今から数十年前にはじめて参拝した浄瑠璃寺、いままで何度行ったことでしょう。
https://sweet-mikan.blogspot.com/2011/01/2011-19.html
数年ぶりに当尾に行くと、ニュータウン化が進んでいて驚きました、また新しい道路もできており便利になりました。
さて、山門近くの有料駐車場に車をとめて山門へ。いつも昼食をいただくお店が・・・あれ?閉まってる?
いつも、やなぎ屋さんっていう食堂でとろろ蕎麦を食べたり甘酒を飲んだり・・。
その相手は家族だったり大切な人だったり親友だったり。かならずこのお店でいただいていたのに。
向かいのお店で聴いてみると、お店をされていた老夫婦さんはすでにお亡くなりになられていてお店はあけられていないとの事。
残念でたまりません。
やなぎ屋さんをすぎると馬酔木の甘酸っぱい香りの参道です。また蝋梅も満開でした!
はい。かわいい山門です。この山門をくぐると撮影禁止!
本堂手前の受付で入山料と御朱印帳をお渡しし記載していただきました。
薄暗い本堂の中にはピンっと張り詰めた空気の中に、1000年以上前から私たちを見つめてくださっている阿弥陀如来さんや表情豊かな四天王立像、そして不動明王と矜羯羅童子と制多迦童子。
正座してそっと手を合わせるとなぜだか涙が止まりません。
母の事、家族の事、自分自身の事、まだまだ悩みはつきません。
右へいくの?左にいくの?それともまっすぐなの?
本堂を挟むように、大きな池があります。
本堂側が彼岸、そして撮影している側が此岸を表しています。今日のような春の麗らかな柔らかい日差し。誰もいない境内。
思いにふけるのに最高でした。
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フランス風懐石料理中華風・・・寺社仏閣が大好きです。 大阪市内に居ますが九度山と信州上田が心の故郷です♪尊敬する人は真田昌幸さんと幸村さん親子・吉田松陰先生、金子みすゞさん、大石順教尼さん。日本美術なら富岡鉄斎さんに横山大観さんに村上松園さん。そして大好物は甘々なみ・か・ん♪ ・・ようは何でもアリなのです
2019/01/15
2018 1/15 玉木宏 音楽サスペンス紀行▽ショスタコーヴィチ 死の街を照らした交響曲第7番
お正月に録画しっぱなしだった〔玉木宏 音楽サスペンス紀行▽ショスタコーヴィチ 死の街を照らした交響曲第7番〕をようやく見ることができました。
~引用
〔第二次世界大戦のさなか、ドイツ軍に包囲され過酷な状況にあったレニングラードで、ある演奏会が行われた。ショスタコーヴィチが故郷・レニングラードにささげた「交響曲第7番」。飢えや寒さと闘いながら、人々はどのようにして“奇跡のコンサート”を実現したのか?一方、作品の楽譜は密かにマイクロフィルムにおさめられ、遠路アメリカまで運ばれた。ソビエトとアメリカの大国同士が音楽で手を結んだ、驚くべき政治的背景とは?〕~ここまで
ショスタコービッチの作品で私的に特に大好きなのは「祝典序曲」「5番」「12番」で
7番は「ちちんぷいぷいのテーマ」ってことくらいしか知らずにその曲の背景を今回初めて知ってびっくり。
1941年9月、ドイツのヒットラーがソ連のスターリンと結んだ不可侵条約を破棄しいきなりレニングラード(サンクトペテルブルグ)へ侵攻。地理的に北はフィンランド・西はフィンランド湾・東はラドガ湖で南から攻め込まれ、完全に孤立してしまう。「レニングラードを地球上から失くしてしまえ!」と宣言されレニングラード包囲戦が900日にわたり行われた。
戦火が激しくなる中、ショスタコービッチは生まれ故郷のレニングラードで作曲を続け、ようやく2楽章を書き終えたところでショスタコービッチはラジオで市民に対しメッセージを流す。それは「私は、新しい交響的作品の最初の2つの楽章を書きあげました。」から始まる祖国や町への愛情を伝えこの交響曲を祖国で演奏を行いたいという内容だったそうです。
ラジオオーケストラはすでに戦地に送られ、怪我人や死者もある状況でこの「7番」は意外な運命を辿っていくこことなります。
レニングラードに大飢饉が襲い、猛烈な飢えと寒さが人々を襲いしかもドイツ軍の火の手が迫ってきます。また弾薬等の資源がつきかけているところでなんとかアメリカの協力が欲しい。
1942年 1月、交響曲第7番がスターリン賞第1席受賞。ロシア共和国功労芸術家の称号を授与することでこの曲への評価を国内で高めたうえで利用することを思いつく。
アメリカ大統領のルーズベルトはドイツの支配を好ましく思わずなんとか社会主義であるソ連へ肩入れをしたと考えたが、自分の任期と当時のアメリカの世相を考えると社会主義に対する反感が強いことからおおっぴらには行えない。
そこでこの「7番」に目を付けた!
