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2011/07/15

2011 7/15 土佐稲荷神社 


今朝のお仕事先は、西長堀方面!

「やったー!早めに行って土佐稲荷神社さんへ参拝してこよう」

幕末フェチな私の思考はこんなものです。




ということで、土佐稲荷神社へ参拝してきました。この神社は元々は土佐藩藩邸、その後三菱の創始者の岩崎弥太郎の家のあった場所でもあります。

なによりも森鴎外の書いた【堺事件】では、慶応4年の2/15(1868/3/8)に降って湧いたようなトラブルで、フランス側より、事件に関与していた中から20人が切腹を要求してきた。

---------引用--------森鴎外 堺事件

「これは御隠居様がお直に仰せ渡される筈であるが、御所労のため拙者が御名代として申し渡す。この度の堺事件に付、フランス人が朝廷へ逼り申すにより、下手人二十人差し出すよう仰せ付けられた。御隠居様に於いては甚だ御心痛あらせられる。いずれも穏に性命を差し上げるようとの仰せである」言い畢って、深尾は起って内に這入った。
 次に小南が藩主豊範の命を伝えた。
「この度差し出す二十人には、誰を取り誰を除いて好いか分からぬ。一同稲荷社に詣って神を拝し、籤引によって生死を定めるが好い。白籤に当ったものは差し除かれる。上裁を受ける籤に当ったものは死刑に処せられる。これから神前へ参れ」と云うのである。
 二十五人は御殿から下って稲荷社に往った。社壇の鈴の下に、小南が籤を持って坐る。右手には目附が一人控える。階前には下横目が二人名簿を持って立つ。社壇の前数十歩の所には、京都から来た砲兵隊と歩兵隊とが整列している。小南が指図すると、下横目が名簿を開いて、二十五人の姓名を一人ずつ読む。そこで一人ずつ出て籤を引いて、披いて見て、それを下横目に渡す。下横目が点検する。この時参詣に来合せたものは、初何事かと恠み、ようよう籤引の意味を知って、皆ひどく感動し、中には泣いているものもある。
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籤に外れたものは非常に残念がったそう。
翌朝、この土佐稲荷神社から、堺の妙国寺までの大行列が続いた。


---------引用--------森鴎外 堺事件
一同が藩邸の玄関から高足駄(たかあしだ)を踏み鳴らして出ると、細川、浅野両家で用意させた駕籠二十挺を舁き据えた。一礼してそれに乗り移る。行列係が行列を組み立てる。先手は両藩の下役人数人で、次に兵卒数人が続く。次は細川藩の留守居馬場彦右衛門、同藩の隊長山川亀太郎、浅野藩の重役渡辺競の三人である。陣笠小袴で馬に跨り、持鑓を竪てさせている。次に兵卒数人が行く。次に大砲二門を挽かせて行く。次が二十挺の駕籠である。駕籠一挺毎に、装剣の銃を持った六人の兵が附く。二十挺の前後は、同じく装剣の銃を持った兵が百二十人で囲んでいる。後押は銃を負った騎兵二騎である。次に両藩の高張提灯各十挺が行く。次に両藩士卒百数十人が行く。以上の行列の背後に少し距離を取って、土佐藩の重臣始め数百人が続く。長径凡(およ)そ五丁である。
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さてこの5丁とはどれくらいの長さなのか・・というとメートル条約加入後の1891年に、メートルを基準として1.2キロメートルを11町と定めたとのこと、ということは1町は約109.メートルとなる。なので5丁は545メートルの大行列。

【下記もあわせてお読み下さい】
http://sweet-mikan.blogspot.com/2010/09/2010-926.html
http://sweet-mikan.blogspot.com/2010/11/2010-1120.html

堺事件を取り上げた小説は「森鴎外」著が有名ですが、いささか誇張が多いよう。
書かれた時代が大正3年(1914)なわけで、対外的にも誇張する必要があったのかも。
大岡昌平氏の小説「堺港攘夷始末」は著者の没後の1989年に発表されており、当時の状況や背景、それぞれの裏づけをみっちりと調査されているようなのでまさに現場そのものを見ているような何とも言えない迫力を感じてしまいます。