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2013/01/20

2013 1/20 りっくぷち寄席 染丸一門会

毎年恒例のりっくぷち寄席 染丸一門会。この会は指定席なので安心。
しかも毎年おもいっきり前の席なので臨場感たっぷりです。


林家愛染 狸の鯉

狸との出会いは割愛、そのかわりに服屋の掛取りのシーンあり。
笑顔が印象的な噺家さんですねー。


林家染吉 兵庫舟

マクラは国勢調査ネタ。おもいっきり会場が盛り上がり。
色んな地域へ行かれた話から旅の噺の兵庫舟へ。
櫓をこぐ仕草と、喜六のボケた表情がとても印象的でした。


林家染太 ふぐ鍋

多彩なまくら。ふぐ鍋の熱さと大橋さんの印象がとても良い感じ。


林家染丸 ちはやふる

昨年10/31に脳梗塞で入院され、その2週間後には紫綬褒章受章。
その時のエピソードで会場は大爆笑。
上方落語に珍しくお茶(白湯)を時折飲まれながらの高座でした。
「まだ、なにをしようか決まってへんねん」と話され、会場はさらに盛り上がり^^

ネタはちはやふる。
すこし語尾に不安が残りますがその不安を十分カバーする話力と所作で、大爆笑のうちに
板付で幕が下がりました。


私のお正月の過ごし方で、毎年1/1と1/3は松蕎さんと染丸さんで明けるのですが今年は会が中止になりました。それから林家染丸さんのお姿を見かけることがなかったので心配していましたがゆやく少し安心しました。あとは松蕎さんの元気なお姿を見るのが楽しみです。

2013/01/19

2013 1/19 歴史と人間 幕末維新編  関鉄之助と桜田烈士

桜田烈士は襲撃をした18人の刺客を指すが定義はなく曖昧。
刺客18人の中に唯一薩摩藩の有村以外はすべて水戸藩

水戸は藤田東湖の表現によると[水戸っぽ]と呼ばれるように横着で荒っぽく人を愛す気持ちに乏しいと自戒の念を込めて書かれている。実際に高杉晋作が北関東を旅した際も同様の表現がされている。

1858年に大老(幕府政治の中心的役職)となった井伊直助。彼が目指したのはすべての権力が幕府が掌握していた時代の江戸時代。3代の家光までは将軍職が独裁政治で鎖国を実施したのは家光。もちろん天皇への報告などはない。

6/19には日米修好通商条約を締結。 天皇LOVEな井伊直助は勅許をもらうために、固執したがダメだった。。また6/25には継嗣問題を片づけた。13代の家定は衰弱し口がきけなかった状態であったが「次の将軍は慶福に・・・」と言ったと発表。これは後の家茂(14代)。

この行いに非常に不安を抱いた政治大好きな孝明天皇は、今までに無かったことを行う。
これが「戊午の密勅」。この内容は今回締結した条約を非難し、今後の政治は御三家(尾張・水戸・紀州)・三卿(清水・田安・一ツ橋)・家紋(松平)・列藩(大名)による合議をせよと書かれていた。いわば議会政治の原型。それまでの政治は譜代大名の一部の政治であった。ちなみに外様大名は関ヶ原の戦いで負けた大名ではなく、関ヶ原以前の三河時代より徳川につかえていた大名以外を指す。
この戊午の密勅は2通つくられ1部は幕府へ。そしてもう1通は水戸藩に下りた。しかも水戸藩用にはもう1行が書き添えられていた。それは、「この内容を三家・三卿・家門に伝達せよ」とのこと。

この内容を知った井伊さん。
8/29には伝達を禁ずる命令を出す。
8/30には水戸の重役らに処分を言い渡した。これに反発したのが水戸の若者たち。これに乗じたのは中央進出をもくろむ薩摩藩。

この少し前の7/16には島津斉彬さんが死去したために擁護していた精中組。過激で時代を武力で解決しようと考えていた。

そしてついに9/7に安政の大獄がはじまる。

今回の条約で勅許が出ないように仕組んだものを根こそぎ弾圧しようとして梅田雲浜(朝廷の公家とお仲良し)・頼 三樹三郎・橋本佐内らが処刑された。全体で100人くらい。で、吉田松陰さんは梅田雲浜との関係を疑われたために捕まった際に余計なことを話して処刑されてしまう。。