「7番」をアメリカで演奏をさせ、世論を動かすことでソ連への支援と自分への評価を高めようと考え楽譜を極秘でマイクロフイルムに収めとんでもないルートでアメリカへ運び入れることに成功した。
さて、誰に演奏をさせるのがBESTか・・・・。
選ばれたのはイタリア出身のトスカニーニ!彼は祖国のファシズム化に抵抗しアメリカへ亡命している。まさに適任!
1942年7月にアメリカで初演され大喝采、以降場末のストリップ小屋のBGMでさえも7番のフレーズを使ったくらいの大人気の曲となるにつれ世論が盛り上がりルーズベルトは再選を重ね、おおっぴらにソ連を支援・・1944年1月にようやく解放。ちなみに
日本の真珠湾奇襲は1941年12月で戦線を南方へ拡大している時期。
そして祖国レニングラードで演奏されたのは1942年8月。まさにドイツとの戦争の真っただ中。もちろん演奏会開催の情報はドイツへも筒抜けでこの日に合わせて総攻撃が予定されていたが、全力攻撃で回避、この「7番」の演奏会の音は前線でも放送されたそうです。
1楽章の小太鼓が刻む一定のリズムにあわせ進軍のテーマが遠くから聞こえてくる。。なんとも陽気な雰囲気のテーマが、回数を繰り返すうちにどんどん変容し、ついにクライマックスを迎えるとなんともおぞましく悲劇的なテーマにかわっていることに誰もが気付きます。戦争のなんとも悲惨で無意味な暴力行為を否定するも逃れることのできない運命に流されていくそんな無力さを思い知ることになります。
こんな感じの流れの番組でした。
玉木宏さんが実際にサンクトペテルブルグで当時の様子を知っている方へのインタビューやその場所をめぐります。
さて、余談ですこしだけ触れましたが、はたしてショスタコービッチの真意はどこにあったのでしょう。
ソ連の社会主義体制に迎合した音楽だけを求められ、批判的と取られたら処刑されるそんな体制での曲作りに嫌気をさしていたのも事実なのでしょう。曲のなかに巧みにメッセージを盛り込み苦しみながらも体制を笑っていたのかもしれません。
~引用
〔第二次世界大戦のさなか、ドイツ軍に包囲され過酷な状況にあったレニングラードで、ある演奏会が行われた。ショスタコーヴィチが故郷・レニングラードにささげた「交響曲第7番」。飢えや寒さと闘いながら、人々はどのようにして“奇跡のコンサート”を実現したのか?一方、作品の楽譜は密かにマイクロフィルムにおさめられ、遠路アメリカまで運ばれた。ソビエトとアメリカの大国同士が音楽で手を結んだ、驚くべき政治的背景とは?〕~ここまで
ショスタコービッチの作品で私的に特に大好きなのは「祝典序曲」「5番」「12番」で
7番は「ちちんぷいぷいのテーマ」ってことくらいしか知らずにその曲の背景を今回初めて知ってびっくり。
1941年9月、ドイツのヒットラーがソ連のスターリンと結んだ不可侵条約を破棄しいきなりレニングラード(サンクトペテルブルグ)へ侵攻。地理的に北はフィンランド・西はフィンランド湾・東はラドガ湖で南から攻め込まれ、完全に孤立してしまう。「レニングラードを地球上から失くしてしまえ!」と宣言されレニングラード包囲戦が900日にわたり行われた。
戦火が激しくなる中、ショスタコービッチは生まれ故郷のレニングラードで作曲を続け、ようやく2楽章を書き終えたところでショスタコービッチはラジオで市民に対しメッセージを流す。それは「私は、新しい交響的作品の最初の2つの楽章を書きあげました。」から始まる祖国や町への愛情を伝えこの交響曲を祖国で演奏を行いたいという内容だったそうです。
ラジオオーケストラはすでに戦地に送られ、怪我人や死者もある状況でこの「7番」は意外な運命を辿っていくこことなります。
レニングラードに大飢饉が襲い、猛烈な飢えと寒さが人々を襲いしかもドイツ軍の火の手が迫ってきます。また弾薬等の資源がつきかけているところでなんとかアメリカの協力が欲しい。
1942年 1月、交響曲第7番がスターリン賞第1席受賞。ロシア共和国功労芸術家の称号を授与することでこの曲への評価を国内で高めたうえで利用することを思いつく。
アメリカ大統領のルーズベルトはドイツの支配を好ましく思わずなんとか社会主義であるソ連へ肩入れをしたと考えたが、自分の任期と当時のアメリカの世相を考えると社会主義に対する反感が強いことからおおっぴらには行えない。
そこでこの「7番」に目を付けた!
