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2011/11/19

2011 11/19 教科書に書かれない幕末士 士族のたちの自由民権運動

さて、今回のテーマは士族の自由民権運動なのですが、とても難しい内容で、先生もなんとか理解させようと難儀されていたようです。私なりにまとめてみます。

自由民権運動は士族の自由民権運動の流れ(板垣らの立志社→愛国社)。庶民の自由民権運動の流れ(地租改正による決起)都市民権派(嚶鳴社、東京にいるインテリ)の流れがあり混同するとひっちゃかめっちゃかになってしまいます。

さて、今日のメインの板垣退助さん。土佐の上士で乾退助。革新的な考えを持つ、会津攻めの司令官であった時に官と民の格差(政治のあり方)を感じられたらしい。(※会津はとても大変な藩で、京都守護職になったために年貢の上昇があり庶民と武士の心がどんどん離れていった藩)
基本、軍人なわけで政治キャリアが無いのが引け目であったのか、征韓論を積極的に進めています。


明治六年の政変により明治新内閣が分裂。これは 征韓論が発端で当時の政府の首脳陣の西郷隆盛さん・板垣退助さん・後藤象二郎さん・江藤新平さん・副島種臣さん、そして多数の軍人、官僚が辞表を叩きつけることになった。

そして残ったのは大久保利通さん、山県有朋さん、伊藤博文さんらが実権を握った。 新しく参議となったのは左大臣には島津久光さん、参議兼海軍卿には・勝海舟さん、参議兼工部卿には伊藤博文さん、参議兼陸軍卿には山県有朋さん、参議兼外務卿には寺島宗則さん、参議兼開拓使長官には黒田清隆さん、参議兼左院議長には伊地知正治さん。

士族の自由門権運動は、簡単に言えば、征韓論に敗れた者たちが大久保独裁政権に対し政治的に対抗したものと捉えています。
この独裁政治になる経緯に大きく遺恨を残しているのは征韓論や出身藩、岩倉使節団に参加した者と残留組であったり、明治となり失業した武士らであったりします。

M6 11/5に品川の鮫洲にある土佐藩下屋敷にあった山口容堂の墓の前で海南義社を設立し、片岡建吉、林有造らが盟約を結ぶ。この時に文官も結束してできたのが幸福安全社をM7/1に銀座で設立。

その後、板垣退助さん、後藤象二郎さん、副島種臣さん、江藤新平さん、小室信夫さん(幕末に三条河原に足利の木造首をさらした張本人・ヨーロッパから議会制度を学んで帰国)、由利公正さん、岡本健三郎さん、古沢滋さんをさそって、【愛国公党】(M7 1/12)と発展。

そして連盟で民撰議院設立建白書を左院(立法議政機関)へ提出したのがM7 1/17.

ところがこの数日間の間に事件が起こる。

M7 1/14に岩倉具視が赤坂で襲われ、危機一髪。堀に飛び込んで助かった。遺留品から3日後に犯人が見つかる(1/17)これがなんと熊市熊吉(外務省 征韓論、板垣の仲間)で犯人の9人は7/9に斬首。
民撰議院設立建白書に対し、木戸は趣旨には賛成したが時期が早いと却下。岩倉襲撃事件のマイナス要素があり、もちろん当時の政府はなんとか握りつぶそうと必死だったに違いありません。
しかし板垣さんらは、当時のマスメディアを利用し、一般に広くしらしめました。そのときに利用したマスメディアが日新真事誌という新聞でした。

※国立国会図書館サイトに掲載あり。
http://www.ndl.go.jp/modern/img_l/S004/S004-001l.html

1/17 江藤新平はこの時点では東京にはいなくて、実は名前を貸しただけで実は佐賀県で不穏な動きがあると察して向かっていた。同時に林有三も向かっていた。
林は、鹿児島で西郷隆盛と会談している。
その後、長崎にいる江藤を訪ねたときには挙兵寸前。
2/13に江藤と別れたその夜にまた訪ねて、ビックリする話を聞く。

それは岩村精一郎が大久保に任命され佐賀県令として熊本鎮撫台としてやってくるとのこと。
この岩村は東北戦争で河井継之助の嘆願書をはねつけた人で、林の実弟。

張本人の大久保利通は佐賀の乱がおこることを見通しており、1/13には軍を動かす権利を得ており、2/5には鎮圧する手続きをおこなっていた。しかも江藤を佐賀へ送れば、導火線に火がつくことを見通していたよう。