井伊の狙いは、すべては水戸の陰謀であり、徳川斉昭が現在の幕府を倒そうとしているのではないか?と推理。そのために天皇に条約のNGを進めているのでは?と考えていた。

勅許をもらうのに失敗した老中の堀田 正睦(佐倉藩藩主)をクビにして間部 詮勝(鯖江の殿様)を老中にして京都へ派遣。弾圧の式を取らせた。

ここで、西郷さんから日下部伊三治への手紙の中には「間部 詮勝が暴発したら京都へ挙兵、その後彦根白を落とす」との過激な文がある。しかし日下部も大獄で捕まり、西郷さんは鹿児島へ逃げてしまう。

11/12 水戸の中心人物の金子 孫二郎・高橋多一郎・関鉄之助らが江戸で会合を開いたが、薩摩と水戸で襲撃の譲り合いで話がつかなかった。

長野主膳が、水戸に勅を返納させるための勅を出させることに成功。
12/6には井伊の右腕の安藤 信正(のぶゆき)が現在の後楽園のある水戸藩邸に行き、勅を返納しない場合は勅に背くことになるが構わないのか?と迫る!そこで水戸藩は、返納は幕府に返すのではなく、天皇にそのままお返ししたいと返事をするがもちろんこの案はNG。

返納は、幕府に負けたのではなく、井伊直弼に負けたことを意味する!

実は数か月前の10月には勅は水戸に運ばれていたので江戸にはなかった。

12/23には返納を反対する下級武士ら数百人が、水戸の交通の要所になる長岡(茨城県)で、返納阻止を目的に集結。

安政7年には、水戸の重臣らは、武力突破を決定。
長岡一党は、楠正成をイメージに耐えている。実は1/下には関西で挙兵することが決まっていたらしい。

2/18 高橋・関・角谷・矢野の4人が長岡一党を先導しているということで水戸藩より出頭命令が出るが高橋親子は大阪へ!関・金子は2/20に江戸へ脱出している。

そのため長岡一党は幹部がいなくなってしまい2/19に解散となってしまった。

2/26には金子は薩摩と打ち合わせ。
3/1には日本橋の山崎楼へ集合し打ち合わせ。
ここで、関が隊長。斎藤が自訴状を提出すると決まる。
3/2には品川土蔵相模(妓楼)でお別れ会。朝まで酒を飲んだらしい。

ついに運命の3/3・・。

9時より襲撃。。

彦根藩邸から桜田門までは数百メートル。行列は60人程度。朝からの大雪。

ついに襲撃が行われわずか3分程度で終わった。。

蓮田市五郎が処刑されるまでの間に克明に手記を残しておりその文章を読ませていただいた。

 
野口勝一「桜田義挙と其一党」より。
襲撃に加わった名簿と前日から当日の襲撃が終わるまでの経緯。
襲撃後色んな動きをしたその反省。
取り調べの骨子。

蓮田は、取り調べ内容を幕府の都合の良い風に進み、自分たちの熱い思いがうやむやにされないように記載したのでしょう。これが現代までに残ってるとは驚きです。

幕府は何が何でも徳川斉昭の差し金としたかったようで陰湿な誘導尋問を行ったことが書かれていたことがびっくりです。

そして最後に驚いたのは
明治14年まで生存したものと、明治36年まで警察官になって生き延びたものが居た事。。




 下記WIKIより引用)

