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2025/07/30

倉敷浅尾騒動について まとめ

前回のエントリーの追記として内容を独立させました。
先般、岡山倉敷のアイビースクエアに宿泊する機会がありこの地に倉敷代官所があったことを知りました。ということはあの幕末に起った倉敷浅尾騒動の現場!


背景となった慶応2年は幕末史の中でも大きく歴史が動いた年の一つ。龍馬が襲われた寺田屋騒動や第二次長州征伐の最中に徳川14代将軍の家茂が亡くなり徳川慶喜が15代将軍となる。そんな年の4月に倉敷浅尾騒動が起こる。

前日に訪問していた山口県柳井市・上関町と所縁のある第二奇兵隊が、アイビースクエアの地にあった倉敷代官所を襲撃。その3日後には倉敷の北部にある浅尾藩陣屋を襲撃。長州藩は幕府との揉め事をなんとか

回避しなければならない時期、木戸孝允(桂小五郎)は事態を収束させるために、兵を逮捕、捕縛させる指令をだした。おそらくこの時の第二奇兵隊の一部が上関白浜で処刑されたのでは?と推察しています。という記事を書きましたが今回は少々補足してみます。

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さて、公武合体策実施後、公明天皇から「で・・攘夷はいつ実施するのか?」に対して14代将軍家茂は上洛。将軍の上洛は3代将軍家光以来229年ぶり。およそ3000人の供奉人数を連れていたらしい。文久3年2月13日江戸を出て、3月4日に二条城着。ちなみに帰路は6月13日に大阪から海路を使い、16日に江戸に到着。

で家茂は「文久3年5月10日(1863年6月25日)から攘夷を行います」と返答をする。これにより攘夷決行日の詔勅が出される。
これにより、長州藩は1863年5月に下関海峡を通過するアメリカ商船やフランスやオランダの軍艦を砲撃と同時に郷土防衛のための意思が育ち特に6月には高杉晋作による騎兵隊が著名で、各地に有志の軍が結成された。

今回の騒動のテーマとなる第二奇兵隊が1865年慶応元年に結成。
その生い立ちとして上関半島東側に位置する阿月の領主、毛利家の重鎮の浦靱負(うらゆきえ)が、家臣の子弟を教育する場所として学問所克己堂(こっきどう)を設立、第二奇兵隊は、この学問書で学んだ浦家の家臣の白井小助が中心となって結成した家臣団と、地元農民らが結集した農町民の2派があり結成当初は125名前後。熊毛郡の岩城山山麓を本拠とした際は300名余り。

1866年4月4日、隊内部での倒幕に対する考え方がまとまらず鬱憤が高まり、ついに倒幕穏健派の隊員(樽崎郷一郎)を殺害する事件が起こったことをきっかけに、幹部の立石孫一郎郎(第二銃隊副隊長兼応接係)とともに100名前後の大多数が脱走!本来はこの出来事を山口政府へ釈明に行くはずが首謀の立石孫一郎は岡山県倉敷代官所へ向かう。

この立石孫一郎は岡山県津山の庄屋生まれ、倉敷で学び、いわゆる強行攘夷派。倉敷代官所へ向かった理由は下津井屋事件(元治元年1864年12月18日)による。

当時、年寄役であった立石孫一郎(大橋敬之助)は、1859年の大凶作により津留(つどめ)が行われ藩外への物資流出が制限されたが、密かに地元の豪商下津井屋吉左衛門は他藩へ物資を流出させ大儲けをしたことが露見。立石らは1864年10月に倉敷代官所へ訴えた。しかし、取り調べの4日後に突然代官が別人となり、下津井屋吉左衛門はなぜか釈放。そして激しく立石孫一郎(大橋敬之助)を罵り罵倒した。

その約二か月後に黒装束の5人が下津井屋に押し入り、惨殺。当時犯人は不明であったがその後立石孫一郎であることが判明。立石はその後、大阪へ行き佐幕派の新選組襲撃を企むも失敗し、奇兵隊へ入隊。という経歴。彼の中では当然、下津井屋を無罪釈放した倉敷代官への恨みがあったと思われる。

4月10日早朝に代官所襲撃し、その後、観龍寺で休息後浅尾藩陣屋へ向かい、陽動作戦で襲撃成功。ちなみに浅尾藩は、1864年の禁門の変(蛤御門の変)で会津藩とともに、長州藩を攻撃していた藩。