そして3/1には佐賀城を政府軍に奪還。

江藤はすぐさま鹿児島へ飛び、西郷にHELPするが却下。3/25に高知へ飛び、林、片岡に武装蜂起を説くが断られてしまう。
元司法卿であった江藤新平は在職中に犯人の手配写真を全国に配布する仕組みを作っていたが、皮肉にもこの制度でつかまってしまい、中途半端な裁判により4/13にさらし首となってしまう。大久保は笑ったらしい。その後、愛国公党は江藤新平さんや島義勇さんを中心とした佐賀の乱により江藤新平さんが亡くなり消滅。

この時、板垣退助は御用滞在のために東京を離れることができなかったがようやく3/26に高知へ帰り、4/10に帯屋町の兵舎を借りて、片岡健吉さん、植木枝盛さん、林有造さんらと設立したのが【立志社】。同時に立志学舎を設立し、商社、法律などの勉学も教えた。

一方、大久保は内務省を設置し初代内務卿に就任。さまざまな政策を実施し台湾出兵もおこなった。

この背景には明治4年(1871年)に琉球の船が台湾に漂着した際に、乗組員69人のうち、3人が溺死、54人が台湾原住民に殺害されたことが背景にある。(宮古島島民遭難事件)日本は中国(清)へ抗議したものの「台湾原住民は化外の民(国家統治の及ばない者)」との回答を得た。 明治7年には米英の反対で中止を決定するものの西郷従道(隆盛さんの弟)の指揮で谷干城・赤松則良が3000人を率いて出兵し制圧した。(牡丹社事件・征台の役・台湾事件)
立志社も寸志兵を送ろうか?と申し出たが断られた。

その後、清国駐在英国公使ウェードの調停により清が台湾出兵を義挙と認めて、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款を締結し終結となる。

その後、全国組織である【愛国社】となりM8 2月には大阪で愛国社合議書を提出。太融寺さんには「国会期成同盟発祥之地」と刻まれた石碑あり。実際は士族40人が集まる。要は政府に入れてもらえない士族の集まりにすぎない。
M8 1月には大阪会議の結果、板垣は政府に懐柔され愛国社は解散・・・・。

明治の歴史は幕末以上に複雑怪奇。なかなか真実への手がかりが見えない、混沌とした時代ですねー。

2011/11/17

2011 11/16 太融寺

久しぶりに大好きなお地蔵様に会ってまいりました。
お地蔵様というか・・これは「田のかんさぁ」(田の神様)だとおもいます。

右手にはおしゃもじ。左手にはすりこ木を持っておられます。

なんともいえない素敵な表情をされているとおもいませんか?
ぜひクリックして拡大してご覧ください。





前回、訪れたときには前掛けをされていましたので手が隠れていましたが
今回はなぁんにも無しでした。




この「田のかんさぁ」の向かい側には、大河ドラマで有名になりましたが
淀君のお墓があります。

淀の方(永禄10・1567-元和元・1615)
豊臣秀吉の側室、浅井長政の長女。母は織田信長の妹お市の方。
浅井氏の滅後、秀吉に養われ天正17年淀城に入る。
淀殿、淀の方とよばれた。
淀君は後の俗称、秀頼を生み、秀吉没後は大阪城に拠り豊臣方の中心的人物となる。
大阪夏の陣に敗戦、秀頼と共に自刃した。法名を大虞院英岩と寺伝にいう。明治10年城東鴫野より当寺に改装された。

梅田に行かれたらぜひおまいりしてくださいね^^

2011/11/12

2011 11/12 第5回 大収穫祭in九度山

第5回 大収穫祭in九度山が開催されました。

今年の9月に開催されました旭堂南左衛門さんは九度山講談会へご出演されました関係で、来賓としてご招待いただきました。
で、私は会場までお送りさせていただくということで、久しぶりの早起きをして7時にご自宅へお迎え。

