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yahoo2

2024/11/17

勧請縄

 滋賀県野洲市にある「行事神社」で見られる勧請縄。

神の領域を思わせる静かな佇まいを感じさせる領域。

見事というほか‥言葉が見つからない。

https://www.shiga-bunkazai.jp/shigabun-shinbun/best-place-in-shiga/414/






2024/11/11

孫誕生!

 2024年11月11日(月)。

いつになく早起き。滋賀県と大阪の離れた地ゆえにできる事は特にないからこそ

心がもやもやし高ぶる。やきもきする気持ち。せめて、母の眠る一心寺さんへと

参拝に行くことにしました。


ひっそりと静まったお堂に眠る、母と祖父母に

「母子ともに健康で健やかに退院できますように。健康なあかちゃんが生まれますように」

じっと手を合わせてきました。

私の出勤時間とほぼ同じ9時過ぎ。娘より「病院なう」の連絡が入りました。

仕事が手につきません。本当に心から、娘とあかちゃんの無事を祈ることしかできません。

「どうぞ、無事に手術が終わりますように」・・・

13時頃より手術です。

・・

・・

追記)

13時11分。2,878g・ 46.5cm 元気な男の子が誕生しました。


2024/09/08

第52回関西マーチングコンテスト予選の鑑賞

 2024年9月8日のAMに港区Asueアリーナ大阪(大阪中央体育館)で開催されましたマーチングコンテスをはじめて鑑賞してまいりました。

若かりし頃、吹奏楽やマーチングには色々とご縁があり、また少しだけ蘊蓄もあることから機会があればと常々感じていたところ今日ようやく鑑賞する機会を頂きました。

入場後に500円でプログラムを購入し座席で読み込むたびに、いろんなページで懐かしいお名前を見ることができそれだけですでに感涙状態、実は今朝、2021年5月に西宮神社に「関西吹奏楽功労者の碑」が建立されたという記事を読み、その功労者の中に何人ものお世話になった方々のお名前があり胸を熱くしたその思いと重なったため。

https://www.kobe-np.co.jp/news/hanshin/202105/0014303890.shtml

オープン参加の部が定刻に開始。合計4団体がオープン参加の部として演奏を繰り広げました。
工夫を凝らした演出で会場を凝らした文の里中学やとても華やかな登美丘中学校、なかでもマーチングスキルがずば抜けて素晴らしく、カレッジスタイルの模範となる演技のみつばち会吹奏楽団の演技で涙腺崩壊。脈々と受け継がれているドラムマーチのメリハリのある音質と、タテ・ヨコ・ナナメに寸分の狂いがない基本に裏付けられたマークタイム・・等。

さてコンテスト高等学校以上の部では、13団体が出場、いずれも工夫を凝らした8分間。
演技のメンバーが少なくても十分な演奏技術が保たれ、圧倒する音圧と視覚的に引き付ける動きをする団体があれば、動くことで不安定になるピッチやミストーン、動揺を隠せない動きが残念だった団体もありました。
それでも、すべての団体はこの猛暑の中で一生懸命に練習され積み上げてきた結果の発表の場!本当に大変だったとと思います。本当にお疲れ様でした。

マーチングコンテストはあくまでも「コンサートバンドがそのまま演奏しながらパレードをしよう」というコンセプトであり過度な演出や華美な服装を求めていないとのこと。その技術の尺度で定められている規定課題はとてもシンプル!

それだけに個人それぞれに基本的な練習に裏付けされた自信がどれだけあるのか・・自分以外の音や動きをどれだけ把握しているか・・統一された歩調や角度と速度、静と動がどれだけ共有できているか。私の現役時代にはネットもスマホもパソコンさえも普及していない時代だっただけに、当時の指導者を信じてついていく事や、技術をひたすら磨き上げていく事に尽きた時代。それだけに現在の演技者さんたちは余計に悩ましい思いをされているこのでしょう。

マーチングで沿道から拍手や歓声があがったり、演技に対して惜しみない拍手があるだけで今までの苦労は吹き飛ぶことでしょう。またメンバーで力を合わせて作り上げたことは一生涯の宝と自信になります。

