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2010/09/04

2010 9/4 彦八まつり

この週末は毎年恒例の「彦八まつり」。例年以上に暑い二日間となりました。


たしか昨年は11時からセレモニーでしたが今年は1時間繰り上がり10時からとなったためどのブースもドタバタで大変だったみたいです。

さて定刻になると昨年同様に笑福亭生喬さんの明るい声でスタート。そして今年の実行委員長の桂ざこばさんからご挨拶がありました。

「みなさん、おあよーございます。暑いけどどうぞ生きて帰ってください」の声に一同大爆笑で第20回彦八まつりが開始されました。

今年サインを頂戴したのは、(頂戴した順番)桂 枝女太さん・桂 坊枝さん・桂かい枝さん・笑福亭福笑さん・笑福亭福たまさん・林家染左さん・ABC芝田アナウンサーさん・林家染雀さん・笑福亭生寿さん・笑福亭小つるさん(来月には枝鶴さん襲名です)・桂小春団治さん・桂一蝶さん・笑福亭生喬さん・桂福丸さん・笑福亭銀瓶さん。

皆様本当にありがとうございました^^

そして戦利品は桂小春団治さんがツイッターで書かれていましたダーツに参加させていただきおっきなバッグを頂戴しました^^

2010/09/02

2010 9/2 防災週間

淀屋橋で打ち合せがおわりツイッターを確認すると平松市長さんのメッセージが。。


そっかぁ。。。防災週間なので市役所の前にはしご車がきて。。。

ほぅ。。とりあえず行ってみようということで行ってきましたww








市役所の前ではしご車が鎮座してる横で口をあけて上を眺めていますと

横に居たおねーさんが一言。



「最後尾はここですよ」



うに?



なんだろ。。。ということでおねーさんのやや後ろに並んだ直後、私の後ろに

テープが張られ署員さんが「ここで終わりでーす」の声。


どうやらはしご車体験コーナーに並んだらしいwww



ヘルメットと腰に安全ベルトとカラビナをつけて地上40mの空のたびを楽しんできました。


最上部付近でひょっと左をみると、市役所最上階のフロアでデスクワークをされている職員さんの姿が

よくみえたので思わず撮影!

すると同乗してくださった署員さんいわく「そっちやなくて、風景を撮らなかんやん」と

突込みが(;・∀・)


あれから1時間たったいまでも足がガクガクしてますww

2010/08/28

2010 8/28 染弥のそうかい落語会

初参加の落語会。大阪狭山市にあるSAYAKAホールが会場。立派な建物だし駐車場も完備されているので非常にありがたいです。
いつもながらの早めに到着。

林家染吉  金の大国

マクラを聞いて苦笑wwそれもそのはず、その不動産屋さんとは面識があるので話がおもいっきり身近なところ。
染吉さんは舌滑がよく聞き取りやすい声にオーバーぎみな上下なので好印象。おもいっきり若手でそのフレッシュな落語を堪能でしました。
さて、話のほうでは一枚の羽織の貸借りのシーンの間延びしがちな難所をうまく切り上げました
林家染吉さんの高座は昨年の秋以来(2009 9/27 染左開発計画)たしかに上手くなられたと感心しました。

笑福亭たま 陰陽師

目を引く羽織の紐。お洒落なたまさん、おもしろすぎです。マクラは自動販売機~新宿2丁目での話しでたまさんワールドに引き込んで行きます。
安倍野清明の子孫が現代にも陰陽師をしているという設定で取材に行く雑誌記者の男女と子孫が繰り広げるドタバタ劇。真剣におなかを抱えて何度も笑わせていただきました。
しかも実際の怨霊とのやりとりでサゲになだれ込んで行き大爆笑で終わりました。
もともと上下を振らないたまさんですが、数回ある怨霊の登場シーンなどで
ポイント的に使われることで迫力が倍増するんですね。
さてふと何気に、このネタはほかの噺家さんで出来るのかなって考えてみました。
おそらく出来るのはあと一人だけ。福笑さんだけでしょう^^

林家染弥 胴乱の幸助

ほんとに染弥さんの高座も久しぶり(前回は2008 11月「癪の合薬」)
マクラはパチプロとの会話でわりとあっさり目で切り上げて本題へ。
染弥さん「柳の馬場押小路 軒を並べし呉服店現金商い掛硯虎石町の西側に
主は帯屋長右衛門」お上手でしたが拍手のタイミングを逃してしまいました(^_^;)
さてお話のほうは途中色々とありましたが流れが途切れるようなこともなくサゲへ。
秀逸なのは帯屋の番頭と幸助の会話。番頭が京都弁で執拗に幸助の勘違いを笑うことで
幸助のトンチンカンぶりが浮き彫りになってきます。

2010/08/26

2010 8/26 世界が回る!