観龍寺と山門に残る槍傷




アイビースクエア内にある倉敷代官所跡




応援もなく立石の目論んだ倒幕は失敗、この脱退に参加していた者たちは追われる身とり、立石らは山口県光市で追手により島田川の千歳橋で殺害され、千歳橋の畔に曝される。その後、地元民が祠を立てようやく昭和10年に碑建立。(碑文:『君ハ石城山奇兵隊長ニシテ当時我藩ヲシテ速ニ倒幕ノ義兵ヲ挙ケシメムカ為掟ニ背キ慶応二年四月四日隊兵九十余人トトモニ同隊ヲ脱走、倉敷ニ出テ幕府ノ陣営ヲ打払ヒ帰国シタルヲ同年四月二十六日千歳橋上二於テ殺害サル 行年三十六歳  昭和十年四月二十五日  島田村青年団』)

その後、この隊に参加していた者らは捕縛され断罪となった。私の故郷の上関の白浜でも7人が断罪となったと考えている。

※克己堂で学んだ著名人
学頭 秋良敦之助 赤祢武人(奇兵隊第三代総督)世良修蔵(奥州陳部使総督参謀)白井小助(第二奇兵隊軍監)秋良雄太郎(真武隊総督)芥川義天(第二奇兵隊書記)坂田直亮(第二奇兵隊大砲隊長)堀江芳介(陸軍少将・国会議員)坂田昌熾(海軍少佐・国会議員)※物理学者坂田昌一の祖父

※克己堂はなかなか行きにくい場所にあり探すのに苦労しました

2025/07/26

烏丸半島からの風景

 琵琶湖 烏丸半島からの風景。琵琶湖を挟み比良山系を望む。


なんと雄大かつ吸い込まれそうな風景か。。滋賀県立琵琶湖博物館の帰りに撮影。

2025/07/17

岡山倉敷訪問

岡山倉敷の宿泊は倉敷アイビースクエア。江戸時代は幕府天領地であり、その代官屋敷跡に倉敷紡績工場が設立。戦後は宿泊施設としてオープン。その感性豊かな調度品や建築デザインは見事!宿泊施設以外にもさまざまな施設が併設されています。
この場所は幕末に起った倉敷浅尾騒動が有名!特に慶応2年は幕末史の中でも大きく歴史が動いた年の一つ。
龍馬が襲われた寺田屋騒動や第二次長州征伐の最中に徳川14代将軍の家茂が無くなり徳川慶喜が15代将軍となる。そんな年の4月に倉敷浅尾騒動が起こる。
 前日に訪問していた山口県柳井市・上関町と所縁のある第二奇兵隊が、アイビースクエアの地にあった倉敷代官所を襲撃。その3日後には倉敷の北部にある浅尾藩陣屋を襲撃。長州藩は幕府との揉め事をなんとか回避しなければならない時期、木戸孝允(桂小五郎)は事態を収束させるために、兵を逮捕、捕縛させる指令をだした。
おそらくこの時の第二奇兵隊の一部が上関白浜で処刑されたのでは?と推察しています。

 



早朝の倉敷美観地区風景。
まるで江戸時代・・・。なまこ壁に焼杉板塀等。
タイムスリップした気がします。










2025/07/15

山口県上関町・柳井市へ!

 今年も山口県上関町へ行ってまいりました。その風光明媚な様子をおすそ分け!


 


柳井市ではもうすぐ行われる金魚ちょうちん祭りの準備で大忙し!





2025/07/14

Use AI as a Creative or Expert Partner

おめでとう!Use AI as a Creative or Expert Partnerをみごと修了しました。
GoogleとCourseraを代表して、あなたの正式なUse AI as a Creative or Expert Partnerの
証明書を発行したいと思います。

ということで、生成AIの超初歩だけどプロンプトの作成方法は
面白いですねー!


 

2025/07/12

梅田 昼飲みの会

 久しぶりの梅田。真夏日の今日は「昼飲みの会」。

今日も梅田は猛暑です!




