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2014/05/18

2014 5/18 第六回会佛願寺講談会

第六回会佛願寺講談会
 
午前中は7月に開催されるなわて寄席のチケットを購入するために四条畷へ。
そのまま一路大和高田へ!おもっきり北→南の大移動となりました。
定刻より1時間ほど早く到着したもののお客様が次々とお越しになられ50人以上の大入り満員状態。
 
定刻となり「太平洋改メ旭堂南鷹改名披露口上」が始まりました。
南鷹さん記念すべき口上は南青さんの司会。南左衛門さんのご挨拶では
南鷹さんのお名前の由来は、いろいろと宇紆余曲折あったが鷹揚な気持ちで構えていただきたいとの事、
私もぜひ些細な事にこだわらずゆったり、のびのびと講談界の将来を担う講談師さんになって欲しいと願っております。
 
「怪談・江島屋騒動」 白夜亭 一林
いつもの落ち着かれた口調以上に今日はゆったりと噛みしめるように読まれた一林さん。
情景たっぷり・・・その所作、表情もお見事!
 
「安倍晴明伝」旭堂 南青
マクラからググっと観客をお話に引き込む南青さん。
爆笑からそのまま本題へ・・そしてマクラで振った話に戻ります。
 
「難波戦記・大助駿府の使者」旭堂 南鷹
はじめて南鷹さんの講談を聞かせていただきました。
古典は久しぶりであるとの事、きっとだいぶお稽古をされたのでしょう。
その苦労を感じさせることの無い見事なお話でした。
南鷹さんの描かれる家康・幸村・大助はそれぞれの表情や口調がそれぞれが違い
明確なおかげでスッとお話の世界に入って行けました。
 
「西行法師・鼓ケ滝」  旭堂 南左衛門
7月にフィヨルドツアーに行かれるそうで、その繋がりから、豪華客船飛鳥でのクルージングでの
南青さんとの思いで話をされました。
本題の鼓ケ滝のお話は何度か講談、落語にテレビ等でもおなじみなネタ。
それでも毎回新鮮に楽しませていただくことができます。

2014/05/17

2014 5/17 歴史と人間   アーネスト・サトウ

今回の大河ドラマの次の2015年は「花燃ゆ」で松陰先生の妹がヒロインだそう。
で、再来年の2016年は先日発表がありましたが三谷幸喜さん脚本の「真田丸」。
真田幸村が亡くなって401年の記念すべき年に・・・・はぁ?・・・?
401年?むちゃくちゃ違和感を感じているのは私だけでは無かったようです。
噂では震災の復興をテーマに2013年の「八重の桜」はまだ良かった。
そして2014年の姫路城のリフレッシュ公開と合わせた軍師官兵衛VS大阪の陣が勃発した真田幸村となるかの対決で
大阪方は【真田幸村を大河ドラマにする会】を発足していっぱい署名を集めてきたけれど
残念ながら軍師官兵衛に決定。。
そこで不思議な・・とっても不思議なことが起きました。
どこからか、松陰先生をテーマに大河ドラマを作りなさいってお声があったようです。
数回前の講義で、吉田松陰先生が一時的に書籍として取り上げらた時期があると言われていました。
強烈なまでの尊王思想で過激的であるが故に斬首となり罪人となったが、
ある時期から神とまでに奉られている松陰先生の言葉が修身の教科書に載ったそう。
そして数年後にも掲載されるらしいですが・・そのもてはやされた時期は?・・・さぁいつでしょう。。
中国やロシア、北朝鮮のキナ臭い動きを鑑みて集団的自衛権の行使容認で憲法解釈の変更を唱えた事になにか関係があるのかも?


アーネスト サトウはSir Ernest Satow で1843年ロンドン生まれ。
Satowの父はドイツ東部からの移民。佐藤ではない。。

18歳の時に兄が図書館でローレンスオリファント著のエルギン卿遣日使節録を読む。この本には日本は東洋のおとぎの国のように書かれていた。
また、ペリーの書いた書物も読んでいる。
運の良いことにUCL(大学)で中国と日本へ行く学生募集の広告を見て即応募!主席で合格している。

1861年8月に任命され、まず北京に数か月滞在。
今からみると変なのですが、日本語をマスターするためには中国語をマスターする必要があるとされていたらしい。これは当時の常識との事。。

1862年9月に日本へ。通商条約後なので当時の横浜の印象は「外交官の掃き溜め」とのこと。

1861年に品川にあったイギリス公使館が襲撃を受けて横浜へ逃げている。これをきっかけに当時の外交官のオールコックは本国へ帰国。そして代理として軍人の〔ニール〕が来日。東禅寺を公使館としたが1862年にまたもや襲撃されている。これは日本人警備員が外人を殺害している。