あらら。。なんだか世界がまわってる。。



まわっているのは私の視界でした。



めまいが激しくて会社を休んでしまいましたww



熱中症と疲労かな。。。

2010/08/24

2010 8/24 献花

2008年11月。

あるお取引先様のところで商談中に見せていただいた新聞の切り端。

そこにはお世話になった方がバイク事故で亡くなられたという記事が書かれていました。




それから1年半。

ようやくその現場へ行く事ができ手を合わせてきました。

8月お盆も過ぎ、ほんとうなら爽やかな風の一つでも吹いていそうなこの季節なのに
蝉の声すら聞こえない37度近くある神戸の山奥です。

本当に人の一生は短いもの。一歩先なんてだれも知る事ができないし、
幸せと不幸せは背中合わせ。

どうぞやすらかにお眠りください。

今日の日を一生忘れることはありませんから。

2010/08/22

2010 8/22 三国アシスト亭 ~無茶修行の会~

第6回アシスト寄席が開催されました。正式には三国アシスト亭 ~無茶修行の会~というそうで、この会は、長い間演じられなかったネタや初めて高座にかけるそんなネタの予行練習的な意味を持っているとのこと。


だいたい私の落語情報はネットに頼るところが大部分でとくに【ねたのたね】は頻繁にチェックしています、しかし、このアシスト亭~無茶修行の会~は掲載されていないことから見逃してしまったり、また有名な地域寄席の田辺寄席と日程がかぶる事があったのでなかなか参加させていただ事ができませんでした。

今回はとてもラッキーなことに第1回にご縁があり参加させていただき1年3ヶ月ぶり。お葉書を頂戴した時点からとても楽しみにしていました。

会場は定員30名の喫茶アシスト。手作り感いっぱいの会場ですがそれでも第1回目のときよりも会を重ねるごとにスムーズな運営で今後が楽しみです。


旭堂南斗 : 角屋舟の由来 

旭堂南斗さんとお会いするのは初めてです。(開場には南舟さんもお見えになられていました。)
妙国寺で和尚とお茶を楽しんでいた時に本能寺の変がおこったことを知った家康。
どうやって畿内を脱出し三河に帰ったか。。。海路をふさぐ3箇所の関所をスリリングに突破したお話で心地よい緊張感が感じられる話し口調からすると初高座だったのかもしれませんね。



桂福丸 : 米揚げ笊

笑うところと違うところで笑ってしまって突っ込まれてしまいました(;・∀・)

笊=ザルであることが希薄になっていますが、今日の年齢層であればみなさんご存知でしょうね^^笑いどころだけどだれてしまう笊屋十兵衛さんの家を訪ね歩くシーンはスパッと削除し、ラストの上げ上げの会話は音楽で言うaccelerando!
次々とたたみかける会話がすべて笑いを誘いました。
「わからんことをわかると言うのがわからん わからんことをわからんと言うことがわかる」なるほど。。。そのとおり。。


旭堂南左衛門 :大久保彦左衛門・目擦りなます

「落雀の暑さ」(らくじゃくのあつさ)という言葉があるそうで、暑さでポトっと落ちた雀を猫が咥えたら火傷をしたらしい^^ 師匠の3代目旭堂南陵さんが戦争で中国へ赴任された際に様々なシーンで部隊長より講談をさせられたそう。WIKIで見ると1940年に真打に昇進されているので相当著名であったのでしょう。
大久保彦左衛門がしかけた賭け碁、景品は虎の皮100枚VS豹の皮100枚。とんでもない豹の皮のために珍しい目擦りなますを食べることに。。。見事にその光景が脳裏に再現されました。