「7番」をアメリカで演奏をさせ、世論を動かすことでソ連への支援と自分への評価を高めようと考え楽譜を極秘でマイクロフイルムに収めとんでもないルートでアメリカへ運び入れることに成功した。
さて、誰に演奏をさせるのがBESTか・・・・。
選ばれたのはイタリア出身のトスカニーニ!彼は祖国のファシズム化に抵抗しアメリカへ亡命している。まさに適任!
1942年7月にアメリカで初演され大喝采、以降場末のストリップ小屋のBGMでさえも7番のフレーズを使ったくらいの大人気の曲となるにつれ世論が盛り上がりルーズベルトは再選を重ね、おおっぴらにソ連を支援・・1944年1月にようやく解放。ちなみに
日本の真珠湾奇襲は1941年12月で戦線を南方へ拡大している時期。
そして祖国レニングラードで演奏されたのは1942年8月。まさにドイツとの戦争の真っただ中。もちろん演奏会開催の情報はドイツへも筒抜けでこの日に合わせて総攻撃が予定されていたが、全力攻撃で回避、この「7番」の演奏会の音は前線でも放送されたそうです。
1楽章の小太鼓が刻む一定のリズムにあわせ進軍のテーマが遠くから聞こえてくる。。なんとも陽気な雰囲気のテーマが、回数を繰り返すうちにどんどん変容し、ついにクライマックスを迎えるとなんともおぞましく悲劇的なテーマにかわっていることに誰もが気付きます。戦争のなんとも悲惨で無意味な暴力行為を否定するも逃れることのできない運命に流されていくそんな無力さを思い知ることになります。
こんな感じの流れの番組でした。
玉木宏さんが実際にサンクトペテルブルグで当時の様子を知っている方へのインタビューやその場所をめぐります。
さて、余談ですこしだけ触れましたが、はたしてショスタコービッチの真意はどこにあったのでしょう。
ソ連の社会主義体制に迎合した音楽だけを求められ、批判的と取られたら処刑されるそんな体制での曲作りに嫌気をさしていたのも事実なのでしょう。曲のなかに巧みにメッセージを盛り込み苦しみながらも体制を笑っていたのかもしれません。
2019/01/03
2019 1/3 新年に寄せて
新年、あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
昨年秋頃より様々な災難的試練が降りかかってきていますが、私は負けない!
自分自身に勝つ! これしかない!!
今までの最大の正念場の1年になります。
来年の今頃はどうしているか・・全く想像がつきません。
大阪にいるのか・・どこにいるのか・・。
来年はお正月を迎えられるのかどうか。。
それでも自分に負けない!
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
昨年秋頃より様々な災難的試練が降りかかってきていますが、私は負けない!
自分自身に勝つ! これしかない!!
今までの最大の正念場の1年になります。
来年の今頃はどうしているか・・全く想像がつきません。
大阪にいるのか・・どこにいるのか・・。
来年はお正月を迎えられるのかどうか。。
それでも自分に負けない!
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