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2010/10/31

2010 10/31 高杉新作立志像建立記念講演会  ~晋作と龍馬

今回の目的の一坂先生の講演会が始まりました。
はじめの15分くらいはちょっと書けない内容ですが、この時は会場から大爆笑や、「え~?」っと言うような驚愕の声で包まれていました。
私もおもわず「え~?そ、それはないやろ・・」と驚きましたwwファン心理ちうのは非常に恐ろしいものです。
さて場内はすでに先生のペース。私の大好きな落語でいうところのマクラはOK。漫才だとつかみはOK状態。

某日、一坂先生の所に某週刊誌から連絡があり、インターネットでのアンケート結果で、大好きな歴史上は?の問いに対してなんと高杉晋作さんが1位になったそう。バブル期には10位にも入らなかった晋作さん。やはり現代人=組織人であり、殿様のために・・と最後まで紛争した姿が近代人の苦悩に重なったのか・・・ちょうど伊勢谷さんの出演された龍馬伝があったからのか。
長州人はいわゆる議論好きといわれている、なかでも松下村塾では色々なお話があったようだが王陽明の影響を受けた松蔭先生は意外と冗談が大好きで色々と文献に載っているらしい。いずれも松蔭先生の面影を感じさせる冗談であり近代の親父ギャグとは程遠いよう。

さてよく一坂先生のところに質問をいただく内容として、《晋作さんと龍馬さんは何度あっているのか?》が寄せられるらしい。
まず初回は会っているかもしれないというレベル。
文久2年 上海より帰国した晋作さんは江戸で龍馬とあっている可能性が高い。ちょうど久坂さんらが、攘夷で異人を切る案件が持ち上がり、土佐藩邸にいる武市に賛同を促す手紙を送る。この中に龍馬の名前があっている。この計画はその後、武市より毛利の若殿様へリークされ寸前のところで中止となってしまう。

2回目は長州にて、高杉さんは扇面に漢詩を書き、ピストルを添えて龍馬にあげている。
文献ではこのピストルは上海土産とされているがその真偽は不明。大村の日記にはピストル購入者の一覧に谷梅之助の名前があがっている。

そして3回目は慶応2年6月。小倉口の戦い。いわゆる四境戦争。薩摩名義の長州の船を返却に来た龍馬に奇襲をさせている。この功により、龍馬は慶親公よりラシャの背広と刀を拝領し、長崎に帰っている。
ということで最低2回、ひょっとしたら3回かもしれないとの事。もちろん龍馬さんは1835年、晋作さんは1839年生まれと年が近く、実は影響を与えた人物が共に吉田松陰先生であることから話しが盛り上がったかもしれません。

龍馬さんは15ヶ月の間に江戸への剣術修行へ出かけていますが、これはあくまでも条件付。
土佐藩に何かあれば組織に加わりなさいということ。実際、黒船の出現で品川の警備につかされている。
この時点では品川には松蔭先生もいたはず。
あくまでも外国の手の内を知ってから攘夷をおこなうという松蔭先生の方針に対し、過激派の龍馬さん。ともに佐久間象山塾に入門する共通点がある。

だれもが戦争になる・・とおもいきや・・なんと幕府は3月3日に和親条約を締結。
そして3月5日には密航事件が勃発。これが原因で佐久間塾はつぶれてしまい竜馬は四国へ帰っている。
《かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂》の松陰先生の句に対し
龍馬は《かくすれば かくなるものと われも知る なお止むべきか 大和魂》と読んでいる。

さて晋作さんは16才の2月に若殿様のお付として江戸に行っている。
そして松蔭先生の密航事件を知るわけだから、おそらく藩邸はその一件でごった返しているはず。
実は晋作さんはこの時点で松蔭先生と密接な関係がある。
松蔭先生が師事していた、晋作さんのおじさんにあたる「田上宇平太」(洋学者)が帰国することになり、佐久間象山先生を紹介いただき入門しているから。
晋作さんはあくまでも内戦により幕府崩壊をつぶすことを考えており、これは中岡氏の「時勢論」に影響を受けている、すなわち晋作さんと龍馬さんは方針が違いすぎるわけで双方のコミュニケーションは無かったのではないかと考えられる。