笑福亭仁嬌:遊山船

仁嬌さんの話しは過去に何度かあり、印象深かったのは2010/2/21の田辺寄席の元犬と万国島巡り。いずれも楽しませていただき好印象。また会が終わったあとに話されていましたが、このネタは今日は初めてであったとのこと。まったくそんなことを感じさせることもなく笑いのツボをきっちりと押さえられていました。
さて、喜六清八それぞれの口調と上下できっちりと演じられていたのと、常に覗き込むようなその視線の先には本当に、げい衆、まぁ衆、なぁ衆、たぁ衆等が居るような。
浪速橋の上から喜六の家に帰ったシーンで戸惑いましたがそれでもちゃんと天窓やたらいに入る嫁の姿が浮かび上がりました。


桂枝女太:質屋蔵

この会とのご縁を作っていただいたのが桂枝女太さん。ネタは久しぶりに聞く質屋蔵 。
このお話も3年ほど前に1回やられただけとのこと。元々40分以上ある長いお話なので中々演じる機会が無かったとのこと。
私的にはいつも落語家さんには感心する内容に、それぞれのもち時間にあわせてお話をうまく編集するというところがあります。編集すると美味しい笑いどころがすっ飛んでいったり話の流れがいびつになったりするものですがこの質屋蔵はなかなか切り取る箇所が無いお話なのでしょうね。
マクラでちゃんと菅原道真公の話しをしておいて本題なのでなおさら長くなる傾向のあるお話なようです。
さて枝女太さん風の手伝いの熊五郎さんの描き方が面白しろく、昇り竜+下り龍のガマンを入れたいかにも腕っ節の強そうな男が呼びに着た定吉にまんまとしてやられたお茶目な面や、旦那に白状してしまう晩酌のお酒や漬物、味噌の一件、また夜更けに番頭さんと二人になったときに見せる怖がりで小心者な面がイキイキと感じる事ができました。


近年は落語ブームで、毎日たくさんの場所で落語会が開催されています、大ファンの私にとっては嬉しい限りです。そんな中で、落語を話す方からするときっと100人位入っていないと気が入らないのかもしれませんが、聞くほうからすると今日のような開場が良いのかもしれません。雰囲気が近いのが「町屋寄席」や「生野弁天寄席」かな?福丸さんってこんなに声量があったんだってビックリしたり、こまかい所作や視線を感じる事ができるのはやっぱり喫茶アシストさんくらいの広さなのでしょう。ぜひ次回11月のも楽しみにしています。

上方落語家名鑑ぷらす上方噺

2010/08/21

2010 8/21 教科書に書かれない幕末史 王政復古

連日の猛暑、一阪先生も汗だくで教室入り、額からはまだ大粒の汗が。。たぶん駅から走ってこられたのかもしれません。
開口一番、気象庁関連の知人にこの猛暑について聞いたところ、なにやら不穏な空気を察知されたとのこと。ひょっとしたらなにか良からぬことが地球におこっているけれど、その対策がなられていないので発表すると大変なコトになるということで密かに報道管制が引かれているのかもしれません。

さて今回の内容は前回の続きです。王政復古の大号令に至るそれぞれの思惑が違うところが今回のポイント。

慶応3年10月14日(1867年11月9日)に慶喜さんは大政奉還を上奏し翌日に勅許がでた。
これは政治の権限のみを返上したという言わばきわめて抽象的な内容で、第1回目の諸侯会議が行われるまでは慶喜さんは今までとおり政治の実権をもったままだということに注意。さて、この中心思想の公儀政体をすすめたのが土佐藩山口容堂さん。とはいえ土佐藩のなかは実はいろんな意見が飛び交っていてぐちゃぐちゃであったそう。

さてその諸侯会議も圧倒的な支持で慶喜さんが合法的に選ばれる段取りとあぐらをくんでおりましたがちょっとずつ情勢が狂いだしてくる。

このまま第1回目が開かれるとまた徳川政権となってしまうと危惧した倒幕派の薩摩藩+岩倉具視は大政奉還は無理と踏んでおり武力倒幕に進んでいたが実現したために諸侯会議が開かれてはまずい!と考えるのは当然。
12/2にはとにかく第1回目が開かれるまではと我慢していた後藤象二郎さんのイライラも最高潮!それではと聖断をしていただこうという方向が濃厚になる。聖断がでてまずいのは慶喜さん。あわてて諸侯に上洛を促すことになる。

じゃ聖断はいつがいいか?でいろんなやり取りが行われる。
12/5は?だめだめ!まだ容堂さんが京都にこられていないということで却下!

