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2013/07/13

2013 7/13 お食事会

もともとは懇意にしてくださっている旭堂南左衛門さんとランチをするという趣旨でしたが、ぜひともご紹介をさせていただきたい方がありまして、このチャンスを生かさねば!とご一緒していただきました。

先日、九度山の住民クラブ代表の阪井様より連絡があったINGEARのご代表の方で
熱くその思いをお聞かせいただき意気投合いたしました!

大阪はさまざまな歴史に培われてきた古の地。ところが現代の若者はまったく振り返ろうとせず単に新しいものを追いかけている有様。
行政も、古い物があるから新しいものがあるという理屈がわからずに、単に箱ものを積み重ね、予算ありきで小手先の対応を行っているように思える。

猛暑の中、西区のなにわ亭を舞台に3人であつ~く2時間近く語りあいました。

さて、この舞台となったなにわ亭。ぐるなびや食べログでもしっかりと宣伝されている、なんとなく昔懐かしい香りのする素敵な洋食屋さん。

http://tabelog.com/osaka/A2701/A270105/27011894/
http://www.e-shops.jp/local/nsh/photo/3813099115.html
http://www.osaka-nishiku.com/shop/shop_11/index.html
 

旭堂南左衛門さんのオススメのお店だけあって、その味は最高!
エビフライ+ステーキ・エビフライ+ハンバーグや自慢の一品をいくつかと
お昼間でしたが冷えたビールと泡盛をいただきました^^とってもおいしゅうございました(´∀`)

2013/07/06

2013 7/6 なわて落語会

開演は13時30分となっていますが、この数年間の混雑具合から、会場へは11時20分に到着。
すでに10人近くが並ばれていました。
この灼熱の灼熱の中に並ぶのは中々難儀なもので特に年配の方が多いのだから、事故が起こらないうちに早々に指定席にされるべきでしょう。
10分前に会場し、あっというまに客席700席は満席となりました。


桂そうば  手水まわし
3回目となるひろばさんの手水まわし。2008年10月の田辺寄席/2009年7月のめふ乃寄席、そして今回となります。ひょっとしたらTVの上方演芸ホールでもこのネタであったような記憶があります。しかしながら回数を重ねられるともうすっかりこなれた感がありいっぱい楽しませていただきました。

桂歌之助 片棒
2012年3月のおばやし亭で聞いた安定マクラ+安定ネタ、またそうばさん同様にテレビでも拝見した記憶があります。笑いところがはっきりしていてとっても楽しいネタです。次は違ったお噺を楽しんでみたいです。


桂ざこば 遊山船
マクラはいつもの孫ネタ。会場は大爆笑!危ういシーンもありましたがざこばさんのキャラで順に描いて行かれます。喜六と清八のキャラがざこばさんのキャラとかぶっている箇所があり目新しさがありました。


桂吉弥 質屋芝居
先日、違う演者さんでこのお話を楽しませていただいたところで、どうしても比較してしまいます。。
歌舞伎に知識の薄い方前提の話なので、下地のない方には面白さが伝わっているのか。
師直が塩治判官高定を鮒侍であるといびり倒し、つい短刀に手を掛けて切りつけてしまう。そんな主人の一大事のときに早野勘平はお軽と逢瀬中・・。そんなシーンの描き方もこのお話の楽しみ方でしょう。

桂南光 火焔太鼓
太鼓を買うのが大名ではなく鰻谷の住友さんということで、どうやって侍を出すのか・・・あぁなるほどっていう持って行き方で納得。残念だったのは最後のサゲまでいかずに途中で切ったこと。


今回の寄席の途中に何度も色んな方の携帯が鳴るハプニングが。
しかもうち一人は大阪のおばちゃんで、「もしもし・・・いま、寄席の最中やねn・・」って会話する人がいてびっくりです。

2013/07/04

2013 7/4 北御堂

先日、北御堂さんへ行ってきました。
北御堂さんは浄土真宗本願寺派本願寺津村別院で
ちなみに南御堂さんは浄土真宗大谷派 難波別院が正式な名称。

我が家の本家筋は本来は浄土宗ですが当家は訳あって曹洞宗です。
また、講談会でお世話になっている泰聖寺さんは浄土宗西山派。

 
現在、親鸞聖人750回御遠忌法要で工事をおこなっていましたので
すこしだけ迷路のような感じでした。本堂でお参りを済ませた後、下記のような
言葉の書かれている用紙を頂戴いたしました。

 
人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲くなり        武者小路実篤

 