そんな晋作さんも亡くなる4ヶ月前の父に宛てた手紙では「親不幸ばかりすてきましたが唯一の孝は、孫を残せたこと」と書いている。
また直前には「萩に帰りたいが、かごに乗って帰る体力はもう残っていません。蒸気船が見つかったら帰りますのでひょっとしたら突然帰国するかもしれません」と送っている。
自分の命の灯火が尽きることをしっていたのでしょう。

※文章は一坂先生の言われたことを元に私が脚色している箇所がありますのでご注意ください。

やはり一坂先生のご講演は非常にわかりやすいことで大人気の様子。終了後30分以上たってもファンに取り囲まれていたちょっぴりはにかんだ一坂先生のお顔が印象的でした。
もちろん、江里先生とおなじおく、晋作さんの像の前で記念撮影をしていただきました^^

2010 10/31 高杉晋作立志像建立記念講演会 ~立志像ができるまで

午前中に開催された除幕式に続き、会場を変え萩博物館の講演会室にて銅像を製作いただいた江里敏明先生と一坂太郎先生の記念講演会が開催されました。

江里先生は通常公開を行わない銅像の製作工程を全て写真に映されており、今回の講演会ではその写真を元に解説をいただきました。
江里先生と、この萩の関わりは、6年前に開府400年記念で毛利像を作成したことに始まります。

さて、今回の高杉晋作像は、ポートレート等で有名な散切り頭ではなく、月代、ちょんまげ頭に紋付、袴に刀を携えた像で、これは20代前後をイメージされており、昼間は明倫館へ、そして夜には松下村塾へ通う若かりし高杉新作さんです。

【工程】
2009年6月に依頼があり、打ち合わせの後、イメージ膨らませてスタンド付の針金の芯が完成したのが2010年1月~2月。
そして2月末より粘土で肉付けをしていかれますが、このときの高杉さんはなんと裸像。
その肉体美は現代の男性の筋肉美に大差ありません。
この時点で粘土の重さは400キロ!そして次の工程ではこの裸像に草鞋や袴を付けていかれると同時に随所に芯柱を入れられます。
そして4月半ばにはようやく刀を持たせ、羽織を着せてゆかれます。

さてこの段階で当初の完成形のイメージが具現化されるわけですが、先生曰くなにかが足らない・・との事。

なにか力強さが足らないということで、江里先生のされたことは、なんと上半身をつぶして一から再作成。
このお話の瞬間、会場から一斉に「え~~?」という大きな驚きの声が聞こえました。
その後、首の位置を後ろにずらせ、胸を張った姿にされ、これでようやく今回の形となったわけですが時はすでに8月22日。

全体に石膏をまんべんなく振りかけては麻を貼り、石膏が1センチの厚みになるまで延々と続けられます。
次に石膏のそれぞれの端に打ち込んだ鋲から順にパーツごとに切りわけて、パカッと取り出して中の粘土をはずします。
そのはずした石膏の中面にはポリエステル樹脂を塗り、FRPを貼ってゆきます。そして元通り組み立てて石膏を割ることで原型がようやく完成となります。

鋳造所へ運び、その原型の上に覆いかぶさるような型を作成し、銅を流し込む4箇所の穴から一斉に銅を流し込みます。
実は純粋な銅ではなく、銅が90%、錫5%、亜鉛・・などの内緒の配合比とのこと。
冷えて固まったら原型を叩き出す作業でこれが細部にいたるまでの非常に緻密な作業でした。
さて、ようやく完成したら最後は硝酸を吹くことで緑錆を発生させることでようやくホントの完成となります。
この480キロの銅像は台座に2本のボルトで留められています。

最後に、先生より銅像の大半は触ってはダメと言われているが、本当はみんなが触ったほうがキレイに、そして好い風合いが出るといわれてお話は終了いたしました。

この萩博物館には銅像制作時点で型として残ったFRPの像が展示されています。せっかくなのでその前で先生と記念撮影させていただきました。
本当にありがとうございました。

