元治元年(1864年)7/19に起こった禁門の変の結果、7/24には、長州追討令が発せられる。
そりゃ、大砲を御所に向けたらあかんわな。。孝明天皇は激怒。
わなわな怒りに震えながら「長州を討て!」といわれたのでしょうか。
江戸にある上屋敷(日比谷公園付近)下屋敷(六本木ミッドタウン)にあった長州屋敷は7/26に幕府に抑留され、その後2年間で50人以上が亡くなったそう。京都河原町のホテルオークラ付近の屋敷は禁門の変のために焼け野原に乗じて脱出。大阪のYMCA辺りにあった藩邸は全員無事長州へ脱出成功したそう。
8/1には西国34藩に長州征伐が命じられ、8/7には徳川慶勝が征長軍の総督となり、そしてついには8/22には長州は朝敵の烙印を押される。
まさかの朝敵。足利尊氏辺りの時代に遡らないと朝敵なんて言葉はでてこない。ましては平穏無事な江戸時代ではだれもが思わなかったでしょう。このために毛利のお殿様父子は改名することになりました。
毛利慶親(たかちか)は敬親に。そして毛利定広は(さだひろ)は広封(ひろふう)に。もちろん、官位は剥奪されたのは言うまでも無い。
なんとか解決策をと喧々諤々。長州の中では「正義派」VS「俗論派」に分かれたために互いが互いの命を狙う内紛に突入。有能な人材を次々と失ってゆく。
さて高杉晋作さん。このままでは俗論派に殺られてしまうと萩を脱出し、山口にいるすでに瀕死の重傷をおった井上聞多さんを見舞う。井上聞多さんは9/25に俗論派に襲われ57針を縫って瀕死の重傷。この針はちなみに畳針。軍医として遊撃軍に参加していた適塾出身の所郁太郎さんのおかげで一命をとりとめたものの、この半年後に所さんは腸チフスで亡くなってしまう。歴史の皮肉な点でしょう。
さて晋作さんは山口から奇兵隊が駐屯していた徳地へ移動。蜂起を促したが聞き入れてもらえず肩をおとして下関へ移動。
「ともしびの かげ細くみる 今宵かな」と寂しい句を提灯に書いていたそう。
下関では白石正一郎宅で中村円太と出会う。ここで彼は「佐賀や福岡の殿様は長州に肩入れをするらしい」との情報を得るがこれはある意味で正解。朝廷からの情報を幕府が一極集中すればまた力が強まってしまうので、いわゆる共和性を望んでいたそう。
こんな意見が出るということはすでに封建制度は終わっていたのかもしれないですね。
さて萩では11/11~12にはついに惨劇がおこってしまう。
俗論派が禁門の変の責任を取らせるために福原越後さん・益田右衛門介さん・国司信濃守に切腹させてしまう。ところがそれぞれに告知しな内容が<不義不忠>。殿様に逆らったわけでも忠孝の儀を裏切ったわけでもなくもちろん納得できない。同時に野山獄に入れられていた4人も処刑されて征長軍に届けられる。
もともと征長軍の要求は1.藩主父子の寺院への蟄居2.五卿を九州へ移動させる3.山口の城をつぶす。という要求であった。
奇兵隊の赤根武人の尽力で俗論派との話し合いにより<互いの要人を処刑しない旨>の話し合いがついていたものの高杉晋作さんが伊藤博文を含み12/15に決起し下関会所を襲撃てしまう。これが引き金となって萩では一斉に処刑が行われてしまうがもう遅い。
この時点で萩(俗論派)伊佐(奇兵隊)下関(晋作)という三つ巴。ややこしいことに萩では吉田松陰さんの兄が中立派を唱え、互いがにらみ合う。
下関から晋作さんが伊佐にいた山県有朋と会談、この勢いで萩を攻める案の晋作。この案に反対する有朋。幹部の多数決により有朋の案が採決。手数決です、なんと多数決。
この時点でも武士出身の晋作の意見が通らなかったといことは時代はフリーダムに近づいていた証なのかもしれません。
こんな内乱の際に幕府軍は。
参謀として参加していた西郷どん曰く「長州の事は長州人にまかせる」。
この事件をきっかけとして長州は「武備恭順」の姿勢が定着したそう。表向きは恭順なわけで爪を隠す姿勢のきっかけとなったのでしょう。でもまだまだ長州にはいろんな災難が降りかかってきます。
今回のお話の一部は一阪先生著の「わが夫 坂本龍馬」にも書かれていました。
さてこの講座はまだまだ続き下記のスケジュールが決まりました。
4/17 長州を潰せ!
5/15 突然の天皇崩御
6/19 慶喜と兵庫開港