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2013/09/29

2013 9/29 第7回イーグル寄席 

はやいもので第7回となりました。
今回より会場は元のパーティールームへ戻り、落ち着いた雰囲気での開催となりました。
この回は中堅以上を担う方々のお三人の会で確実に笑わせてくださるほんとにお買い得な会で、できるだけ毎回参加したい落語&講談会です。
 
 
「兵庫船」月亭 天使
見せ場はなんといっても船の中で繰り広げられる謎かけのシーン。オーソドックスな展開でしたがきっちりとした口調で好感が持てました。


 「太閤の初陣」旭堂 南斗
独特の雰囲気がある南斗さん。
その秀吉がまだ駆け出しであったことの様子が感じられました。
 
 
「悋気の独楽」桂 枝女太
マクラではいろんな会場での落語会でのエピソード、会場を爆笑にしました。
ネタのほうでは特に丁稚定吉の困った様子が印象的で、またお竹どん、ご寮さん、旦那等が繰り広げる江戸商家の様子が感じられました。
 
 
「阿武松緑之助」旭堂 南左衛門
マクラでは秋場所のお話から本題へ。
2回目であるためか、前回よりもストーリーがスッと頭に入ってきました。
 
「崇徳院」笑福亭 仁嬌
 
<瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ>
たっぷりと笑わせてくださいました。サゲは鏡が割れるパターン。

2013/09/21

2013 9/21 歴史と人間 勝海舟

今日の歴史と人間講座は勝海舟さんに関する考察。

いろんな書籍やドラマにも登場しているメジャーな方な印象だけどまだまだ知らなかったことがいっぱい。

勝海舟さんのいろんなお話は「氷川清話」を手掛かりに知ることができるけれど、勘違いや思い違い、また誇張があるのでそのまま信じるのは危険です。
晩年、東京の氷川には、東京朝日の池辺三山、国民新聞の人見一太郎、東京毎日の島田三郎らがしょっちゅう訪れて、海舟の談話を聞き書きし「氷川清話」としたそう。その内容を編集しなおして吉本襄が大正3年に日進堂から刊行した『氷川清話』が有名。

本名は義邦、通称は鱗太郎。文政6年1月30日生まれ。
海舟という号は、佐久間象山の書『海舟書屋』からいただいたものだそう。
http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/edohaku/app/collection/detail?id=0189204082&sr=%8A%43%8F%4D

海舟のさまざまな資料を収集していた方のおかげで現在も見ることができる。両国にある江戸東京博物館へ行ってみたいものです。

さて、海舟さんはご存知下級旗本の家に生まれます。もともと彼の祖父は越後国刈羽郡長島村字平沢出身で現在の新潟県おじや市。米山平蔵(よねやまへいぞうは盲目)であったが17歳で江戸へ出てくるが幕臣の家の前で行き倒れとなる。その幕臣の家を賭場として貸していたことが縁で商売の才覚を得て財産を築き9人の男の子を設ける。この3男が海舟の父の小吉。また末子の平蔵に3万両で男谷家の株を買い継がせたことで士族となる。
小吉は7歳の時に勝家(41石)の養子となりその後婚姻。海舟が誕生している。
(勝家の祖先は物部氏に通じているとのこと)
さて父は小普請組。ほぼ無職!そのためか道場破りや道具屋や刀の目利きをしていたそう。ここでいう目利きとは小塚原の罪人の死体で試し切りをすることだそう。
22歳の時に麟太郎誕生。大奥につながりがあったらしく7歳の時に江戸城見物に行くときに人生の転機がやってきた。
なんと11代将軍家斉に眼を付けられ、孫の遊び相手として初之丞(發之丞、後の一橋慶昌)の遊び相手として西丸御殿へ出仕することになる。
9歳の時に犬に睾丸を噛まれ70日もの間に生死の境をさまよう。父は水垢離をして回復を祈った。(妙見堂=現存)
天保9年16歳の時に小吉(37歳)は隠居!家督を継ぐこととなる。

最近になってようやく海舟の胸像ができたらしい。
H15に墨田区区役所内。そしてもう一か所、これは能勢妙見堂東京別院(安永3年=1774年に創建された、大阪能勢妙見山の唯一の別院)の境内にある勝海舟翁之像。
意外と少なくて人気が無いのでしょうか。

さて、剣術は従兄弟の男谷精一郎の道場と島田虎之助の道場で修行。直心影流の免許皆伝。また弘福寺で4年間の間に禅の修行をおこなっている。また永井青崖に蘭学を習ったがこの洋学はすなわち西洋兵学を指している。
適塾でも有名なズーフハルマ(当時60両)を1年10両で借受て、2年かけて写し取っており1部は売却している。

28歳で父の小吉が亡くなる(脚気49才)。2年後、海舟の妹が佐久間象山と結婚。そして31歳の時にペリーの来航となる。

この時に求められた意見書がきっかけで幕府へ入ってゆく。
この意見書は5条からなり、鎖国か開国かを説く内容ではないことから注目された!