2010/10/28

2010 10/28 像建立記念講演会

松下村塾に通っていた頃の高杉晋作さんの立像(高さ1.8m 台座を含めて3m)が萩の晋作公園にできるそう。除幕式は10/31日。龍馬伝で晋作さんを演じられていた伊勢谷 友介さんもお見えになるらしいです。

■銅像建立記念講演会
10月31日(日)午後1時~3時30分 
萩博物館講座室 先着100名
「立志像ができるまで」 江里敏明(京都:日展評議員)
「晋作と龍馬」一坂太郎 (萩博物館特別学芸員)

もちろん♪台風なんでなんのその♪いってきまーすww
除幕式ってそう滅多に見られるもんじゃなし。

どうぞ台風さん。。。

消えてくださいww

2010/10/24

2010 10/24 めふ乃寄席

毎年、この秋期開催のめふ乃寄席は会場であるピピア売布の開業イベントと重なりますのでスペシャルゲストが来られます。(昨年は桂春団治さん桂雀松さん)今年は桂小春団治さん、春野恵子さんということで特に初めてナマで聞く浪曲にはチケットを入手した前回の時点からすでに興味津々でした。

林家竹丸 桃太郎
すぅっと流した感のある桃太郎。それでも笑い所をちゃんと押さえて居られるため
笑いが頻繁に起こります。なんとなく堅かった場内の空気が和らぎました。

桂阿か枝 百人一首

上方落語家では誰もしないという珍しいお話。
広げてあった百人一首の歌を見つけた。持ち主に順に解説してもらうがその内容を
すかたんに捉えてしまういう話し。
天智天皇、持統天皇と進み西行法師がもともと佐藤義清(のりきよ)であった頃に身分の高い女官との逢瀬から「次は?」の問いに対し「あこぎじゃ」と言われた為に出家したエピソードを持ち出し落語で有名な<鼓ケ滝>の話しを交えながら進んで行きます。そこで百人一首の編纂画ある事をしった西行は・・。

本題もさることながらマクラの「われ泣きぬれて蟹とわはむる」の啄木の歌が耳について離れません。
あ・・ホントは書きたかったんですけど、残念ながら亀の甲羅の上に・・・の時の歌や逢瀬の際の歌のやり取りを覚えられませんでした(;・∀・)


桂小春団治 冷蔵庫哀詩

抱腹絶倒の爆笑ネタ話。掃除機やテレビの話しはおもいっきりあるあるネタ。そして
本題はどこの家にもありそうな冷蔵庫の中身がなんと擬人化したという奇想天外な世界観。
その世界の中で、ハーゲンダッツのラムレーズンアイスとグリコプッチンプリンが恋愛したり、マーガリンとジャムがケンカしたりのどたばた話し。冷静沈着な「ホタルイカの沖漬けはん」がいい味を出しています。
小春団治さんの創作落語にはいつも驚かされてしまします^^


春野恵子 好色五人女樽屋おせんの段

私がまだ子供だった時に朝5時頃から、祖父や祖母が小1時間くらいラジオで聴いていたのを思い出しました。なので浪曲ってすごく懐かしい記憶があります。
麹屋の法事のシーンから始まり、長左衛門が落とした小鉢が原因でおせんの結い上げた丸髷が
崩れてしまいます。そしてあらぬ疑いをかけられて・・。あとは映画を見ているようにイキイキと脳裏に情景が浮かんで参りました。
女流の浪曲士さんの芸にはまったく抵抗が無いのですが、なぜか女流の落語家さんのお話には抵抗があるのは何故だろう?ってふと頭の中を疑問がよぎりました。

林家染左 淀五郎

実は浪曲が終わって舞台が掃けた後にずっと独特な空気が漂っており、それは幾重にも織綴られた繊細な日本映画を見たあとの印象に似ていました。この空気を果たして染左さんはどうするのか?と心配にさえ思った程。まぁものの見事に染左さんの世界へ連れて行ってくださいました。
仮名手本忠臣蔵の初の大役である塩冶判官高貞を演じることになった淀五郎。見せ場である切腹のシーンに込められた強烈なダメだしに込められた意味を皮肉な言葉に込めながらも成長することを願う市川團蔵。そして見事に・・・。