湾岸線~阪和道~阪南から岩出に抜けて九度山を目指しました。いつもは河内長野越えルートなのですが
どうもこのルートの方が早いようで、およそ2時間弱で到着しました。

例年にない快晴で暑いくらいの陽気になりました大収穫祭は、回を重ねるごとに大盛況!会場には朝早くからたくさんの方々が来られていて、中でもこの九度山名産の柿の詰め放題は特に人気です。また信州上田から直送のリンゴや様々な名産品が販売されていました。


10時から始まりました開会式。
沢山のご来賓とともに旭堂南左衛門さんも並んでおられます^^



【写真は、岡本町長さんのご挨拶】



【お昼は真田庵横の真田蕎麦♪】
新蕎麦の時期となりその風味を十分たのしませていただきました。
【素晴らしい秋の一日。真田庵にて。】





2011/11/11

2011 11/11 1946年(昭和21年12月21日)南海道地震津波浸水水位


1946年(昭和21年12月21日)南海道地震津波浸水水位

JR海南駅のロータリに残る碑を発見。











昭和21年12月21日におこった昭和南海地震(M8.0)の震源は、和歌山県の潮岬(しおのみさき)の沖合い50キロの海底でした。
全国で1330人が死亡、3万5000棟余りの家屋が全壊または半壊しました。

昭和21年12月21日午前4時19分、強震が起きた。岐阜測候所の発表によれば、紀伊半島西南方の北緯123度、東経135度の海上を震央とするマグニチュード8.1の地震であった。この地震は、奥羽地方の北部と北海道を除くほとんどの地域で有感観測され、関東大震災を上回る規模のものであった。とくに強震であったのは、和歌山・徳島・高知・三重・愛知・岐阜の各県である。被害は全体で、死傷者・行方不明6603人、全半壊家屋3万5105戸、焼失家屋2598戸であった。また、地震にともなう津波は、西は日向灘から東は東京湾にかけて発生した。この地震は、戦後の復興途上にあった国民の物心両面に大きな衝撃を与えるものであった。
【※参照 岐阜市】
http://www.pref.gifu.lg.jp/bosai-bohan/bosai/bosai-oyakudachi-joho/saigai-siryo/nankaido.html
天武13年(684)、正平16年(1361)、宝永4年(1707)、安政元年(1854)、昭和21年(1946)年と、
繰り返し発生している。

2011/11/07

2011 11/7 トマッシュ


カゴメから新発売!トマト味の炭酸飲料『トマッシュ』
透明感のあるロゼワインのような色合いを実現するために、特別なトマト原料を使用した新しい炭酸飲料です。レモンとジンジャーの爽やかな後味で、すっきり飲みやすく仕上げました。一日分のビタミンCを配合し、トマト由来のGABAも一本あたり12~42mg含み、気分転換したいときやくつろぎのひとときにおすすめです。
意外とおいしかった!












2011/11/05

2011/10/30

2011 10/30 第62回 めふ乃寄席  ピピアめふ12周年スペシャル 

久しぶりのめふ乃寄席。今日は12周年スペシャルということでゲストが2名こられます。
笑福亭鶴笑さんと桂枝女太さんです。
実はもともとは桂枝女太さんではなく桂きん枝さんでしたが早々に変更となっています。ちょうど9月の彦八まつりの際にきん枝さんに会いましたので、『楽しみにしています!』とお伝えしたのですが残念。それでも枝女太さんが来られるということで私的には、すっごくラッキー!さて、生憎の雨模様ですがお客様の入りはたいしたもの。座椅子席はいまいちだけど椅子席はほぼ満席で始まりました。

林家染左 道具屋根問

通常、寄席開始後の一番手は入門数年目の方や、年季明けの前座さんが出られるのが多いのですが、このめふ乃寄席は定評ある実力派でおもいっきり中堅のお三人がレギュラーなので前座さんはおられません。おのずとネタも前座さんがよくやられるネタを中堅ベテランの染左さんがされるのですから面白く無いはずはありません。
ネタの導入部のいきなりの会話からばっちりと心をつかみ、すでに爆笑の連続。いろんな方がされたこのネタですが間違いなく最高の演者さんでしょう。流れは「茶栗柿麩」「雀取り「鶯取り」から「がたろ釣り」へきっちりと笑いを取りながら演じられました。