後に洋学所の準備室長となり大阪湾(摂海)防備の視察に来ている。その後長崎海軍伝習所へ行く命を受ける。
ペリーが来てすぐに幕府はオランダに軍艦を1隻発注している。その折にオランダからはもう1隻と教習官付でプレゼントされることとなりその場所を長崎としたため。
この伝習所には薩摩藩、長州藩や佐賀藩等総勢174人もいた。勝は4年を過ごしている。

安政4年春。
江戸にも伝習所を作る話が持ち上がり移動することになりそうだったがオランダの教官も帰国し入れ替わることから勝は長崎にさらに2年残った。
この時に咸臨丸で航海練習。島津斉彬との会談を行っている。

ようやく江戸に帰り海軍の教授となっている。その時、江戸は安政の大獄の風が吹き荒れている。

勝はとても運が強い。
井伊直助の性格からして藩の重役であったならば、安政の大獄の餌食となっていただろうが、勝が長崎へ行くときは小十人組(年100俵)。長崎に2年残ったことがラッキーだった。

その後咸臨丸にて47日かけて品川からサンフランシスコへ行く。
乗員は100名程度。
アメリカの技術には驚かなかったが身分制度の無いことに非常に驚いたらしい。

氷川清話引用

 「ここにおかしな話がある。何も時事を諷するわけではないが、俺が初めてアメリカへ行って帰朝したときに、御老中から『その方は一種の眼光を具えた人物であるから定めて異国へ渡りてから何か眼を付けたことがあろう。詳らかに言上せよ』、とのことであった」 「そこで俺は『人間のすることは古今東西同じものでアメリカとて別に変わったことはありません』と返答した。
 ところが『左様であるまい、何か、変わったことがあるだろう』と言って再三再四問われるから、俺も『左様、少し眼に付きましたのは、アメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、皆その地位相応に怜悧で御座います。この点ばかりは、全く我国と反対のように思いまする』と言ったら御老中が目を丸くして『この無礼者、控え居ろう』と叱ったっけ」

文久2年 軍艦奉行並 1000石

勝の対外政策はおもしろい!
兵庫、対馬、朝鮮、支那の三国連合を作り欧米に対抗するというもの。

文久3年 家茂と摂海の視察
その後に大阪西本願寺で過激攘夷の姉小路公知と会談を行っている。

2013/09/15

2013 9/15 第28回柳谷観音・泰聖寺講談会 ~講談と落語を楽しむ会~

第28回柳谷観音・泰聖寺講談会  ~講談と落語を楽しむ会~

 
台風18号の到来で朝から風雨が強く客足が心配されましたが、なんと会場は超満員!
1年位前まではお客様もまばらだったのに、ありがたいことです。 

開演の5分まえよりご住職さんのお話がありました。
来週よりお彼岸となりますがみなんさんは供養をしていますか?の問いでした。
供養は回向ともい読み替えられますが本来はお接待の事だそう。
あの世から帰ってきてくださったご先祖様をお接待し喜んで帰っていただくという意味と
捉えられますがお接待と捉えることで、互いにお接待をし合うという事もあり得るということで納得です!


「藪井玄意・孝行の妙薬」 旭堂 南斗
十三まいりのお寺として有名な大平寺さんにある北山不動明王 は名医の北山寿安(北山友松子)が建立している。この方が藪井玄意のモデルだそう。
ある家の嫁が姑のいじめに耐えかねて毒殺を企て、名医の藪井玄意先生に相談にいくが。。。

 
「水戸黄門・牛盗人」 旭堂 南舟
貧しい暮らしの百姓家。牛泥坊をした父を、その息子が代官所に通報したという。
その意図は。。


釈芝居「赤穂義士伝・八百屋甚兵衛
何度か楽しませていただいたこの講談のお話を南青さんを中心に南舟さん、南斗さん、そして南左衛門さんが実際に演じるという釈芝居。
講談話なのでセリフがちゃんと割り振られている上に、普段からちゃんと話分けているからこそできる釈芝居なのでしょう。
見どころ、笑どころがいっぱいでした。