今日のめふ乃寄席は実に見どころ、聴きどころ満載でした。

2010/10/23

2010 10/23 トップリーグ第7節

昨年の4月に初めてラグビー観戦に行き、8回目の観戦です。
今日はトップリーグ第7節。

第一試合は豊田自動織機シャトルズVSリコーブラックラムズ。結果は13対46。

豊田自動織機シャトルズは今年からトップリーグの仲間入りをしたチームでご縁があってキレイな団扇に<織>と書かれた団体の中に紛れ込んで観戦していました。
私はトップリーグの場合は必ずラジオを携帯していて79.5Mhzで太田先生の解説を聞きながら観戦しています。

その解説の中でも頻繁に言われていたのがノックオンの多さでしょう。
ボールを前にこぼさない・・ってそんなに難しい事なんでしょうか。あ・・私は素人なので無理だけどどんな分野のスポーツや芸術にも似たようなチョンボってるとおもうんです。
そのチョンボで流れがブツブツと切れちゃって自滅した感があるようにおもいました。

事前にリコーの15番の「ラーカム選手」の事を聞いていたので自然と目が行ってしまいます。
おもいっきりトライに絡むナイスアシストがあって、後半は怒涛のリコーの攻撃でシャトルズにとっては厳しい結果となりました。

さて第二試合は近鉄ライナーズVSトヨタ自動車ヴェルブリッツ。結果は21対17。
ノット・ロール・アウェイが原因でシンビンとなり2番と9番が抜けたものの近鉄ライナーズが逆転を果たしました。元々シーソーゲームな展開な上に、5m手前からトヨタの波状攻撃を防ぐシーンが何度もありとっても盛り上がったゲームとなりました。
トヨタのアイイ選手がいきなりPGで得点を挙げましたが以降、近鉄に封じ込められてしまったようで残念した・・・って書くとどっちのファンやねん?となりますよね。
トヨタのイェーツさんが出ていなかったので近鉄の応援に加わったのでした^^

ミニFMで私の投稿が読み上げられたんで感激でしたww

2010/10/17

2010 10/17 桜田門外ノ変

今から何年前になるでしょう。ある日、自分にまったく歴史の知識が無かったことに気がついたのは。
せっかく様々な歴史がうずもれている大阪に住んでいながら地元の歴史すらしらないなんてあまりに情けないっておもって、色々と学び出したのがキッカケです。
そんな当時の私が「桜田門外の変」に対して知っていたのは「大老 井伊直弼が桜田門外で過激な武士に暗殺された」だけ。おそらく歴史に興味の無い方々はこの程度の知識しか無いでしょう。

このテーマは「2009 7/18 安政の大獄と井伊直弼」で語られていますのでもう下知識はバッチリで鑑賞しにいきました。それでもこの事件の背景や様々な人とのかかわりと計画が緻密に描かれていてあらためて認識しました。
そして事後にに直接的にかかわった水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士、家族などの関係者が次々と壮絶な亡くなり方をしていくそのシーンは非常にスリリングで何度も目を伏せてしまいました。
実際は井伊直弼を護衛していた彦根藩の者のほぼ全員が切腹や斬首となっていることを考えると、安政の大獄で次々と命を奪ってゆく井伊直弼の命を奪う為にどれだけの命が失われたのかを考えると胸が痛くなります。

■教科書に書かれない幕末史
http://sweet-mikan.blogspot.com/2010/04/2009718.html

13代将軍就任後にすぐさま起こる跡目候補擁立問題で南紀派と一橋派の争いが水面下で繰り広げられるそんな中にまた大問題が勃発。
黒船来航による脅威とその対応問題を幕府のみで処理したのをチャンスとして一橋派は井伊直弼を非難。
ところが謹慎やらで逆襲されてしまう。そこで一橋派は朝廷に働きかけた結果、幕府の頭を飛びこた形で勅状が水戸藩に降りてしまう(戊午の密勅)。この事件の黒幕探しで一橋派に対する執拗弾圧が始まり(安政の大獄)勅状は偽者であるという事で水戸藩に返却を求める幕府に対し藩内では様々な意見が飛び交うことになり、ついに井伊直弼襲撃の話が持ち上がる。狙いは薩摩が3000人を京都へ挙兵、制圧し幕府を転覆させられる。ところが運命は皮肉なもので、了承を得ていた薩摩藩主の島津斉彬氏が急死してしまい島津久光は方向転換をしてしまい、計画はすべて頓挫してしまうことに。