花は誰かに見られることを意識しているから美しく咲くわけではない。
花は周りに惑わされる事無く咲くから美しい。
という感じでしょうか。

 誰しも二面性のある生き方をしているとおもいます。
あの人には・・・あの場所では・・会社では・・自宅では・・自分の部屋では・・・
社会生活上では必要なことかもしれませんが
できるだけ自分を見失うことなく、冷静に、沈着に過ごして行きたいものです。

 

2013/06/30

2013 6/30 第26回柳谷観音・泰聖寺講談会 ~日越国交樹立40周年記念事業~

大阪の夏の始まりをしらせる愛染祭が開催。愛染坂を下った箇所にある泰聖寺にもお参りをいただきたいものです。
 
さて、今日は珍しいベトナム講談ということで作家のさんもお越しくださいました。
日本ではまったく知名度のないベトナムの国民文学的作品の金雲翹のお話で
幸せに暮らしていた王族の家庭に不幸が舞い込みヒロインが辛い目に会いながらも苦難を乗り越えて成長してゆくというストーリーでした。
 
「序章・王翠翹、金重との別れ」 旭堂 南斗
「廓からの脱出と束其心の恋」 旭堂 南舟
「鬼か蛇か!恐怖、宦姐の悋気」 旭堂 南青
「希望と絶望…そして旅の果て」 旭堂 南左衛門
 
 
なかなか興味深いお話でしたがとっつきにくい箇所もちらほら。
なにか下地があればより理解できたのではとおもいました。
 

 

 

 

2013/06/23

2013 6/23 第38回りっくぷち寄席〜おもしろ落語カタログ〜

毎回参加のお値打ち寄席。

広々としたホールでゆったりとした雰囲気のとっても感じの良いホールです。
今回も早めに到着しましたので1Fの図書館で色々とお勉強させていただきました。

 
林家染吉 みかん屋
前座さんでこの噺だからどうしても駆け足気味になっちゃうのか。それでも
染吉さんの惚けたような話術で会場はとっても良い雰囲気に仕上がりました。

 
桂竹丸 ハンカチ
2011/1のめふ乃寄席で竹丸さんのハンカチをお聞きしておりました。
たしか二丁拳銃の小堀さんの作で、面白い中にもしっとりとした夫婦の愛があるお話。
大好きなネタです。
 

林家染雀 質屋芝居
マクラはスーパームーンのお話からうまく仮名手本忠臣蔵の下地の無い方にはキツイかもしれないと、前フリをちゃんとされた染雀さん。
芝居物の描写が秀逸で、ついつい歌舞伎の三段目を見ているような空気になったとたんに
質屋のお客さんを出してくる!その対比が楽しめました。
 

笑福亭福笑 葬儀屋さん
落語でお腹が痛くなるくらい笑うってことがめっきりなくなっていた私でしたが、
今日はまぢでお腹が痛くなりましたww
代書屋を思い出させるような、葬儀屋さんと3人兄弟の大爆笑の会話がツボで
その後繰り広げられる奇想天外な風景!やっぱ笑福亭福笑さんってすごいです!

2013/06/18

2013 6/18 シトラスカッターのススメ!

シトラスカッターを導入!
なんでもっと早く買わなかったのかなって思えるくらい超便利!







これで私の柑橘系ライフがいっそう充実まちがいなし!
なんせ一口大に切れるんだから、もう分厚い皮むき作業はまぢ不要です!

2013/06/16

2013 6/16 大阪市内薩摩藩邸跡

昨日投稿の田中河内介さんにまつわる大阪市内にあった薩摩藩邸の場所を調べてみました。

1枚目は1863年の地図。天誅組の変や8.18の政変、馬韓戦争のころ。

 
 


2枚目は昭和18年の地図。






今の大阪には古き良き地名が皆無です。
本当にさみしい限りです。

2013/06/15

2013 6/15 歴史と人間 幕末維新編 田中河内介

志士という言葉はたしかに一坂先生が言われるように、勝者の言葉であり敗者に志士という言葉は使われていない。歴史の舞台に登場した者は皆、熱い思いをもっていろんな志を持っていたのに、歴史が二分してしまい、勝った方にのみ志士という称号を与えたのでしょうか。

田中河内介さんのお話が書かれている書籍は少なく中々知られていることにない方だがその背景は驚くべきものがある。

明治維新には二つの流れがある。
一つは外様大名雄藩を中心とした動き、そしてもう一つは在野の人たちを中心とした動きで、
今回は在野に相当する。

1815年(文化12年)~1863年(文久3年)
但馬の国出石郡神美村香住(豊岡市香住)の小森家(医者)の家出身。
この但馬には古くから、天皇家の末裔が移り住んだという話があることから、家庭境域が行き届いているという言い伝えがある。