林家竹丸  天災

子供さん方からの噺家への質問で、落語を行い易い会場とやりにくい会場のお話へ。
天災はわりとメジャーなお話。きっちりと無難に手堅くされた感がありました。


桂枝女太  ぴっかぴかの一年生

柔和な笑顔から繰り出される言葉のひとつひとつがよく吟味されていてお客様をぐいぐいとマクラの間に心を掴まれる枝女太さん。
三枝さんの創作の中でもずいぶん前のネタになりますが、これは名作ですねー。
中卒で必死に働き、ようやく町工場の社長になり、幸せな家族もできた。そこで息子と同じ高校の夜間部に入学し・・。そんな親子が繰り広げる笑いと涙のお話。


笑福亭鶴笑  パペット落語 三蔵法師

竹丸さんに間違えられた話と昨日のベガホールでのお話をハイテンションで話されるうちに会場はすっかり鶴笑さんの世界へ。
うまくお客さんをまじえながら話を進めてゆかれます。笑いは世界共通!見事なもので大爆笑の内に終えられました。これは必見の芸ですねー。

桂阿か枝 愛宕山

明石にある幼少のころから行き慣れた神社でのエピソード。ネタは愛宕山。このお話は春先のお話のお話なのでなぜチョイスされたのかわかりませんが、それでも小文枝さんを思い出させるこのお話は私の大好きなお話です。大阪のお茶屋をしくじった二人は基本的な性格はお調子者でいらんこと言い。
そんな性格を感じさせるポイントが要所に出てきます。


このめふ乃寄席は、ほんとにバランスの取れた良い寄席でお値打ちですね^^
次回は1月29日(日)お正月公演となります。
http://www.ac.auone-net.jp/~pipia/
これからもずっと続きますよーに^^

2011/10/29

2011 10/29 堺探訪

一坂先生より堺市博物館資料の特別展「自由都市の軌跡」の入場券を頂戴しましたので見てまいりました。
またせっかく堺に行くのですから効率的に回るために色々とプランを検討し、淀屋橋スタートで下記の順序で回りました。

■大阪西区 土佐稲荷神社
現在の大阪西区にある大きな神社。元々は土佐藩邸にありましたので、土佐藩はよっぽ広大な敷地であったのか。さて、堺事件が勃発した翌日、土佐藩邸へ帰らされた一行に届いた通知はフランス側よりは当事者を含む20人を切腹させることを含むを5つの条件。さて誰が腹を切るか・・・・この藩邸でくじ引きで決め、翌日、堺にある妙国寺へと1000人
近い大行列で向かったそうです。


昨年の龍馬伝で一躍有名になりました岩崎弥太郎さんの家があったのもこの場所です。

【土佐稲荷神社を含むエントリー】
http://sweet-mikan.blogspot.com/2011/07/2011715.html


[堺事件を含むエントリー]
http://sweet-mikan.blogspot.com/2010/09/2010-926.html
http://sweet-mikan.blogspot.com/2010/11/2010-1120.html
http://sweet-mikan.blogspot.com/2011/07/2011715.html

■堺 天誅組上陸の地 堺事件勃発の地

[天誅組を含むエントリー]
http://sweet-mikan.blogspot.com/2009/12/20091219.html

幕府の天領の奈良五條へ向かう一行は天保山から舟に乗りこの地に上陸。一路河内長野を目指して進みました。
孝明天皇の攘夷熱にうまく取り入り国事周旋を働いた長州藩。そのポストを利用し都合よく立ち回ればよかったものの、エスカレートした行動に孝明天皇もさすがに不安になったご様子。
そんな中に出た次の勅は「大和行幸の詔」「攘夷親征の群議」。これでは幕府のメンツが丸つぶれ。
と同時に一足早く制圧を試みた中山忠光卿(明治天皇の叔父さん)を筆頭とした天誅組。
孝明天皇が不安を漏らした相手が悪かった。
中川宮朝彦親王が京都守護職会津藩。聞き付けた薩摩藩とが結託し、目に余る長州藩と奸臣久家を御所からの閉めだし作戦が決行された。
そうとは知らない天誅組は、河内長野の観心寺にお祀りしてある楠公さん参詣をすでに終えて、五條の町で大量殺戮を起こしてしまっている。この五條の町は、幕府の直轄領であり天領、しかも交通の要所であるのに警備が手薄ということで目を付けられてしまい静かな町が一夜にして大変なことになりました。
ところが閉め出し作戦である八月十八日の政変により孤立した天誅組は、天皇が幕府に駆逐せよとの命令を受けた、津藩、紀州藩等に鷲家て壊滅させられました。
えらいこっちゃと長州藩。言い訳を書いた「奉勅始末」も見事に受け取り拒否。
こうなったらと、いっそ武力で京都へ乗り込むか?なんとか長州藩のイメージを良くしたいとおもった矢先に大阪南御堂前で不可解な事件が起こる。これも実は長州藩が世論を長州贔屓にするための仕業。
ところがせっかくのイメージアップをしたものの不幸にして池田屋事件がおこり怒りは頂点に達する。
御所凝華堂を目指し三方から進軍した長州は蛤御門で敗退。
まさにふんだりけったり。

