の9~10月に関東下東が決定。とうぜん、あと半年で先帝17回忌なので
待ってほしい旨の申し入れがあったが聞き入れられず。
10/3八坂神社で門出の儀式。
そして10/20には京都を出発した。(和宮⇒親子様となる)

江戸へは中山道を利用。その規模は・・2万人が25日をかけて移動。
800丁の籠+6畳2間+おトイレで家屋は京都風。

11/15に江戸に到着。
翌文久2年2/11に婚儀が行われた。そして有名な篤姫との面会。
もちろんこれを知った孝明天皇は幕府に抗議をしたが駄目だった。

和宮様、家茂様のお二人はお仲良しであったが2年の7/20には家茂さまが亡くなる。また12/25には孝明天皇も崩御される。そして慶喜さんになった新体制で3年の5月には兵庫の港が開港。。これで完全に降嫁の意味を失ってしまったことになる。

明治10年9/2に療養中の箱根で32歳で亡くなられた。

遺言通り増上寺の家茂のお墓の隣に葬られた。