いつまでも吹奏楽とマーチングを楽しんでくださいね。

2024/06/22

映像の世紀 バタフライエフェクト 日米安全保障条約

大好きなテレビ番組にNHK 映像の世紀バタフライエフェクトがあります。この番組を見るたびに自分自身の無知を恥じることをきっかけに番組から読み取れる内容を核として、いろんな情報を加筆していますので、番組の内容と異なる部分があります。
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1951年9月8日、第二次世界大戦の法的な終着点となったサンフランシスコ平和条約(Treaty of Peace with Japan)の調印数時間後、日米安全保障条約が締結されました。
 この条約の問題となったのはアメリカ軍が「極東における平和と安全を維持するため」ひきつづき日本に駐留し、日本が基地を提供することを定めたが、アメリカが他国の侵略から日本を防衛する義務は規定されておらず、日本の義務のみを定める片務的であったこと。
※アメリカの視点は、米ソ冷戦により在日米軍を創設することにあった。

サンフランシスコ平和条約の調印者は、吉田茂(首相:48代~51代)・池田勇人(蔵相)・苫米地義三(国民民主党最高委員長)・星島二郎(自由党常任総務)・徳川宗敬(参議院緑風会議員総会議長)・一万田尚登(日銀総裁)。しかし、日米安全保障条約は吉田茂(首相)のみで、これは責任は吉田茂が取るという意思表示の意味で自身のみが調印。

このタイミングで勃発した朝鮮戦争(1950年6月25日 – 1953年7月27日)により、国内の軍需産業が牽引し好景気化。国民の関心は低いといえた。

この不平等を改定交渉したのが岸信介首相(56代~57代)。1957年にアイゼンハウワー大統領との間に改定実務を進め1960年1月19日に調印(新安保)。5月20日に衆議院で強行採決。6月19日に自然成立。
5条 日本国の領域でいずれかが攻撃された場合に共同防衛する。 
6条 極東における国際の平和および安全に寄与するためにアメリカ軍による施設・区域(基地)の使用が許される
そして、日米地位協定によりメリカ軍(在日米軍)への基地提供および使用に関する細則が定められました。

この強行採決に対し、「60年安保闘争」が勃発。6月15日に全学連の樺美智子さんが圧迫死によりさらに激化。アイゼンハウワー大統領の来日は中止、岸内閣は条約成立後に辞任。

岸信介は、東条内閣の商工大臣でA級戦犯であったことや日本が戦争に巻き込まれるという恐れ、そして在日米軍に対する裁判権、そして「搾取、貧困、抑圧、服従の絶滅と人間の真の解放を意味する世界共産主義革命」の趣旨から共産主義同盟(ブント)が世論をリードし大規模な安保闘争が勃発。学生運動家として頭角を現しその人なつっこい性格の唐牛 健太郎(かろうじけんたろう)氏が全学連委員長。しだいに、反政府・反米闘争にすり替わっていく。この騒乱を収めるために・・・
WIKIに書かれている記述を見て驚きました。本当なの??下記参照。
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首相岸信介は、警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、自民党内のアイク歓迎実行委員会委員長の橋本登美三郎を使者に立て、暴力団関係者の会合に派遣した。松葉会の藤田卯一郎会長、錦政会の稲川角二会長、住吉会の磧上義光会長、「新宿マーケット」のリーダーで関東尾津組の尾津喜之助組長ら全員がデモ隊を抑えるために手を貸すことに合意した。
さらに右翼と暴力団で構成された全日本愛国者団体会議、戦時中の超国家主義者もいる日本郷友会、岸首相自身が1958年に組織し木村篤太郎が率いる新日本協議会、以上3つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請した。
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池田勇人内閣(58代~60代)成立後、安保闘争は終結。
以降、ベトナム戦争反戦運動にすり替わってゆく。
※社会主義の北ベトナムに対し、資本主義の南ベトナム、双方の代理戦争
新安保の自動延長を迎える1970年にこの条約破棄を目的とした70年安保闘争が勃発。相当な激化であった。⇒筆者は大阪万博の華やかな印象しか存在しないのが70年だと認識していました。

共産主義同盟(ブント)⇒様々な団体に分裂し連合赤軍派が1970年に「よど号ハイジャック事件」1972年にあさま山荘事件を起こす。

映像の世紀 バタフライエフェクトでは、最後に唐牛 健太郎氏の現在を映像として放映。
トド撃ちの船で雑務をこなす唐牛氏のインタビューが印象的でした。様々な経歴を経て1984年3月に47歳の生涯を閉じられました。