■千利休邸宅跡
まさにラッキー!
普段は柵の外からしか見る事ができないはずが、今日はイベントで目の前まで!
じっくり拝見させていただけました。







■堺市博物館
日本ではおもいっきり戦国時代。
そんな中で東南アジア諸国と貿易を行っていた日本には様々な物資は輸入され、その起点としての堺の地はNHKの[黄金の日々]でも描かれたようにいろんな物が輸入されています。実際に町の様々なところから当時の中国、インドネシア、タイ、ビルマなどの陶磁器が発見されています。
それより驚くべきはヨーロッパやアフリカ、アジアの地形をほぼ忠実に書いている様々な地図の存在です。衛星写真などあるわけもなく、実際に目視で描いたとしか考えられません。
堺の発展の原点についてお勉強させていただきました。

同時に開催されていたのが[大和川付け替えに関する資料]
おもわず小躍りしてじっくーり拝見。当時の中甚兵衛さんのご苦労がしのばれます。

■妙国寺
今日の堺は観光ボランティアさんがいっぱい。
講談ネタの[門屋舟の由来]では、本能寺の変が起こった時に徳川家康はこの妙国寺でお茶を嗜んでいたそう。
何度目の妙国寺になるかわかりませんが、やっぱり堺の歴史上を語るには外せないSPOT。





森鴎外さんの小説は青空文庫より読んでいただけます。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2547.html




森鴎外さんは陸軍軍医であり、官僚。なのでどうしても日本人贔屓でその文章には誇張が感じられます。
実際の検証を行い様々な角度から調べ上げた大岡 昇平さんの堺港攘夷始末 (中公文庫):ではまったく違うイメージで書かれておりリアリティを感じます。

慶応4年(1868年)に発生した事件で様々な節目で慰霊祭が行われているよう。そのたびに碑が建立されている。ここで気になるのは
切腹した現場の妙国寺さんと埋葬された向井側になり宝珠院さんとの関係。
書物では、本来は妙国寺に埋葬するはずが皇室勅願寺に罪人を埋葬することが憚られたために向かい側の宝珠院さんへ埋葬したそうです。実際はどうだったのでしょう。

慶応4年、そしてすぐに明治元年となり人々は新しい時代を感じていたのでしょうか?

~森鴎外 堺事件より~

妙国寺で死んだ十一人のためには、土佐藩で宝珠院に十一基の石碑を建てた。
箕浦を頭に柳瀬までの碑が一列に並んでいる。宝珠院本堂の背後の縁下には、九つの大瓶が切石の上に伏せてある。
これはその中に入るべくして入らなかった九人の遺物である。
堺では十一基の石碑を「御残念様」と云い、九箇の瓶を「生運様」と云って参詣するものが迹を絶たない。

宝珠院が堺の観光地となることで当然ながら妙国寺側はハテナな気持ちが芽生えてくる。そこで記念イヤーには法要を盛大に行う事が必要だったのかもしれません。
境内には50年・70年・100年など節目におこなわれた法要の碑がありました。
と同時に宝珠院さん側には下記のような碑が・・。



道しるべの横に立つ石碑は
【殉難 戊辰 土佐十一烈士墓所 】(大正六年五月弔魂会建立)
と記されております。 事件より50年後です。









【史跡名勝天然記念物保存法に依り昭和13年8月文部大臣指定】
【史跡土佐十一烈士墓】と書かれています。
事件よりちょうど70年となります。