関鉄之介(徒士格。現場総指揮。斬り合い不参加、逃亡後捕縛、文久2年(1862年)斬罪。享年39)
斎藤監物一徳(神官。自首後、傷により死亡。享年39)
大関和七郎増美(大番組。自首後、1861年斬罪。享年26)
広岡子之次郎則頼(小普譜。重傷負い自刃。享年21)
黒澤忠三郎勝算(馬廻組。自首後、病死。享年33)
佐野竹之助光明(小普譜。自首後、傷により死亡。享年21)
森五六郎直長(自首後、文久元年(1861年)斬罪。享年24)
森山繁之介政徳(町方属吏。自首後、文久元年(1861年)斬罪。享年27)
山口辰之介正(重傷負い自刃。享年29)
広木松之介有良(町方属吏。逃亡後、文久2年(1862年)自刃。享年27)
蓮田市五郎正実(寺社方。自首後、文久元年(1861年)斬罪。享年29)
杉山弥一郎当人(留付列。自首後、文久元年(1861年)斬罪。享年38)
鯉淵要人珍陳(神官。重傷負い自刃。享年51)
稲田重蔵正辰(郡方。金子に京への同行を命じられたが、本人の希望により固辞して襲撃参加。闘死。享年47)
海後磋磯之介宗親(神職。逃亡後、菊池剛蔵と改名。維新後警視庁・水戸県警察本部勤務。1903年(明治36年)没。享年76)
岡部三十郎忠吉(検視見届役。斬り合い不参加、逃亡後捕縛、文久元年(1861年)斬罪。享年44)
増子金八(逃亡後、1881年(明治14年)没。享年59)
有村次左衛門兼清(薩摩藩士。重傷負い自刃。享年22)

2013/01/13

2013 1/13 NHK 日本人は何を考えてきたのか  大本教について

江戸末期から明治初年に様々な宗教が開かれています。金光教や天理教もこの時期。
時代が大きく変化する不安定な時・・民衆の大多数を構成する貧しい方々が心のより所を求めていたのでしょうか。

先日から色んな縁で、興味をもった大本教。たまたまNHKの番組があったので録画して鑑賞。

艮(うしとら)の金神さんより出口なおさんが言葉をいただいてはじまった宗教。
幕末期に貧しい農村に生まれ、貧しく辛い日々。綾部に嫁いだが苦労の連続。
出口なおと上田喜三郎がで出会う。
金明霊学会が生まれ、なおの娘のすみさんと結婚し、出口王仁三郎となる。日露戦争勃発。なんとか持ちこたえて得た勝利で日本は進む道を誤ってゆく。
大日本修賛会となり発展してゆく。

なおさんは三千世界の建て直しを説き、王仁三郎さんはそれらを実践をしてゆく。
第一次世界大戦の陰でアジアへ進出すると、国内の貧富の格差がどんどん開いてゆく。
政治と宗教の分離により祭政一致を唱え、皇道大本、天皇親政を推進する政治思想となることで軍人が入信をする。これが世界を一つにする神政復古、帝国主義に発展してゆく。
大正7年、富山県で米価高騰による米騒動が勃発した同11月に81歳で出口なおさんが亡くなる。ロシア革命による社会主義の成立から大正デモクラシー運動による民衆運動の高まりで教団は支部を拡大。それは台湾までも広がることになる。
大正9年、協会への弾圧が開始。不敬罪で王仁三郎さんが逮捕されてしまう。
そのためなおさんの言葉ではなく、自分の霊界体験を全面に表現してゆく。これが有名な霊界物語。全81巻。

またエスペラント語を普及。人類同胞主義を説くために必要な手段として採用。
五四運動をへて、日本は中国進出と同時に教団も進出。
満州事変勃発。世界の統一を理想とし日本を世界の中心とする思想と、世界大恐慌に重なり民衆に浸透してゆく。

国際連盟脱退から宗教家から政治家へかわってゆく王仁三郎さん。
昭和神聖会となり政治色が濃くなってゆく。天皇機関説の廃絶を唱え、大本は拡大を続け国家主義を進んでゆく。信者800万人。全国支部は414。あまりに拡大したために国家から危険団体としてついに弾圧を受ける。
本部は破壊。全国の支部も破壊。1500のダイナマイトを3週間かけて破壊。王仁三郎は再び捕らえられた。
なおさんのお墓は荒らされ、遺骨は持ち去られた。大本信徒の墓石は削られている。
太平洋戦争勃発。戦局悪化し終戦。
施設再建を目指し人類同胞主義を見つめな直す。世界平和は軍備撤廃を唱える。
S23、王仁三郎さんが亡くなった。


先日の、『何を言うやら蜜柑やら』がここまで広がるとは思わなかった(^_^)

2013/01/12

2013 1/12 西宮戎さんと清荒神さん


十日戎には欠かさず参拝していましたが、今年は転職したので無理でした。
長年の習慣を絶つのって辛いですね。

で、今年は残り戎の終わった12日に参拝することにしました。
せっかくなので今年は西宮戎神社へ。

境内では昨日までの喧騒を思い出させるような屋台の撤去のタイミングと重なって
車やトラックがいっぱい!