2024/06/21

四天王寺 舎利出

 今日21日は「お大師さんの日」。弘法大師の月ご命日ということで境内には所狭しと様々な露天が並んでいて大変な賑わいです。
 骨董品、古道具屋さんに着物等の和装や洋装等の様々な古着屋さん、雑貨、インテリア等をはじめ、お好み焼きなどの粉もんの軽食等など。それはびっくりするくりのお店の数。
目当てにご年配の方々だけではなく学生さんもちらほら。もちろんインバウンドの影響なのか、各国の言葉も飛び交っていて驚きます。

21日は実は無料で中心伽藍に入ることができます。
今日の大阪は30度超えで境内はすごい熱気ですが、不思議なことにこの中心伽藍のは、とても心地よい爽やかな風が通り抜けてゆきます。

南側から仁王門・五重塔・金堂・講堂がそびえたち、西側と東側にはそれぞれ西重門・東重門があります。

さて、「舎利出」は四天王寺さんのHPには下記のように記載されています。
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毎日、11時より中心伽藍内の金堂において舎利出しの法要を厳修しています。お舎利とは、お釈迦様のご遺骨のことを言い、このお舎利を頭に頂き、御仏のお導きを祈る厳かな法会です。同時に、ご回向・ご先祖供養が厳修され、お経木にお舎利をお受けいただけます
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昨日、はじめてこの「舎利出」を体験することができました。
金堂には救世観世音菩薩とその四方を守護する持国天(東方)、増長天(南方)、広目天(西方)、多聞天(北方)の四天王像が安置され、壁面には 中村岳陵画伯の「仏伝図」が、釈迦の誕生から入滅までをわかりやすくそして美しく彩っています。

そして薄暗くも蠟燭の揺らめく金堂には「舎利礼文」が響いています。

一心頂礼。万徳円満。釈迦如来。 

真身舎利。本地法身。法界塔婆。

我等礼敬。為我現身。入我我入。

仏加持故。我証菩提。以仏神力。

利益衆生。発菩提心。修菩薩行。

同入円寂。平等大智。今将頂礼。

曹洞宗の我が家では、毎年の法事で聞き覚えのあるお経。。

「舎利出」は毎日朝11時より行われていますがなかなか機会がなく、参拝することがありませんでしたが、その厳かで神秘的なその儀式には感動を覚えました。
「舎利職」が救世観世音菩薩の向かって左前にある舎利塔より「南無佛のお舎利」を取り出し、供養し、参詣者の頭上に頂く儀式となります。

太子は生まれたときに左の手を握りしめたままであったが1歳になられた2月15日に東の空に向かって合掌され南無佛と唱えられました。その時に左手より仏舎利がこぼれ落ちたという。その舎利が南無佛舎利で太子信仰の中心。

四天王寺には守屋祠の謎、大阪には、上ノ太子(叡福寺),中ノ太子(野中寺)、下ノ太子(大聖勝軍寺)等、まだまだ聖徳太子に纏わる場所が沢山あります。

もちろんこの堂内は聖域につき、静粛かつ撮影禁止エリアです。

帰りはMIOの蔵元豊祝で軽くいっぱい!昼飲みが止まりませんww

2024/06/01

映像の世紀 東京裁判とニュルンベルク裁判

第二次世界大戦における敗戦国である日本のA級戦争犯罪人を裁いた国際司法で正しくは、「The International Military Tribunal for the Far East」。先日NHKで放映された「映像の世紀バタフライエフェクト」を見て驚きました。1946年5月から1948年11月までの長期間に審判され、A級とされた28人が裁かれ、うち7人が絞首刑(巣鴨拘留所)。
映像を見ると、絞首刑を宣告された方と、終身刑を宣告されたかたのその表情や心情・・その方々の本当の心の中なんてわかるはずはないけれど、それでも私の心の中にわだかまりのようなものが生まれたように感じました。

先進国で死刑を廃止している国が多い中で絞首刑を宣言した現実・・核爆弾を落とし、多数の犠牲者を出したことを正論としたアメリカとオッペンハイマーの苦悩。
無期懲役を宣言ざれたA級先般は数年後には釈放された事実。終戦前のどさくさ紛れの8月8日に日本に侵攻したロシアの北方領土の実効支配。

