「アフィリエイト広告を利用しています」

yahoo2

2024/06/01

映像の世紀 東京裁判とニュルンベルク裁判

第二次世界大戦における敗戦国である日本のA級戦争犯罪人を裁いた国際司法で正しくは、「The International Military Tribunal for the Far East」。先日NHKで放映された「映像の世紀バタフライエフェクト」を見て驚きました。1946年5月から1948年11月までの長期間に審判され、A級とされた28人が裁かれ、うち7人が絞首刑(巣鴨拘留所)。
映像を見ると、絞首刑を宣告された方と、終身刑を宣告されたかたのその表情や心情・・その方々の本当の心の中なんてわかるはずはないけれど、それでも私の心の中にわだかまりのようなものが生まれたように感じました。

先進国で死刑を廃止している国が多い中で絞首刑を宣言した現実・・核爆弾を落とし、多数の犠牲者を出したことを正論としたアメリカとオッペンハイマーの苦悩。
無期懲役を宣言ざれたA級先般は数年後には釈放された事実。終戦前のどさくさ紛れの8月8日に日本に侵攻したロシアの北方領土の実効支配。

1929年アメリカウォール街の株価大暴落に端を発した世界恐慌は世界中に様々な影響を及ぼし、これは1914年~1918年に行われた第一次世界大戦の賠償責任を中央同盟国の国に特に深刻な影響を与えました。1933年にドイツ国首相に任命されたアドルフ・ヒトラーは経済を立て直す様々な政策により数年で完全雇用を達成、領土拡大を目指し1939年9月にポーランド侵攻により第二次世界大戦の火蓋が切られたが連合国の参入以降、様々な戦禍により1945年4月30日に自殺。そして6月5日の連合国の「ベルリン宣言」で敗戦が決定つけられました。その後7月26日にポツダム宣言・・原爆投下・・ソビエトの侵攻・・8月15日に無条件降伏という流れ。

東京裁判の数か月前に「ニュルンベルク裁判」(1945年11月)が1年がかりで行われ、戦勝国が敗戦国を裁くという一方的な図式であった。しかししでに自殺しているヒトラーに罪を被せたという印象におもえ、真実はわかりません。

初代西ドイツ首相に任命されたコンラート・アデナウアーは「私たちはナチスのにおいを嗅ぎまわることをもう終わりにすべきなのです」
1966年には、戦時中はナチ党員として外務省で働いていたクルト・ゲオルク・キージンガーが第3代西ドイツ首相に任命、戦後の目覚ましい発展の中で戦争の記憶は薄れてゆく。4代西ドイツ首相となったヴィリー・ブラント氏は実はこのニュルンベルク裁判を記者席で取材していた。
「国民は自らの歴史を冷静に振り返る心構えが必要です、なぜなら過去を記憶するものだけが現在を見極め、未来を見通すことができるからです。歴史との対話はとくに若い世代にとって大切です、たとえ生まれる前の事であったとしても引き継いだ歴史から誰もが自由にはなれないのです。」

この言葉はとても重く、今の若い世代は幕末以降の現代史をどこまで知っているのかとても不安でなりません。
いまの日本を取り巻く災いと軍靴の音。中国の台湾進攻があったら。。中国と香港の関係・・朝鮮半島有事・・ウクライナとロシア・・シリア内戦(政府軍vs反体制派)・・アフガニスタン紛争(アメリカvsタリバン勢力)・・これだけではありません。

安全保障条約と自衛隊・・アメリカ大統領選の行方・・などなど、今の私に何ができるか?を考えると、こんな記事を書くことくらいなのかもしれません。


NHK映像記録

2024/05/18

上関訪問予定

 6月上旬に山口県上関室津へ行くことが決まりました。前回は2022年7月なので約2年ぶりです。
前回は、赤根武人氏の居住地、克己堂跡、の阿月周辺。そして今回は、室津地区西方寺さんの境内に眠る義勇隊士高橋利兵衛さんの墓所を訪れたいとおもっています。

この高橋利兵衛氏は山本誠一郎氏・水井精一氏とともに上関三士と呼ばれており、幕末山口県内で佐々木亀之助氏(明治20年頃に北海道へ移住。入植者初代総代人)により結成された義勇隊(周防上関の農民で編成。非常部隊)の隊員で、今回訪問予定の西方寺が義勇隊の本陣。

文久3(1863)年12月24日深夜、薩摩藩士ら68人が乗った蒸気船「長崎丸」が、小倉藩領の豊前国白野江村(現北九州市門司区)の部埼(へさき)沖で炎上、沈没(長崎丸炎上事件)。28人が焼死、溺死した。
https://www.sankei.com/article/20170728-GB57BNGQZRMNPB765QQURTUV5I/