そしてサトウはこのニュースを北京で聞いている。日本の治安に不安を抱いたサトウは鉄砲を購入、これは明治2年まで常備していた。

1962年9月には領事館付日本語学生という肩書で来日。

当時、品川御殿山に領事館を幕府により新築建設中。
ここは上野に並ぶ桜の名所でもあり東京湾を見下ろせる軍事的な要所。
もちろん孝明天皇は建設に大反対。ニールに中止を申し入れたがもちろんNG。
※実はこの交渉の際に幕府は「朝廷と戦争になったらイギリスは幕府側についてくれるか?」という交渉もされていたそう。
そして3日後には放火事件が発生!犯人は不明とされてるが実は伊藤博文ら13人は犯人。もちろんニールは幕府が裏で糸を引いて焼かしたのではないか?と疑っていた。

流暢な日本語のサトウはアメリカ宣教師のブラウン氏・ヘボン氏に習っていた。
裏話でサトウは芝居を見に行ったそう。
当時は外国人料金で法外な値段でありしかも悪い席。
その不平等さを流暢に啖呵を切ったらしい。小屋主は、サトウがその良い席に座るのなら芝居をはじめない!と言ったもののついに根負けしたらしい。それくら日本語は流暢。。

8/21に生麦事件が勃発。これはサトウにとっては日本人の考え方をしるチャンスと捉えていた。そして薩英戦争が始まる。
ここで参考になるのは「一外交官の見た明治維新」この書籍は長い間出版禁止。おもいっきり孝明天皇の崩御されたことも書かかれている。。割愛された書籍をへて岩波より完全版が発行されている。

今日の講座では、この「一外交官の見た明治維新」を読みながら日本側の記述と対比して薩英戦争のその捉え方の違いを確認していきました。

この戦争を通して薩摩は英国に急接近。留学生派遣や軍艦購入へ進んで行くと同時に長州も門戸をひそかに開いているのが面白い。

2014/05/16

2014 5/16 「お家さん」

読売テレビで放映された「お家さん」を鑑賞。数分間の出だしをみて思い出しました!
 あ・・・私・・・そういえば城山三郎さんの「鼠」!若いころに読んでいました。







ドラマの中の「鈴木よねさんと金子直吉さん」はとっても新鮮に脳裏に描かれました。

明治7年はおもいっきり幕末の余波が吹き荒れる頃に創業された小さな砂糖問屋。
一代で築いた鈴木商店店主の金子岩次郎と婚姻したよねは、
当時の風潮であった従業員は徹底的に使い倒すという店の方針に逆らい
人こそ財産であり待遇の改善を行う。

土佐から縁があって鈴木商店に入社した金子直吉との出会いがあったものの、
岩次郎に嫌われ社を後にするがよねが土佐まで迎えに行きなんとか思いとどまらせる事に。
そんな中、数年後、店主が急死した後は店をたたむものと思われたがなんとよねが店主となり
鈴木商店を引き継ぐこととなりました。

商才のあった金子直吉を中心にすさまじい勢いで商いを拡大。

そしてついに日本を代表する総合商社に成長。そんな鈴木商店を不幸が襲います。
実話をもとに明治初期~昭和初期を駆け抜けた鈴木商店の
一部分をドラマでは知ることができました。


また城山三郎さんの「鼠」では米騒動の原因となったのは鈴木商店による米の買い占めによるとされていた風潮を三井と朝日新聞による関与があったと結びつけています。

そして 今、栄華を誇る大企業の数々は鈴木商店につながっているのです。

金子直吉氏の句 <初夢や太閤秀吉那翁 >

その壮大さと自分にはできない事が無いという無限の可能性のその力強さを感じます。


鈴木商店ミュージアム
丁稚が創った「国家予算を超える会社」
金子直吉伝

2014/05/07

2014 5/7  サンボアの思い出

事情があり詳しいことが書けずに残念だけど、今朝の読売テレビで放映された『カレー特集』。
メインが松尾貴史さんなので、ひょっとしたら・・と思いましたがやっぱ出てきました!
西宮北口にありました『サンボア』。

あきらかに入店を拒むかのような古びたショーウンドー横の内開きの戸。
一種独特の店内の臭いが立ち込める。
そんな店内は薄暗くカウンター席のみで10席程度で、店内の壁の上には赤い缶入りのカレー粉が並んでいる。