1929年アメリカウォール街の株価大暴落に端を発した世界恐慌は世界中に様々な影響を及ぼし、これは1914年~1918年に行われた第一次世界大戦の賠償責任を中央同盟国の国に特に深刻な影響を与えました。1933年にドイツ国首相に任命されたアドルフ・ヒトラーは経済を立て直す様々な政策により数年で完全雇用を達成、領土拡大を目指し1939年9月にポーランド侵攻により第二次世界大戦の火蓋が切られたが連合国の参入以降、様々な戦禍により1945年4月30日に自殺。そして6月5日の連合国の「ベルリン宣言」で敗戦が決定つけられました。その後7月26日にポツダム宣言・・原爆投下・・ソビエトの侵攻・・8月15日に無条件降伏という流れ。

東京裁判の数か月前に「ニュルンベルク裁判」(1945年11月)が1年がかりで行われ、戦勝国が敗戦国を裁くという一方的な図式であった。しかししでに自殺しているヒトラーに罪を被せたという印象におもえ、真実はわかりません。

初代西ドイツ首相に任命されたコンラート・アデナウアーは「私たちはナチスのにおいを嗅ぎまわることをもう終わりにすべきなのです」
1966年には、戦時中はナチ党員として外務省で働いていたクルト・ゲオルク・キージンガーが第3代西ドイツ首相に任命、戦後の目覚ましい発展の中で戦争の記憶は薄れてゆく。4代西ドイツ首相となったヴィリー・ブラント氏は実はこのニュルンベルク裁判を記者席で取材していた。
「国民は自らの歴史を冷静に振り返る心構えが必要です、なぜなら過去を記憶するものだけが現在を見極め、未来を見通すことができるからです。歴史との対話はとくに若い世代にとって大切です、たとえ生まれる前の事であったとしても引き継いだ歴史から誰もが自由にはなれないのです。」

この言葉はとても重く、今の若い世代は幕末以降の現代史をどこまで知っているのかとても不安でなりません。
いまの日本を取り巻く災いと軍靴の音。中国の台湾進攻があったら。。中国と香港の関係・・朝鮮半島有事・・ウクライナとロシア・・シリア内戦(政府軍vs反体制派)・・アフガニスタン紛争(アメリカvsタリバン勢力)・・これだけではありません。

安全保障条約と自衛隊・・アメリカ大統領選の行方・・などなど、今の私に何ができるか?を考えると、こんな記事を書くことくらいなのかもしれません。


NHK映像記録

2024/05/18

上関訪問予定

 6月上旬に山口県上関室津へ行くことが決まりました。前回は2022年7月なので約2年ぶりです。
前回は、赤根武人氏の居住地、克己堂跡、の阿月周辺。そして今回は、室津地区西方寺さんの境内に眠る義勇隊士高橋利兵衛さんの墓所を訪れたいとおもっています。

この高橋利兵衛氏は山本誠一郎氏・水井精一氏とともに上関三士と呼ばれており、幕末山口県内で佐々木亀之助氏(明治20年頃に北海道へ移住。入植者初代総代人)により結成された義勇隊(周防上関の農民で編成。非常部隊)の隊員で、今回訪問予定の西方寺が義勇隊の本陣。

文久3(1863)年12月24日深夜、薩摩藩士ら68人が乗った蒸気船「長崎丸」が、小倉藩領の豊前国白野江村(現北九州市門司区)の部埼(へさき)沖で炎上、沈没(長崎丸炎上事件)。28人が焼死、溺死した。
https://www.sankei.com/article/20170728-GB57BNGQZRMNPB765QQURTUV5I/

この蒸気船は薩摩藩が幕府より借りていたもので当然ながらその責任問題が問われ、薩摩と長州の間柄が当然悪化。長州藩は西洋商船と勘違いして誤射したとの言い訳に終始。そんな中でこの約2か月後に起こったのが、加徳丸事件(薩摩藩船焼き討ち事件)。長州藩義勇隊士が薩摩船加徳丸を沈没させ、船主大谷仲之進を殺害した事件が起こる。そしてその数日後の元治元年2月26日大阪南御堂の門前に船主の大谷仲之進の首と、長州武士二人が切腹していた。この二人は山本誠一郎氏・水井精一氏。その後、同じ義勇隊の高橋利兵衛氏は西方寺境内で3月10日に自害した。3人はともに長州萩藩出身の義勇隊士。船主大谷仲之進を殺害した理由は「薩摩藩は攘夷を唱えるも異国との貿易を行っている」とのこと、積み荷もろとも炎上させた。