この蒸気船は薩摩藩が幕府より借りていたもので当然ながらその責任問題が問われ、薩摩と長州の間柄が当然悪化。長州藩は西洋商船と勘違いして誤射したとの言い訳に終始。そんな中でこの約2か月後に起こったのが、加徳丸事件(薩摩藩船焼き討ち事件)。長州藩義勇隊士が薩摩船加徳丸を沈没させ、船主大谷仲之進を殺害した事件が起こる。そしてその数日後の元治元年2月26日大阪南御堂の門前に船主の大谷仲之進の首と、長州武士二人が切腹していた。この二人は山本誠一郎氏・水井精一氏。その後、同じ義勇隊の高橋利兵衛氏は西方寺境内で3月10日に自害した。3人はともに長州萩藩出身の義勇隊士。船主大谷仲之進を殺害した理由は「薩摩藩は攘夷を唱えるも異国との貿易を行っている」とのこと、積み荷もろとも炎上させた。

この幕引きは当時の長州藩要職の久坂玄随が描いたシナリオで、できるだけ派手に謝罪をさせることで朝敵となった長州藩への同情を募長州贔屓を増やすの目的。加徳丸事件の犯人が見つからなかったために有志を募り山本誠一郎氏・水井精一氏が名乗り出たといわれる。享年25歳と30歳の二人の心情は如何なるものだったのでしょう。また、高橋利兵衛氏においてはわずか24歳。。

1853年の黒船来航から1889年の明治憲法発布のこの30年余りは本当に「狂った時代」。でも、今の日本も狂っているとは言い切れないのも事実。当時の人々と同じ風景を眺めることくらいしかできないのは寂しいことですね。




2024/05/10

2024 5/10 久保惣記念美術館

 亡くなった母と何度か来た思い出が蘇る思い出の美術館です。
和泉市の静かな市街地にあるこの美術館で開催中の「源氏・若冲・応挙ー近世絵画と久保惣の名品ー」へ行ってまいりました。

JAF割引対象がありがたいだけでなく、キャッシュレスにも対応したようでいっそう便利になりました。

前回訪問した「東海道名所風景ー浮世絵に見る将軍様御上洛ー」の際にとても気になった宮本武蔵「枯木鳴鵙図」もありました!なんとまた、応挙の「老松鸚哥図」も初公開!伊藤若冲の「乗興舟」は、京都伏見から大阪八軒屋までの風景を見事!圧巻!





2024/04/28

「すあま」という謎の和スイーツ?

旅先では必ず地元のスーパーへ立ち寄ることにしています。
で、今回、イオン徳川明倫店で見つけた不思議なスイーツ。

「すあま」・・・。

初めて聞く名前。。
酢甘?? 「何じゃそれ・・?」ということで食べてみると、ういろうのような優しい甘みともちもち食感。

ということで、さっそく作ってみましたww

上新粉と同量のお砂糖にわずかな塩を入れてレンチン。
600wで2分。頑張って混ぜる!
再度レンチンし、4等分。んで食紅で赤バージョンと黄色バージョンを作成し
お団子をこしらえて麺棒で伸ばす!白バージョンを包みこんで冷蔵庫でしばし
冷やして出来上がり!

うん!美味!

大阪ではまったく知名度のないお菓子。「すあま」。

上新粉+お砂糖+少しのお塩+電子レンジ600w✕2分を2回で美味しくできましたよー。



2024/04/27

いろはにほへと

いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ  つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす

色は匂へど 散りぬるを
我が世、誰ぞ 常ならむ
有為の奥山  今日越えて
浅き夢見じ  酔ひもせず

美しい花もいずれは散り 誰一人として永遠に
生き続けられるものではない
無常の悟りの世界に至れば、儚い夢を見ること
なく、眼の前のことに振り回されることもない

(    徳川美術館 所蔵品 )

2024/04/26

一心寺さん:徳川仙千代公のお墓を参拝

 数日前に訪れた「徳川美術館」。この入口に掲げられていた徳川家系図。
その中にはいくつも聞いたことのあるお名前があります。
私の母や祖父母の眠る一心寺さんにはわずか六歳で亡くなられた家康公の八男「仙千代公」のお墓があります。







心を込めて参拝させていただきました。ただ、縁故の方がは長らく来られていない様子。。

浅香山のツツジと浅香山稲荷神社さん

 この先の見えない休暇中に、いままで行きたくてもなかなか行くことができなかった場を巡っています。
今日は、この時期ならではの場所「浅香山のツツジ」です。浄水場の通り抜けは来週からですが、その横になる緑道はすでに見頃でした。

JR阪和線「浅香」下車 徒歩10分程度。








さて、別のBLOGに掲載している内容を再掲載。
この浅香駅のすぐ南にある神社のお話です。

今の大和川の流れを確認してみてください。
柏原市の石川合流地点からまっすぐ大阪湾には流れこんでいないことがわかります。
なにがあったのでしょう。相次ぐ洪水の回避で北に流れていた大和川を西に変えた際にどうしても迂回する必要がでてきたようです。