「楠木正成の初陣」 旭堂 南青
生まれたときから利発であった多門丸。のちの楠木正成。13才になったときにあまりの利発さから、付け狙われることに。数々の危機を逃れついに初陣をむかえることに。


  「住吉駕籠」 桂 雀松
2013年10月に3代目桂文之助を襲名予定の桂 雀松さんの住吉駕籠。
やっぱ楽しいですねー。ストーリーもそのあらかたのセリフまでわかっているのに
心の底から笑ってしまう!演者さんによってこうも違うのですね。

 
「阿武松緑之助」 旭堂 南左衛門
【おおのまつみどりのすけ】は実在の人物であったらしく石川県能登の出身。
武隈部屋を追い出され、自害を決意し宿屋に飛び込んだがその亭主とのご縁で
別の部屋で出直すことに。
そのユニークなエピソードとラストを飾る取組の一番は。。

2013/09/11

2013 9/11  松陰先生の言葉

己れを以て人を責むることなく、
一を以て百を廃することなく、
長を取りて短捨て、
心を察して跡を略らば、
則ち天下いづくにか往くとして隣なからん。
 
 
 
 
とっても心に沁みる松陰先生の言葉です。
 
つい他人を自分の尺度で判断してしまって、その人のことを批判し決めつけてしまったり、
つまらないレッテルを貼ったり、色眼鏡で見てしまったり。
 
誰にでも長所や短所があるのは当然、
相手の気持ちになって物事をすすめてゆきたいものですね。
 
そうすることで知らず知らずのうちに自分は成長するのでしょうね。
 
怒りは身を滅ぼすものです。



人の巧を取って我が拙を捨て、人の長を取って我が短を補う

といったのは桂小五郎さんです。

2013/09/01

2013 9/1 彦八まつり・わつか市

この1か月間のドタバタ騒ぎと溶連菌疑惑で不参加。
しかも大阪は鉄砲雨で今日は体力温存(m´・ω・`)m ゴメン…

2013/08/24

2013 8/24 歴史と人間 桂小五郎

国内にはいろんな観光地があるが、それぞれにその土地や人物でのエピソードを柱として成り立っている。とくに幕末には誰々がXXをした場所であったり、柱傷であったりそんなエピソードが盛りだくさん。ところが当時にはそんな建物はなかったり、事実を証明することができなかったりというように観光偽装があるようです。

さて今日は桂小五郎について。

萩城下の江戸屋横丁の和田家(医者)の家に生まれる。この家は藩士で20石。父は和田昌景(まさかげ)。彼は周南のよぶさかで生まれている。もともと和田家は毛利家につながり後妻の間に生まれたのが小五郎。(天保3年6月)前妻の長女の旦那に和田家を継がせていたので彼は次男として育てられた。
8歳の時に近所にすむ桂家の家が断絶しそうということで養子として迎えられる。この桂家は八組に属し非常に名門。末期養子という立場のために60石を減じられ90石となる。
この桂家も毛利(大江)と繋がっていることから非常に誇りをもっていたよう。
小五郎の書に時折<大江孝允>と書かれていることがある。孝允は所謂ところの諱。

10歳で漢学を学び始め明倫館へ通う。
14歳で藩主の前で詩をつくる。

この時に父に『日本外史』『日本政記』(いずれも頼山陽)を買ってもらい読破。皇室の衰えを感じたと同時に皇室とのつながりを感じたらしい。

1854年和田昌景が亡くなり遺産が入る。

このタイミングで明倫館が拡大し、小学校から大学までの機能を保有。

その3年後、斉藤新太郎がやってくる。彼は神道無念流の剣術化の息子で、剣術の修行のために萩へやってきて明倫館の腕利効きと試合を行うが、明倫館側はことごとく負けてしまう。
※この背景として、この時期は黒船騒ぎで空前の剣術ブーム!江戸での道場の宣伝として道場破りのようなスタイルがあったらしい。
この試合に明倫館側が負けたことで藩側が5人を選んで1年間、官費で江戸へ修行に出すことを決定。しかし小五郎は腕が無くて選考に漏れてしまった・・そこで彼は自費で3年間の修行の許可を藩よりもらうことになる。

江戸での小五郎は練兵館の塾頭となる。塾頭は剣の腕だけではだめで人間的な魅力等が必要であったそう。

嘉永6年の黒船騒ぎから、江戸湾品川に砲台を建築する(品川台場)ために採用された江川太郎左衛門のプランに沿うためにコネを探して小五郎は従者となりいろんなお手伝いをすることができた。

また、12月には藩主に対し「現在は兵力が不足している。地元農民を兵士として採用し外圧をはねつけては?」という意見書を出している。⇒騎兵隊?