この幕引きは当時の長州藩要職の久坂玄随が描いたシナリオで、できるだけ派手に謝罪をさせることで朝敵となった長州藩への同情を募長州贔屓を増やすの目的。加徳丸事件の犯人が見つからなかったために有志を募り山本誠一郎氏・水井精一氏が名乗り出たといわれる。享年25歳と30歳の二人の心情は如何なるものだったのでしょう。また、高橋利兵衛氏においてはわずか24歳。。

1853年の黒船来航から1889年の明治憲法発布のこの30年余りは本当に「狂った時代」。でも、今の日本も狂っているとは言い切れないのも事実。当時の人々と同じ風景を眺めることくらいしかできないのは寂しいことですね。




2024/05/10

2024 5/10 久保惣記念美術館

 亡くなった母と何度か来た思い出が蘇る思い出の美術館です。
和泉市の静かな市街地にあるこの美術館で開催中の「源氏・若冲・応挙ー近世絵画と久保惣の名品ー」へ行ってまいりました。

JAF割引対象がありがたいだけでなく、キャッシュレスにも対応したようでいっそう便利になりました。

前回訪問した「東海道名所風景ー浮世絵に見る将軍様御上洛ー」の際にとても気になった宮本武蔵「枯木鳴鵙図」もありました!なんとまた、応挙の「老松鸚哥図」も初公開!伊藤若冲の「乗興舟」は、京都伏見から大阪八軒屋までの風景を見事!圧巻!





2024/04/28

「すあま」という謎の和スイーツ?

旅先では必ず地元のスーパーへ立ち寄ることにしています。
で、今回、イオン徳川明倫店で見つけた不思議なスイーツ。

「すあま」・・・。

初めて聞く名前。。
酢甘?? 「何じゃそれ・・?」ということで食べてみると、ういろうのような優しい甘みともちもち食感。

ということで、さっそく作ってみましたww

上新粉と同量のお砂糖にわずかな塩を入れてレンチン。
600wで2分。頑張って混ぜる!
再度レンチンし、4等分。んで食紅で赤バージョンと黄色バージョンを作成し
お団子をこしらえて麺棒で伸ばす!白バージョンを包みこんで冷蔵庫でしばし
冷やして出来上がり!

うん!美味!

大阪ではまったく知名度のないお菓子。「すあま」。

上新粉+お砂糖+少しのお塩+電子レンジ600w✕2分を2回で美味しくできましたよー。



2024/04/27

いろはにほへと

いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ  つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす

色は匂へど 散りぬるを
我が世、誰ぞ 常ならむ
有為の奥山  今日越えて
浅き夢見じ  酔ひもせず

美しい花もいずれは散り 誰一人として永遠に
生き続けられるものではない
無常の悟りの世界に至れば、儚い夢を見ること
なく、眼の前のことに振り回されることもない

(    徳川美術館 所蔵品 )

2024/04/26

一心寺さん:徳川仙千代公のお墓を参拝

 数日前に訪れた「徳川美術館」。この入口に掲げられていた徳川家系図。
その中にはいくつも聞いたことのあるお名前があります。
私の母や祖父母の眠る一心寺さんにはわずか六歳で亡くなられた家康公の八男「仙千代公」のお墓があります。







心を込めて参拝させていただきました。ただ、縁故の方がは長らく来られていない様子。。

浅香山のツツジと浅香山稲荷神社さん

 この先の見えない休暇中に、いままで行きたくてもなかなか行くことができなかった場を巡っています。
今日は、この時期ならではの場所「浅香山のツツジ」です。浄水場の通り抜けは来週からですが、その横になる緑道はすでに見頃でした。

JR阪和線「浅香」下車 徒歩10分程度。








さて、別のBLOGに掲載している内容を再掲載。
この浅香駅のすぐ南にある神社のお話です。

今の大和川の流れを確認してみてください。
柏原市の石川合流地点からまっすぐ大阪湾には流れこんでいないことがわかります。
なにがあったのでしょう。相次ぐ洪水の回避で北に流れていた大和川を西に変えた際にどうしても迂回する必要がでてきたようです。



もともとこの松原の地域には古代からの灌漑のために、ため池が多くありその中のひとつの依羅(よさみ)池を利用することで大和川の工事計画を立て着工しましたがこの浅香山のふもとの工事に入った際に不思議なことが相次いだそうです。