生瀬 勝久演じる高橋多一郎は大阪寺町を抜け四天王寺近くの茶屋で見つかってしまった結果、執拗な追っ手からついにここまでと、壮絶な死を迎える。実際この親子のお墓は四天王寺さんにあり、墓標には<怨霊消滅>と描かれているくらいだからよほど凄まじい死だったのだろう。

■公式サイト
http://www.sakuradamon.com/

2010/10/16

2010 10/16 教科書に書かれない日本史 神戸事件と伊藤博文

菅総理が奇兵隊内閣云々と言った件は色々アメディアを賑わしました。その後国会で色々な議員が幕末の志士を尊敬していることを話したらしいですがその実像を知らないで簡単に言葉にするのは足をすくわれる元となってしまいます。特に菅さんの奇兵隊のイメージ実際とは相当違うようです。特に間違って理解されやすいのは「奇兵隊は倒幕のために組織された軍でもなければ、有終の美を飾り円満に解散したわけでもない」
それでも固執するのは、歴代の総理大臣を8人?(菅さんを入れたとすると9人)排出した長州出身というネーミングは、いわば政治家の一流のブランドなのでしょう。
長州が輩出した総理大臣の中でも誰もが知っているのは伊藤博文氏。この伊藤氏は非常にラッキーな星を背負っていたらしい。

天保12年に生まれた林利助(ちなみに高杉さんは同10年、松蔭先生は元年生まれ)。父である十蔵と村とのトラブルにより萩へ出稼ぎに行くことに。その出稼ぎ先で下級武士(足軽:中間)伊藤弥右衛門に気に入られ、また男子が居ない為に伊藤家の養子となったので伊藤姓を名乗ることとなった。
そしてちょうど世間は黒船騒ぎ。萩藩は幕府より三浦半島の警備をおおせつかっていたので、もちろん伊藤少年も1年間の予定で警備に着いた。その先で赴任してきた来原良蔵に付いて学ぶ機会を得る。さて1年が経過する際に来原良蔵は、伊藤氏の勉強熱心さに打たれ、萩にある松下村塾を紹介したことがきっかけとなり伊藤氏の塾通いがはじまる。そしてまたまたラッキーなことに自宅から数百メートルしか離れていないので熱心に通うことができたらしい。

長州藩はとてもおもしろい藩で、表向きは攘夷を唱えながらも、裏ではイギリスへ留学生をおくっている。その中に入っていたのが伊藤氏。彼には実績が会ったが、それでもネーミング不足だったのか不思議なことに、王政復古の大号令で強引に樹立した新政府。その中に伊藤氏は入っていない。
再度留学を目指すための船を捜すために伊藤氏は下関から神戸に向かい慶応4年1/12に到着した彼が見たものは・・・・・・・・・・・・。

前年12/9に王政復古。1/1に慶喜さんの倒薩の檄。1/.3に鳥羽伏見の戦い、そして1/10に大阪城引渡しが起こっているそんな背景で、行動の読めない尼崎藩(譜代大名)を牽制するために新政府は岡山藩に西宮まで進軍する命令を出した。当時の岡山藩の家老は日置建帯刀(ひきたてわき)。2000名を出兵し西宮を目指したその中の分隊500人が、1/11に大倉谷の宿場を出発し正午頃に神戸村三宮神社辺りを通過したそのときに、居留地から神社側へ行く為に500人の行列横切ろうとしたフランス兵2人。もちろん無礼な話である。滝善三郎(第3砲撃隊長)はヤリで追い返した再に軽症を負わせてしまい、この事件が発端で発砲騒ぎにまで発展してしまう。(神戸事件)居留地を迂回する徳川道を通ればこんなコトにならなかったのに。