もともとこの松原の地域には古代からの灌漑のために、ため池が多くありその中のひとつの依羅(よさみ)池を利用することで大和川の工事計画を立て着工しましたがこの浅香山のふもとの工事に入った際に不思議なことが相次いだそうです。



一日の予定通りの工事を終えても、翌日にはなぜか元通りに復旧。。。。


また道具がこわれたりする事故が相次ぐことからこの浅香山を迂回することで回避したそうです。
※工事を遂行した中甚兵衛氏の家に狐が武装して襲ってきたり、この浅香山に古くからの伝承である狐の話があります。

 奈良時代の左大臣藤原魚名の子孫、浅香氏の居城だった。浅香将監宗勝は南朝に属した。室町後期の文亀元年(1501)に落城、一族は閑居していたが、天正の豊臣秀吉の四国攻めの際に功があり、浅香善右衛門宗胤が旧城地一帯を与えられた。

 城跡は現、浅香山稲荷と伝えられる。



 昔、この辺り住之江の浦と連なる小さな湾で、そこに小島が出来、遠く推古天皇の御代(五九〇年代)聖徳太子御巡遊の折、白髪の老翁が太子に、昔より比処に埋る香木有り、
と伝えている。
太子が不思議に思い、掘らせたところ、果せるかな地中より幾千年も経たと思われる朽木が出で、これを焼かせたところ馥郁優なる香りたなびき、その時太子が「浅からぬ香り」と仰せられて、以後この地を”浅香の浦”と呼び、その香木で老翁の像を刻みここにまつられたのがこの神社の創始と言われています。

 後、ここに城を築いて、この神像を稲荷大神と仰ぎ祭られてきた。

この稲荷大神とは宇迦之御魂大神と言い。生活の大本を司り福徳盛運の守護神として伊勢外宮にます豊受大神と異名同神と言われます。



 時移り世が代わって宝永年間(1704)、旧大和川の水害から流域を守るために大久保大隈守宰領として流れを変える工事の折、この地の狐塚の所に至り、どうしても工事が進まず、前日掘った所が翌日は又元に復し、人夫達は恐怖におののき手だしも出来ず、宰領奉行も神威を畏み、計画を変えこの狐塚を避けることによって大工事を完成させるに至りました。

 後、宰領大隈守は神威を怖れこの狐塚の所に神殿を建立し、現在に至っております。 尚、現神殿は、昭和五十一年七月に改築完成されたものです。  
神前の一対の石灯籠は大久保大隈守の寄進にかかり、又自然石の大手洗鉢は当時の川口奉行等の寄進によるものです。




























2024/04/23

4/22〜4/23 名古屋の旅

 平日の旅行など年々ぶりになるでしょう。何処へ行っても観光地が空いているのはホントにありがたいものです。

今回は、長年の憧れであった「徳川美術館」「名古屋城」「熱田神宮」「大須観音」を22日〜23日の2日間で巡って参りました。

高速代を浮かせようと、行きは西名阪+名阪国道+東名阪で名古屋入り。途中で早昼や休憩をしても3時間半くらいなので相当快適なドライブになりました。
名古屋城はそのスケールは大阪城には及ばないものの、戦国武将らの戦火を被ることがないのか、平城で、また虎口も単純、石垣は野面、打込など箇所により様々な様式。
残念ながら天守閣は耐震工事中で入ることはできませんでしたが、復元された本丸御殿内の観光を堪能。写真撮影可ということで様々な襖絵写真を頂戴いたしました。

名古屋城での幕末関連は「青松葉事件」が有名。徳川御三家という立場と明治政府の間で気持ちが相当揺れ動いたのでしょう。

https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/

夕食は「世界のやまちゃん」と「ぼう家」で名古屋名物を堪能ww
美味しいお酒にビール、酎ハイとちゃんぽんの癖が抜けませんが、アパホテルの大浴場と露天風呂を楽しんだあと、ぐっすりと眠ることができました。
なかなか栄の夜はデンジャラスですね。

さて、翌日は「徳川美術館」朝10時の開門から4時間近くの滞在となり、見ごたえたっぷりの工芸、美術品や企画展の浮世絵を堪能いたしました。園内は、徳川美術館と蓬左文庫を使いそれぞれのテーマで整理された展示室で構成されており、当時の「大名の暮らし」の「表道具」「奥道具」や「刀剣」「茶具」だけでなく「源氏物語絵巻」「浮世絵」をじっくりとこの目に焼き付けてきました。

また、美術館併設の「徳川園」の素晴らしいお庭と牡丹の花に送られて2日間の名古屋の旅を終えました。

https://www.tokugawa-art-museum.jp/