大阪駅前第3ビルB1 徳田酒店⇒第2ビルB1 ひねり蛇口大衆酒泉テルマエ⇒大阪駅前第2ビル がってん の3件。

次回は来年1月(笑)

2025/07/10

大阪護国神社参拝

 久しぶりの参拝。
やはり夏になるとなぜか護国神社さんへ参拝しなきゃって気持ちになります。




現在の平和の礎となられた方が数多く慰霊されています。古くは幕末の早すぎた倒幕に尽力された天誅組や戊辰戦争、明治政府西南の役等の内戦、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦で亡くなられた方々の英霊をお祀りしています。

正面から入り右手には、騎兵第四連隊慰霊碑、歩兵第三十七連隊慰霊碑、第六十八師団慰霊碑、平和の礎 歩兵第八連隊之慰霊碑、信太山砲四会之碑 鎮魂、香8114部隊の碑 殉國の英霊このところに鎮まる。

左手には、海軍関係戦没者慰霊之碑、関西甲飛会 予科練貴様と俺の翼之碑、第三十四師団通信隊 鎮魂之碑、野砲兵第二十六連隊 つわもの之碑、歩兵第七十九連隊 戦友はここに眠る之碑、海軍第一期飛行専修予備生徒慰霊碑、騎捜会 鎮魂之碑、歩兵第十四連隊之慰霊碑、歩兵第百八連隊つわもの之霊ここに鎮まる、歩兵第二百十六連帯鎮魂碑。
昭和天皇並びに皇后のご参拝碑など。
それぞれの碑の前で頭を下げ、安らかにお眠りいただくよう祈りを込めて参りました。
※写真撮影は不敬にあたるかとおもい行いませんでした。





2022年7月8日奈良県西大寺駅前の演説中に凶弾に倒れ亡くなられ、拝殿右裏手に憲政殉難之碑が建立、先日式典が終わり、玉垣設置の工事中でした。正面には「板垣死すとも自由は死せず」。




世界各地の様々な地域で戦争が起こり、また起ころうとしています。
ウクライナとソ連、イランとイスラエル、インドと中国、北朝鮮と韓国、台湾と中国・・香港、イエメン、シリア内戦・・。

沖縄八重山諸島や北方領土以上に不穏な様子の日本国内にいる中国人やクルド人をはじめ様々な移民。

決して他人事では済まされません。その時・・私達は何をすべきか。私は何をすべきか。


拝殿内の右奥で「終戦80周年特別企画展示 わだつみ渡る 焔のたより 」が開催中。

様々な軍艦の絵と、乗船されていた方々からの封書やハガキを展示されていました。その苦しい胸の内を明かすこともできず家族に宛てた様々な文章が綴られています。







大阪護国神社は住之江公園駅下車すぐ。駐車場あり。


2025/07/04

豊受大神宮(外宮)・皇大神宮(内宮)

 35年くらいぶりの伊勢参りです。西名阪⇒名阪国道⇒東名阪⇒伊勢自動車道で伊勢西ICまでおよそ3時間。平日のおかげで外宮駐車場は余裕!

伊勢参りは外宮⇒内宮へ参拝しなきゃ・・ということでまずは外宮。豊受大神宮は衣食住の恵みをお与えくださる守護神。ちなみに20年に一度行われる第63回神宮式年遷宮は令和15年とのこと。


鳥居を潜り砂利道を進む音だけが・・・と言いたいところだけれど静寂を破る中国語・・ええかげんにしてくれ・・・。心静かに参拝できないのか。。。と自分の心を荒立てるのは私の精神修業が未熟なのか。



白装束に身を包まれたご婦人方が御敷地に沢山しゃがみこまれて何かを拾われています。「なにをなさっているのですか?」「はい。私たちはこの御敷地に生えている雑草や小さな枯葉や等を拾わさせていただいています。」と・・素晴らしいご奉仕の精神。「本当にありがとうございます」とお礼を申し上げ、この地の横にある正宮 豊受大神宮へ参拝させていただきました。

その後、「せんぐう館」で式年遷宮についてお勉強をさせていただきました。


遅めの昼食&デザートを済ませたのち、本宮へ移動。


皇室の御祖神の天照大神が御祭神の皇大神宮(内宮)です。
手入れの行き届いた参道を進み正宮へ。下記の横に正宮があります。


無事、伊勢参りを済ませたあとは「おかげ横丁」へ。





日本人のDNAに刷り込まれている自然崇拝をはじめ、あらゆるものに神が宿っているその美しい心。他人を思いやり、慈しむ心。悲しいことにどんどん忘れている。本当に恥ずかしい事です。いかに生きるか・・の問いに対して神道があり、いかに死ぬかの問いに対して仏教があるようにおもいます。決してそれだけではありませんが、あたりまえの事をあたりまえに行う事が欠けているように反省してばかり。