当時メニューは二種類で『インベロ』と『ピラフ』で値段は250円。
インベロは白いごはんの上にカツが入っているかいないか未だにわからないカツが数切れ乗っていてシャバシャバのカレーがかかっている。その横にはキャベツの千切りと、フレンチドレッシング。
ピラフは型押ししたご飯を卵でかすかに巻いように見える上にカレーがかかっていましたが
私が通い始めてすぐにピラフは無くなりインベロのみとなりました。

銀色の楕円形の浅いお皿に盛られたカレーは本当に不思議な味で
初めて行ったときの正直な感想は『こんな不味いカレー屋へは二度と行かない!』でした。
ところが数日経つとあの強烈な味が思い出されてきて、猛烈に食べたくなってくる。
で、その時の感想は『やっぱ、美味しくない』と再確認。

ところがなぜか数日後になると強烈に食べたくなってきて
そして3回目を食べた時はもう中毒で、毎日でも食べたくなるそんな不思議な味でした。
個性的なおばちゃんのその高い早口なしゃべりと、厨房で調理するめったに店頭には姿を見せないご主人とのお二人のお店できりもりされているお店ですが決して繁盛している風ではなく、
月に何回か開催される西宮競輪の時に入店しようとした中年の男性に対して
『うちの店は学生専用の店やからあかん』と入店を断っているところを見かけたことがあります。

そんなおばちゃんの手を煩わせないためにもたしか『お水のお代わりは禁止』というローカルルールがありましたっけ。


サンボアについて書かれているサイト
『私たちのサンボア』
そんなサンボアのカレーが芦屋に復活したらしい!
これは絶対にいかなきゃ!

まっててね!愛しのインベロ!



2014/05/04

2014 5/4 真田祭と食彩館

毎年ゴールデンウイークは和歌山県九度山町で過ごしています。
真田三代が過ごされた九度山では真田祭が開催。同時に信州上田市や今年は大阪市の天王寺公園でも開催されていますが
やっぱり九度山町が大好きです。
 
この4月末には念願の道の駅がオープンしたこともあり大盛況の人出。
そう規模は大きくないのですが、この辺りにお住いの方々は日々のお買い物をするところがないことから
産地直結型のスーパー業態の[よってって]をメインに展開し利便性の向上に貢献しているようです。

 
定刻になり、いつもお元気な岡本町長さんとお写真を撮らせていただいたのちに
開会式を経て真田鉄砲隊の演舞が開始!その迫力は満点でした!










 
お昼ご飯はもちろんいつもの食彩館へ。
食べログに掲載されたようでさっそくカキコしました!
お近くにいかれた節はぜひお寄りくださいませ^^
 
 



2014/04/26

2014 4/26 滋賀県のお出かけ【ブルーメの丘・太郎坊宮】

今のお仕事に就いてからゴールデンウイークにはまったく縁がない私ですが
さすがの良いお天気に背中をおされてどこかへふらっと出かけたくなりました。
目指すは一面の菜の花畑!
ありました!滋賀県ブルーメの丘!大阪から名神で2時間もかからずに到着です。




ゴールデンウイークということで、家族連れで大賑わい!
今の時期は満開のチューリップ畑だけでなく目的の菜の花がわんさか!
おもいっきり癒されてきました。










で、次に向かったのは車で15分ほどの場所にある【太郎坊宮】さん。



写真の山の中腹あたりにあるお宮さんで正式には阿賀神社さん。
実は私がまだ小学生の頃、いろんなご縁でこのお宮さんには
何度か来たことがあり思いで深い場所です。

大阪弁のイントネーションで「たろぼーさん」と呼んでいましたww
いまはすぐ本堂の下まで車でいけるので大丈夫なのですが
もちろん当時はそんな駐車場はありませんので700段以上の石段を登っていったのを覚えています。
本殿の手前に巨岩(男石・女石)があるのですが子供のころはその岩の間を通る時に
悪しき心の者が通るとと途中で閉まると思い込んでいたようです









眼下には滋賀県ののどかな風景が広がります。



2014/04/19

2014 4/19 歴史と人間 真木和泉

久留米藩21万石の大名、有馬家の家臣だが、本職は水天宮の神主さん。
水天宮さんは水難避けの神様で、本宮は久留米にあります。
東京にあるのは、久留米藩藩邸の中にお祀りしていた宮がそのまま残ったのもの。
大阪には末社がキタの露天神さんにあります。

真木和泉は22代目となり、その祖先は平清盛につながっているとか。
150石の馬廻り役なので良い暮らしをしていたのでしょう。諱は保臣(やすおみ)で
文化10年3月7日(1813年4月7日)生まれ。