なんとか参拝を終え、テレビ中継でおなじみの赤い門の前で記念撮影^^この門の前からたくさんの方々がダッシュされてるんだなーって思うと感慨深い思いが。。



清荒神さんもいつも参拝をしているのですが、前回前回お参りした時には改装工事中で入ることができなかった富岡鉄斎さんの美術館にどうしても行きたくって・・。「鉄斎 -喫茶の楽しみ-」と題して書画や茶器が展示。
勢いのある水墨画や繊細に書かれている線に論語が書かれている掛け軸や茶器に目を奪われました。
そして横にある奥ノ院の滝でしばしクールダウン♪

ステキな日本画を見ると、また足立美術館に行きたくなってきました。
今年中には行って来ようかなー。
参道をぶらぶら歩いているとステキな竹細工のお店発見!お店の中には白蛇さんが!おもわず記念撮影してステキナ週末の一日を終えました。

2013/01/10

2013 1/10 自分の感受性くらい

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自分の感受性くらい

                       作:茨木のり子

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

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2013/01/01

2013 1/1 年頭



これは2007年の年末から2008年のお正月にかけて喉の手術で入院した際に
病院のロビーに掲げられていた額の言葉です。

この時は泣きそうなくらい辛くて・・さみしくて。。悲しくて。。。。

でもこの額の言葉を読んですごく自分が恥ずかしくなりました。

今年1年は謙虚に過ごしたいとおもいます。

2012/12/30

2012 12/31 年末に寄せて

今年のように色々と出来事があった一年は初めてでした。

昨年秋の大手術の経過が思わしくない事から5月に再手術。
そして15年間勤めた会社を退職。そして新たな会社へ就職。
極めつけは7月に信号待ち時にノンブレーキで普通乗用車に追突されました。
昨年4月には信号待ち時にタクシーに追突事故を受け、今回ばかりは間違いなく死んだ・・と思いましたが奇跡的に外傷はゼロ!

本当にありがたいことです。

そして新しい会社に入って一番に感じたことはその社風。
色々と書くと弊害がありますが、【努力する者、夢語り、怠る者は愚痴語る】
そして【諦めた者は何も語らない】。

 私はどのタイプになるのでしょうか。

社会人である以上、労働は必要ですが私に期待されていることと私が期待することがマッチしているかどうかは今の段階では疑問です。

これが愚痴になるのであれば私は怠る者ということになりますね(笑)

色んな出来事があっただけに、来年は平穏無事が一番!
穏やかな心で健やかに暮らしたいものです。

2012/12/25

2012/12/25 何を言うやらミカンやら

朝5時からいつも[子守康範 朝からてんコモリ!]を聞いています。

その中で話題になっていた[何を言うやらミカンやら]がネタになっていました。私はずっと原田のぶろうさんのギャグだと信じ込んでいましたがどうやらもっと昔の事らしい。

で、語源は1922(大正12年)/04に出版された[如意宝珠巳 春野の旅] の中に出てくるそうで、作者は出口王仁三郎(でぐち おにさぶろう)さん。この方は宗教「大本(おおもと)」の教祖とのこと。

 WIKIでその生涯を読んでみたがとでも興味があります!いくつか書籍を調べてみたいと思います。

夏彦『モシモシお爺さま、此奴ア、由良の湊の秋山彦の門番をして居つた男です。偉さうに口ばつかり開くのですよ。朝から晩まで門を開くのが商売だから、その惰力が未だに残つて居つて、大門のやうな大けな口を開きよるのだ。相手になりなさるな。この男の云ふ位な事は、私だつて、年の功は豆の粉だ、豆の粉は黄な粉だ、黄な粉はヤツパリ豆の粉だ。猪喰た犬は、犬のどこやらに勝れた所が有りますワイ。私が教へてあげませう』