さて、この事態をチャンスと捉えたイギリス公使パークスはなぜか激怒。アメリカやフランス公使を炊き付け居留地以外の場所を占領した上に、港に泊まっていた各藩の船を拿捕してしまう。

そんな事態が発生した翌日に登場した伊藤氏。幸いにパークスや各公使と顔見知り。
事情を聞いて仲立ちをしようと向かった結果、パークスはこの事態を利用して新政府と各国の力関係をはっきりさせておきたかったコトを目的に、王政復古から1ヶ月以上経つのに各国へ通知の無いことに苛立ちをもっていたことがわかった。
伊藤はすぐさま大坂にいる東久世通禧(外国事務総督)に会い、事情を説明し、すぐさま神戸の運上所に各国公使を集めて<新政府の貿易の窓口>であることを宣言した。(対外和親の布告)
後にこの働きによって伊藤は外国事務係に就任し、政治の中枢へ入ってゆくラッキーな方。

さて神戸事件に対して外国側は岡山藩から責任者を出して死刑にすることを新政府に要望。
まさか、フランス兵2人の軽症に対して切腹を求めるってどうよ??

各国公使で話し合いが行われ、さすがに言いすぎた感のある弱腰になったパークスに発破をかけて切腹を譲らなかったフランス公使のロッシェ。
その結果が新政府に届きこんな無茶な要望は受理しないだろうとおもっていたが、まさか・・まさか新政府の交渉をおこなった伊藤はこの条件を飲んでしまい、岡山藩から【滝善三郎氏】が名乗りをあげついに切腹することになる。
そして2/9に切腹が行われた。(現在のカネテツの工場の辺り)

現在もその遺書は岡山と神戸の子孫の自宅に残っているらしい。
この様子はアーネストサトウ氏や様々な文献で様子が書かれており、<日本=ゲイシャ・フジヤマ・ハラキリ>のハラキリはこの滝善三郎氏の切腹を始めてみた外国人が比喩した言葉とのこと。

そのときの様子は文献に書かれているが実はそれらの文献にはあまり書かれていない下記の言葉を一番初めに呟いたそう。

「私は遠国の者(おんごくのもの)故、朝廷が外国人を大切に扱う方針になっていたとは知らなかった」二枚舌を持つ新政府を批判した痛烈な言葉。

一坂先生は実はこの「教科書にかかれない幕末史」の講座の初回にこんな事を言われています。

日本を始め世界中の歴史は強者や勝者の歴史。本当はそこのには敗者や弱者の歴史がうずもれています。その歴史を調べる事で事実を知る事ができると。

まさにそのとおり。今の政府も二枚舌にならないようにして欲しいものです。

※注意) この文章は一坂先生が言われた内容に対し、私が文脈を色々と追加した内容です。

2010 10/16 大切な言葉

2007年のクリスマスが終わった翌日から2008年の初めにかけて病院で過ごました。
年末年始を病院のい冷たいベッドの上で過ごしました。
あの、お米の形が無く、お碗に自分の顔が映るくらいのお粥を食べた年末の寂しさは忘れる事ができません。
あらら・・私・・何してるんだろ・・ってつい自暴自棄になりかけた年末。

そしてようやく2008年になり、ようやくベッドから起きる事ができて、ふと見つけた病院のロビーに掲げられていた額にかかれていた言葉がすごくショックで、おもわず写真を撮りました。
事務局へ訪ねたところ、院長さんがか海外へ行かれた際に
知ったそうでどうやらニューヨーク大学リハビリテーション科の患者さんがつくられた詩のようです。


大きなことをなし遂げるために
力を与えてほしいと神に求めたのに
謙虚さを学ぶようにと弱さを授かった

より偉大なことができるようにと健康を求めたのに
より良きことができるようにと病弱さを与えられた

幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった

世の人の賞賛をえようとして成功を求めたのに
得意にならないようにと失敗を授かった

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いは全て聞きとどけられた

神の意にそわぬもとであるにもかかわらず
心の中の言い表せないもの全て叶えられた

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ




甘えちゃダメなんです。
人は謙虚であるべきなんです。
そして感謝の心を持ち続けることなんですよね。