一日の予定通りの工事を終えても、翌日にはなぜか元通りに復旧。。。。


また道具がこわれたりする事故が相次ぐことからこの浅香山を迂回することで回避したそうです。
※工事を遂行した中甚兵衛氏の家に狐が武装して襲ってきたり、この浅香山に古くからの伝承である狐の話があります。

 奈良時代の左大臣藤原魚名の子孫、浅香氏の居城だった。浅香将監宗勝は南朝に属した。室町後期の文亀元年(1501)に落城、一族は閑居していたが、天正の豊臣秀吉の四国攻めの際に功があり、浅香善右衛門宗胤が旧城地一帯を与えられた。

 城跡は現、浅香山稲荷と伝えられる。



 昔、この辺り住之江の浦と連なる小さな湾で、そこに小島が出来、遠く推古天皇の御代(五九〇年代)聖徳太子御巡遊の折、白髪の老翁が太子に、昔より比処に埋る香木有り、
と伝えている。
太子が不思議に思い、掘らせたところ、果せるかな地中より幾千年も経たと思われる朽木が出で、これを焼かせたところ馥郁優なる香りたなびき、その時太子が「浅からぬ香り」と仰せられて、以後この地を”浅香の浦”と呼び、その香木で老翁の像を刻みここにまつられたのがこの神社の創始と言われています。

 後、ここに城を築いて、この神像を稲荷大神と仰ぎ祭られてきた。

この稲荷大神とは宇迦之御魂大神と言い。生活の大本を司り福徳盛運の守護神として伊勢外宮にます豊受大神と異名同神と言われます。



 時移り世が代わって宝永年間(1704)、旧大和川の水害から流域を守るために大久保大隈守宰領として流れを変える工事の折、この地の狐塚の所に至り、どうしても工事が進まず、前日掘った所が翌日は又元に復し、人夫達は恐怖におののき手だしも出来ず、宰領奉行も神威を畏み、計画を変えこの狐塚を避けることによって大工事を完成させるに至りました。

 後、宰領大隈守は神威を怖れこの狐塚の所に神殿を建立し、現在に至っております。 尚、現神殿は、昭和五十一年七月に改築完成されたものです。  
神前の一対の石灯籠は大久保大隈守の寄進にかかり、又自然石の大手洗鉢は当時の川口奉行等の寄進によるものです。




























2024/04/23

4/22〜4/23 名古屋の旅

 平日の旅行など年々ぶりになるでしょう。何処へ行っても観光地が空いているのはホントにありがたいものです。

今回は、長年の憧れであった「徳川美術館」「名古屋城」「熱田神宮」「大須観音」を22日〜23日の2日間で巡って参りました。

高速代を浮かせようと、行きは西名阪+名阪国道+東名阪で名古屋入り。途中で早昼や休憩をしても3時間半くらいなので相当快適なドライブになりました。
名古屋城はそのスケールは大阪城には及ばないものの、戦国武将らの戦火を被ることがないのか、平城で、また虎口も単純、石垣は野面、打込など箇所により様々な様式。
残念ながら天守閣は耐震工事中で入ることはできませんでしたが、復元された本丸御殿内の観光を堪能。写真撮影可ということで様々な襖絵写真を頂戴いたしました。

名古屋城での幕末関連は「青松葉事件」が有名。徳川御三家という立場と明治政府の間で気持ちが相当揺れ動いたのでしょう。

https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/

夕食は「世界のやまちゃん」と「ぼう家」で名古屋名物を堪能ww
美味しいお酒にビール、酎ハイとちゃんぽんの癖が抜けませんが、アパホテルの大浴場と露天風呂を楽しんだあと、ぐっすりと眠ることができました。
なかなか栄の夜はデンジャラスですね。

さて、翌日は「徳川美術館」朝10時の開門から4時間近くの滞在となり、見ごたえたっぷりの工芸、美術品や企画展の浮世絵を堪能いたしました。園内は、徳川美術館と蓬左文庫を使いそれぞれのテーマで整理された展示室で構成されており、当時の「大名の暮らし」の「表道具」「奥道具」や「刀剣」「茶具」だけでなく「源氏物語絵巻」「浮世絵」をじっくりとこの目に焼き付けてきました。

また、美術館併設の「徳川園」の素晴らしいお庭と牡丹の花に送られて2日間の名古屋の旅を終えました。

https://www.tokugawa-art-museum.jp/