加米彦『コレコレお爺さま、此奴はなア、ウラナイ教の黒姫と云ふ、口ばつかり達者な奴に十年間も朝から晩まで、法螺を仕込まれて来た奴だから、何を言ふやら、蜜柑やら、金柑桝で量るやら、なにも分つた代物ぢやありませぬワイ』


爺『最前からこの老爺が一生懸命に頼みて居るのに、お前さま達は、この老人を飜弄するのかい、エーエやつぱり英子姫さまのおつしやつた偉いお方は、この御連中ぢや有るまい。アーア阿呆らしい、コンナ事ならこの重い足を、老人が引摺つて来るのぢやなかつたのに……』

 参照)

2012/12/23

2012/12/23 講談祭

会場へは13時すぎに到着。母に先に会場入りしていただいて私は車を置きに大国町の駐車場へ。
で13時半に会場に着いたら驚きました!
えぇぇ?会場がいっぱい!お客様がどんどん。。。。何があったの?
ついに講談の時代がきたか!って思いました。


旭堂南舟 松浦壱岐守
赤穂浪士の討ち入りには四十七士に関する本伝、それぞれの個人のお話の銘々伝、
そして討ち入りに関係した方々のお話の外伝があるとのこと。

さて、この松浦(まつら)壱岐守のお話は外伝。お話のイメージからすると
赤ら顔のエラそうにしている松浦壱岐守。寒い日には生き炬燵と称して女性を先にお布団へ入れて温まるのを待つ・・そんな感じの方らしい。
山鹿流の陣太鼓が聞えてきた、慌てて様子を探りに行かせた松浦は・・・。

旭堂南青 赤垣源蔵 徳利の別れ
今日の講談祭は今までにない客入り!
座椅子席と長椅子席の間にスペースをつくり座椅子を増やすために後ろに下がっていただきました。
今まで前に詰めていただくために「お膝送り」というのは経験がありますが[お膝下がり]というのは
初めて!ありがたいことです。

討ち入りの前夜、兄の元へ別れの挨拶に来赤垣源蔵。ところが残念ながら会うことが出来ず、また姉も体調不良とかで会えなかった。
お手伝いの女中が応対をするが・・・。

そのしっとりとしたお話に客席のいろんなところから「グスッ・・・」もちろん私も・・。

客席参加型対談「討ち入りの嘘と誠」
司会は南舟さん。メインは南北さん、南左衛門さん。
一番気になるのは、なぜ浅野内匠頭は吉良さんを襲ったのか。
いろんな説があるがまずは、賄賂説。これは吉良さんからすると当然の事で作法を教える授業料のような物。
ところがいろんな事実検証がされて賄賂説ではないという結果に。
次に出たのは男色説。浅野内匠頭さんには日比谷右近というお小姓さんがいて、日比谷右近を吉良さんが見初めたという説。
ところが浅野さんはNO!でも時の大老の堀田正俊さんから同じ話がでた際にはすんなりOK!うほっ!って感じで逆切れしたのか。
で、次の説は塩の製法説。当時の塩は赤茶けたものだったそうだが赤穂だけは当時から白!吉良さんのご当地も塩を製造していて
この製法を知りたくて・・てな感じで刃傷沙汰になったのか。。真実は今となっては不明。。

旭堂南青さんが話された赤垣源蔵のお話ですが実は赤垣源蔵は赤埴(あかばね) 重賢(しげたか)。本当は下戸で兄はいないらしい(;´Д`)
お芝居や講談では大酒呑みということになってはいるが真っ赤なウソ!えぇぇ!