元々は小森正造(和歌山出身)が移り住み教信(もりのぶ)という農家の青年だが熱心なので養子として医者を継がせ2代目となる。その子供が信古と河内介とのこと。
河内介はとても勉強熱心で21歳(天保六年 1835年 )、で京都へ行きざまざま著名な儒教家に入門。そしてついに念願の私塾を開く。
非常に評判が高いことから尊攘派公卿の中山大納言忠能(ただやす) 卿に仕えることとなる。
その後、家臣の田中近江守綏長(あやなが)家に入り婿となり、田中姓となる。
中山大納言忠能(ただのり)には忠愛(ただなる) という長男(後の右中将)・次女の慶子(よしこ)(後の明治天皇の母) 、そして忠光(ただみつ)(天誅組で有名)という次男が居た。

河内介には長男の左馬介(磋磨介)が誕生。非常に賢くて9歳で詩を作り出すくらい。


嘉永五年(ペリー来日の1年前)忠能の次女の慶子が妊娠する。彼女は孝明天皇の側室である。
妊娠を知った河内介は安産祈願で大阪本町にある座磨神社へ祈願に行っている。
そして無事誕生!祐宮睦仁が誕生。
通例では女官が養育するが河内介は女性を全員排除し、男性ばかりの環境で河内介自らが5歳になるまで養育を行う。

河内介は毛利と薩摩は特別視をしている。
元々天皇家は200石程度の生活基盤であるが、毛利、薩摩は多額の献金をしている。

さて、ペリー来航の条約勅許のドタバタ騒ぎのときには中山忠能はまったく動いていない。日和見的な立場であったのか。国家の一大事である時勢の対応に対し不満をもった河内介は辞表をだして仕えることを辞めてしまう。(安政4年8月)
※わざと辞めた恰好としていろんな密命を与えていたという説あり。
そして九州旅行へでかけている。
目的は真木和泉に会うこと。ところがタイミング悪く会えなかった。その後、島津斉彬に会うことができて武力での進軍を提案している。
そう簡単に動くわけはない。

そこで忠愛(ただなる)を通じて青蓮院宮に働きかけて斉彬に動くように働きかけた。うまくいくように見えたがなんと斉彬が急死してしまう。
そこで、親交があった大分県岡藩の小河一敏、薩摩の是枝柳右衛門(誠忠組)へ働きかける。
誠忠組は和宮降嫁反対・春嶽・慶喜の復権を望んでいる過激グループ。

鎮西義動・・九州には沢山の同志がおり、みんなで立ち上がることを目的に河内介の説得が始まる。そのために勅許をを得るか、青蓮院宮より指示をいただいた形にするか、もしくは大原三位と同行し薩摩をけしかけるか・色々と検討したがいずれもNG。結局は忠愛(ただなる)の手紙をもち各藩を廻り決起を促すことに落ち着く。
そして出発するその直前で意外な客がやってくる。
それは薩摩藩士柴山愛次郎/橋口壮助。彼らは安藤信正が死んだという情報(坂下門外の変)と島津久光が1000人の兵隊を連れて上京するという話をした。
実際は安藤信正は死んでいないし、上京の目的は別にある。
そして討幕のチャンスは今しかない!と吹き込んで行く。

すぐに河内介は小河一敏、真木和泉へ決起を促す手紙を送る。

その後、京都の薩摩屋敷に各藩より有志が集合するがあまりに目立つために京都ではなく
大阪の薩摩屋敷(二十八薩摩屋敷)へ集合させる。そして京へ移動。そこへ久光らが到着・・・征伐せよとの指令により寺田屋事件が起こる。。。。。

河内介らは助かったが翌日捕縛。
大阪天保山より船に乗せられて薩摩へ送られる途中神戸の垂水沖で息子の左馬介とともに惨殺、その亡骸を海に投げ込まれてしまい、その後小豆島に流れ着く。。

辞世は・・・ながらえてかわらぬ月を見るよりも 死して払わん世々の浮雲

法要が行われたニュースがありました。
http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/locality/20110503000127



さて、その後、戊辰戦争が勃発。その真っ最中の1868年(慶応4年)3月26日に明治天皇の臨席で天保山沖で「軍艦叡覧(日本初の観艦式)」が行われている。その後、座磨神社へ参拝にいかれた明治天皇は宮司より、田中河内介の文章を目にする。。
側近に、『河内介』の所在を聞いたが誰も知るものがなかった。

それから数年後、明治天皇と内閣らが会食の最中に河内介の話が出た。
そこで、誰も話さない中で、当時堺県知事の小河一敏が、真相を話してしまうと同席していた
大久保らの顔が青ざめた。。そりゃそうだ。。
自分を5才まで養育してくれた河内介を薩摩藩がひそかに殺害しているのだから。
その後小河は閑職を転々とさせられたらしい。