さて、幕末には欠かせない人物の吉田松陰先生は3歳年上。18歳のときに明倫館で教授を行っている。誤解されているが桂小五郎は松下村塾塾生ではなく、松陰先生は小五郎を同志として接していた。松陰の密航に関する件も小五郎には相談をしていた。

この時期にプチャーチンの船が大破して帰国できないというトラブルから日本は伊豆に
造船所を作っている。

1855年4月萩へ帰国。翌月、藩へ造船製造技術を学ぶためへの許可を藩へ願い出ている。

***人の巧を取って我が拙を捨て、人の長を取って我が短を補う。***という手紙を松陰先生へ送っている。

安政5年8月10日26歳になり、お城へ初出仕。 大検使役で櫓方の管理。(米等の出納管理)
そこで松陰先生の死を知ることとなり伊藤俊介の従者となって遺体を受け小塚原へ埋葬をする。

その後、桜田門外の変がおこり、全国の大名による合議制の政治をおこなうべきと政治家を目指すこととなった。
小五郎は独自のネットワークを築き、丙申丸(長州藩の船)で水戸藩士と成破の約を交わす。(個人的な約束)

井伊直助亡き後の安藤久世政権は、いわゆる朝廷の権威を幕府へ取り込むことで力を強めることを目指すために和宮降嫁を行おうとしていた。これは対外的にも朝廷と幕府は一つであるというポーズであり、朝廷に対しては鎖国攘夷を行うことを約束していた。これは現代にもよくある手法で国内の怒りの矛先を他へ向けるために方策。これにより水戸と彦根の衝突を回避することができた。

ところが坂下門外の変で安藤が失脚。島津の1000人の兵の上京で、公家の力をつかって幕府を動かした事で毛利との対立が表面化。毛利は奉勅攘夷を藩のテーマとして掲げ楠公湊川の決意で臨むことを決める。特筆すべきは当時の太平記と現代の太平記は微妙にニュアンスが違っているが、精神力でしか勝てない相手と戦う時に菊水や奉勅、皇国等とあらわされることがある。

周布政之助は「攘は開なり 開は排なり」と言っている。そんな裏で長州ファイブが出現する。まさに不思議な藩である。


下記は松陰先生の言葉。
己れを以て人を責むることなく、一を以て百を廃することなく、長を取りて短捨て、心を察して跡を略らば、則ち天下いづくにか往くとして隣なからん。

2013/07/28

2013 07/27-28 ウッディパル余呉

先週末はちょっと奥琵琶湖へ避暑へ行ってまいりました。

大阪から車で2時間ちょいとはおもえないくらいで適度な山奥感のある余呉。

BBQはほんと久しぶりでみんなで夜遅くまで楽しみました。

お借りしたロッジは不思議なくらい虫一匹いない清潔そのもののの室内。

お手洗いもお風呂場もそこらのビジネスホテルよりキレイです。

1棟ごとにBBQスペースが目の前にあるのですごく便利!

これでお値段が 6人部屋で¥18,000ですからすごくお値打ちっ!
また秋口には行ってみたいものです。




2013/07/24

2013 7/24 講談「サムライの洋行」「袖解橋の御難」

下記の記事が一坂太郎先生のHPに掲載されていましたので転記いたします。
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○講談「サムライの洋行」「袖解橋の御難」

長州ファイブ密航留学150年記念。
若き日の井上馨らを主人公とした旭堂南左衛門氏の講談2本にそれぞれ一坂の解説が付きます。とくに元治元年9月の事件を扱った「袖解橋の御難」は井上本人の監修を経ているとされる貴重なものです。

日時 平成25年10月20日(日) 16:00~18:00(予定)
場所 萩の御厨高大(萩バスセンター裏手)
お問い合わせ・お申し込みは 萩市観光課(TEL0838-25-3139)まで
会費等未定。定員100人


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http://www.h2.dion.ne.jp/~syunpuu/html/jyouhou/jyouhou.html


開催が土曜日だったら行ったのに。。。残念  orz