旭堂南左衛門 三村の薪割り
赤穂の浪士たちは情報収集にために身分や身なりを変えて町にでた。
ところが三村次郎左衛門は武士の姿のままでできることを考えた結果、変わった商売の薪割屋を始めた。
そこで知り合ったのが刀研ぎ屋主人の竹屋喜平次。
大の仲良しとなった二人は友情を温める。
そしていよいよ討ち入りが決まった・・・・・。



旭堂南北 夜もすがら検校(けんぎょう)

玄城検校(げんじょうけんぎょう)は琵琶の名人で、平家のお話を語らせたら一晩中でも語るという。そこで「夜もすがら検校」という名前が付いた。

彼は盲目の為に信頼できる付き人を一緒であったが、江戸からの帰りしなにトラブルが起こる。なんと付き人が色と欲に目がくらみ検校を中山道の雪深い山の中に・・・。
この冬の日にぴったりの臨場感あふれる口調でお話くださいました。

今日の講談祭の一日は講談の魅力をしみじみと感じた一日になりました。

講談ってドキドキしたりハラハラしたり。頭の中にいろんな人物がでてきて語りかけ、泣いたり笑ったり。。張扇の音一つで場所も時代も一っ跳びの素晴らしい芸能だとおもいました。願わくば、もっともぉぉっと講談がメジャーになりますように。

2012/12/16

2012 12/16 笑好寄席

笑好寄席は今回で4回目の参加となります。
前回の事があってか、いつもよりも2か月ほどずれこんだ笑好寄席。
冒頭に席主の桂 文三さんのご挨拶があり、その意気込みと想いが はっきりと伝わってきました!
桂 文三さん!本当にありがとうございました。

笑福亭 生寿 狸の鯉
生寿さんの【狸の鯉】は今回で3回目となります。
最近、すこしふっくらとされてきた生寿さん、すごく所作、仕草がきっちりとされており
あきらかに上達されたなーってあらためて感心しました。
竹林さんとなかなか会えない生寿さんのお言葉!
しらべてみますと2009年に坊枝さんが 天王寺参りをされた回のようですねー。

林家 染弥 天災
無難にきっちりとこなされた染弥さん!
最後にハプニングが!! あぁぁぁ・・・・金屏風がwww
それにしてもお怪我をされなくて本当に良かったです。

桂 南天 壺算
藤井寺でなし、八尾でなし・・柏原市。。
たしかに南天さんの地元の枚方でなし・・寝屋川でなし・・四条畷と
街の雰囲気が似ていますねー。
また大阪人の言葉を切り口に笑いを巻き起こしてそのままネタに突入です。
  坪算では、壺が割れた経緯はバッサリ省略!
その代わりに番頭さんとの掛け合いが絶妙で
ゆにや黒兵衛さん、船場の料亭の比喩がおもしろかったです。
そのほか色んな所に南天さん独自のくすぐりが満載!
納得の面白さでした!

桂 雀喜 初天神
私にとって初天神は超思い出のネタ。 そ
れだけに聞けるのはありがたい。
でもおもいっきり1月の話なのでちょっとだけ えっ?てなりました。
こしゃまくれた寅ちゃんとおやじの掛け合いが面白く楽しめました。

桂 文三 はてなの茶碗
意表をつくマクラでなにか得した気分に!
【子の千三百六十五番!】の話で開場は 大爆笑!
茶道具屋金兵衛さんの貫録や威厳も申し分なく、また京の言葉と大阪言葉の対比も
見事で、はてなの茶碗の世界にスッと入ることが出来ました。
本当に無事に復活して良かったですね!
こんな素敵な寄席!来年からもずっっっ~と続きますように。

2012/12/15

2012 12/15 歴史と人間 ~井伊直弼

昨日の金曜の夜に勤務先の忘年会があり、深夜に帰宅。
そのまま倒れこんで眠ったようで朝起きたら、大変な状態でしたww
食欲のなく、胃のむかつきと戦いながらも朝風呂。。それでも頭が痛くって。これはもう何年も経験していない二日酔いって症状。。朝食も昼食も食べることができないままにお勉強に向かいました。
今日はこのお勉強の後は年末恒例の一坂太郎先生教室の忘年会(・_・;)どうなることやらって不安いっぱいでしたww。