神職が本職なために非常に保守的な考えで天皇が政治を行う王政復古(復古論)が強いために古いタイプの志士と言える。
実際に維新を行った際の政治の進め方のモデルについてを過去の日本に求めた時に
考えられるのは建武の新政・・これはどうもイメージが良くない。。( 後醍醐天皇は朝廷の政治を復権しようとしたが、1336年(建武3年)に足利尊氏により政権崩壊)
つぎに大化の改新。。(中大兄皇子(天智天皇)が蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした。首都をを飛鳥から難波宮に移し、飛鳥の豪族政治から天皇中心の政治へ移行した。)これもどうも血なまぐさい。。なので登場したのが神武天皇をモデルにした明治国家を目指した。

和泉としては、徳川幕府は全面否定!天皇を崇敬。自らが政治を行うことを理想とした。
とくに影響を与えた書物は「絵本楠公記」。これが思想の基礎を決定し楠公さんを崇拝していた。

11歳で父が死去。
本来、江戸政権の神職でもお寺が仕切っている檀家制度に属しているために仏式での葬儀がきほんではあるが、和泉はむりやり神式で葬儀を執り行った。

32才
水戸学の影響が強く、実際に水戸まで出かけている。
水戸学は、徳川家も天皇崇拝を前提としているが、和泉の意見とは食い違ってる。

34才
藩政改革の意見書を提出。
徳川を無くし神代の時代へ戻るべきで言論を開き、久留米藩を王政復古のモデルにしようという内容。
この意見書を懇意にしていた藩主の有馬頼永は取り上げたものの25歳で急死。藩主は弟の頼咸(よりしげ)となり、彼は和泉の考えを天保学と呼び危険視していた。
その後、政治を混乱させたとの罪で嘉永5年(40才)で蟄居となる。
嘉永6年6月の黒船騒ぎの時、8月には山梔窩(さんしか)〔くちなしのや〕と名付けその後11年も住み暮らしている。


さて、世間では開国したことにより輸出入のバランスが崩れ、物価が上昇!
五品江戸廻送令が出たものの、実際は横浜へ直で持っていくことで利益を上げた商人が続出!
これは生糸、雑穀、水油、蝋、呉服の五品目は問屋を介して販売すことを義務付けた法令。
長野県や群馬等の生糸産地より横浜へ行く裏道は現在の東京の町田市を通る必要があり、この道は現在は「幕末のシルクロード」と言われているそうですがオカルト的な話も多いようです。

ここで一坂先生より、来月発売の〔幕末維新の城〕についてのお話があり、いかに当時の生糸相場の暴騰により利益をあげた商人がいたかという実例をお聞きしました。

さて、蟄居も終盤の1861年12月に清河八郎が訪ねてきた。
幕府の弱体化や政治の混乱を説いたことから触発され〔義挙三策〕を書く。

上策は、諸侯義挙を進めて事を挙げる。
中策は、諸侯の兵を借りて事を挙げる。これは大阪城、二条城を乗っ取り。。。
そして下策は義徒を募る策。現代の感覚からすれば、とんでもない作戦でびっくり!
新政権樹立のためには京都は焼け野原になっても良いという感覚。。
〔経緯愚説〕はおもいっきり天皇崇拝で神武天皇政権をイメージさせている。

2か月後には蟄居を抜け出し挙兵をするという噂の島津久光に会いに行くもNG!そのまままた久留米で拘置。その後出獄の後、寺田屋事変が起こりその後幽閉生活。
八月十八日の政変により七卿とともに長州へ・・。
そして禁門の変へ参加したものの追い詰められた天王山で切腹となった。

辞世の句が小さな短冊に書かれて木につるされていたそう。

大山の 峰の岩根に埋めにけり 我 年月の大和魂

2014 4/4 交通事故

通算4回目の交通事故にあいました( ;∀;)

今までの事故をまとめてみるとこんな感じ。。


2010年1月 某川の土手道で信号待ちの時に追突される。。
2012年4月 大阪市内で信号待ちの時に追突される。。
2012年7月 八尾市で信号待ちの時に追突される。。

そして今回も。。

2014年4月 八尾市で信号待ちの時に・・・となったのですが
今までとはちょっと状況が違い、対向2車線の交差点で信号待ち。

乗用車が、なぜか歩道を走ってきて、その車が車線に戻るときに
私の愛車の左前にぶつかって走りさろうとしていました。

クラクションを鳴らし続けて追いかけて、数百メートル走行後に
停車。。

てな感じです。


ぶつかられた瞬間は、正直な感想・・・「あ~またかいな。。。」って思いました(;^ω^)

で、19日にようやく愛車が復活!

愛車くん。。痛い目にあってしまったね。。ごめんね。。