この背後で武力倒幕をもくろむ薩摩はパートナー探しを水面下でおこない、土佐・安芸・尾張・越前・宇和島・備前にほぼ決定。(尾張と越前は徳川との結びつきが強いので要注意・宇和島、備前は京都に藩主がいないので却下)

なんとか聖断の日程を遅らせてもらう為に後藤は、中山忠能へ日延べ依頼。しかもこの時に慶喜さんは3役にはいっているんでしょうね?と確認をしている。また後藤はおなじく松平慶永にも確認し、聖断があることを慶喜に伝えて欲しいと依頼する。

さて少しだけ日付を戻す。

12/5 慶喜さんは全国諸大名に上洛を促す。
12/6 慶喜さんは聖断が近日中に行われることを知る。
12/6 容堂さんが関西到着。
12/7 容堂さんが枚方入り
12/8 容堂さんが京都到着。
12/8 岩倉は12/8に固執
12/9 中山忠能は「天皇が乗る籠ができていないことを理由に却下」
ということは、京都が戦場になることをすでに予感していたということか。。

実際11/29には長州800人が西宮付近に待機。朝敵の烙印をおされている長州藩が倒幕の秘勅をもっているといういわめてヘンテコリンな状態がおこっている。

さて12/8 夕刻から翌日にかけて行われた朝議で長州親子の官位復活と八月十八日の政変で追放された7人の公家の赦免(現在は5人)が決められ12/9の朝には終わった朝議。
一部が退席した後に薩摩・芸州・尾張藩などの軍が御所の門を取り囲み明治天皇がおられる場所で王政復古の大号令が発せられた。

ついに発せられた王政復古の大号令。すぐさま小御所会議が開かれて総裁・議定・参与が決定する。
総裁には有栖川宮熾仁親王、議定には仁和寺宮純仁親王、中山忠能や徳川慶勝(元尾張藩主)、松平慶永(前越前藩主)浅野茂勲(芸州藩世子)、山内豊信(前土佐藩主)、島津茂久(薩摩藩主)、そして参与には公家から岩倉具視ら5人、尾張藩士、越前藩士、芸州藩士、土佐藩士、薩摩藩士らが選ばれた。

しかも決まったのはこれだけではなく、全国の1/4の天領をもつ慶喜さんに対し、辞官納地を命じることになった。

後藤さんは愕然だっただろうし、慶喜さんは踏んだり蹴ったり。
この怒りのパワーが日本の大惨事の戊辰戦争を引き起こすことにつながるのですが

新政府を勝利に導いた錦の御旗についてのお話がありました。

10/6 岩倉具視さんが大久保氏(薩摩)・品川氏(長州)と打ち合わせ。岩倉の腹心の国学者玉松操に依頼しデザインをさせていた。
日本人はシンボリックなモノに弱いことをちゃんと押さえていたんですよね。さっそく大久保は西陣で生地を購入。品川は生地を受け取り長州で製作にかかる。実際の製作は長州の有職故実研究家の岡吉春が製作にかかりました。
日本で錦の御旗が登場したのは南北朝時代。また「皇旗考」という書籍にデザインもかかれていたらしく4.2m×90cmで太陽、月、菊がデザインされており全部で22琉(りゅう)完成した。

明治元年1/3(実際は慶応)15,000人対5000人(薩摩、長州)で圧倒的に討幕軍は不利。ところが1/4東寺に錦の御旗があがると同時に各藩が官軍に参加。

慶喜さんは淀城へ退却し体制を立て直そうとしたが、藩主不在で、しかも錦の御旗パワーで、慶喜さんはお城に入ることができず大阪まで敗走。

1/7には慶喜追討令が発せられ時代は大きく動こうとしている。

2010/08/16

◇2010 8/16 サッカー・ナショナルトレーニングセンター


<主な施設>
施設面数
●サッカーフィールド
・天然芝5面 
 うち1面観客席(3,032席)及び照明設備付
・人工芝9面 
 うち2面照明設備付 うち1面400メートルトラック付

●フットサルフィールド 
 ・人工芝8面全面照明設備付
 うち3面屋根付

●その他
センター広場、スポーツ広場、クラブハウス1棟、ロッカーハウス4棟
サイクリングコース、ウォーキングコース など

http://www.city.sakai.lg.jp/city/info/_sport/ntc.html

駐車場は30分まで嬉しい無料^^