さて、井伊直弼は第11代藩主・井伊直中(なおたか)とお富の方との間に十四男として1815年(文化12年)に生まれる。不思議な縁で、安政の大獄で処刑した梅田雲浜氏とまったく同じ誕生日。
幼名は鉄之助。
直亮(なおあき)がすでに藩主を継いでいた。(3男)次いで直元(11男)がいる。。
当時は藩主を継ぐことができなかった次男坊以下は大変で、養子として入ることができなかった場合は一生を不遇で終わってしまう。この彦根藩では300俵で部屋住みとのこと。
これはなんとかかつかつで暮らしてゆけるギリギリな水準。

1834年には弟と養子の面接に行ったがNG・・・しかも弟が養子に入ったとか。。

埋木舎(うもれぎのや)で長野主膳に国学を学び、また居合や槍術、禅や和歌を学ぶ。特に茶道では有名で石州流。いくつもの書籍が存在している。
学んだ山鹿流兵法は日本を絶賛、しかも幕府は絶対的な権力であることを肯定する学問。武士としての道徳を説く。
また、国学の研究では長野主膳義言(よしとき)との出会ったことが大きなターニングポイント。
長野主膳は実は出身地等の情報は無いことから不明で同い年。
1842年(28歳)で主従の礼を結ぶ。

儒学は外道であり所詮中国の教え。山鹿は国学であり神道。幕府への忠義は天皇への忠義に通じるというおもいっきり保守的な学問の山鹿流。
ちなみに赤穂浪士の仇討は山鹿流ではNG!幕府の許可があればOKだが忠臣蔵事件はだめ。

1846年 世子 直元 死去⇒直弼(32才)⇒江戸へ向いはじめて将軍にお目見え。
1850年 直亮 死去⇒そしてついに直弼が藩主になった。
すぐに主膳を召し抱え、井伊家の勤王ぶりを調査させた。
直弼は天皇大好き!好みの刀をプレゼント。また御所の火事のあとは焼けた本を探し出して進呈。すっかり天皇は直弼を信頼しきっていた。
地理的なことがあり、彦根は京都の膝元。なにかあれば駆けつける藩。

さて、いよいよ時代が動き出す。

黒船がやってきたらすぐに江戸からお呼び出し!2000人で羽田・大森の警備を仰せつかる。

で・・意見書のくだり。。1853年/8/10の意見書では、キリスト教を国内に入れてはいけない。祖法があるので国を閉ざすことを説く。ところが8/29の意見書では交易を行い海軍の力をつけつことをといている。これって龍馬さんらが言ったようなことをすでに言っている。この不思議な意見書には訳がる。たまり場つめの新人の直弼さんはうるさ方を刺激しないように遠慮したのか。直弼の本音はもちろん8/29の方。ちなみにこの意見書は中川禄朗が書き、直弼が加筆して仕上げている。

徳川斉昭は、ペリーを打ち払え!直弼は迎え入れて穏便に!で対立してゆく。
品川の台場なんて無駄!兵隊が犬死するだけ!それよりも軍艦建造だ!の意見が本音。

そして3/3に日米和親条約を締結。

次にハリスが来日。

親交外交を自由貿易で進める旨の勅諚を求めるために堀田正睦を京都へ走らせるがもらえない。。1858年(安政5 44歳)4/22 大老に就任。
運悪く第二次アヘン戦争の情報が入り、アメリカの脅しに乗ってしまい6/19修好通商条約を締結。
保守派松平忠岡(上田の殿様)と直弼は勅諚をもらうかもらわないか・・もめてしまう。

そして直弼は5/12に家定の跡継ぎ問題についての話の際に、忠岡を罷免する工作をしてしまう。
これは公用型秘録(M18明治政府へ提出した資料に欠落していた情報)が発見されてはじめてわかった事実。

そしてついに、後継者は血筋のものから選ぶという勅許をGET!これはすなわち南紀派の家持を世子とすることを指す。 この勅許はなんと一ツ橋派に寝返った堀田正睦が隠ぺいしてしまう。

安政の大獄・・・そして桜田門外・・・。

井伊直弼さんは誰よりも尊王攘夷思想。。でもなかなか世に出ることがなく大変苦労され、時代の渦に翻弄された方だったのですね。


講座がおわると上映会です。

今日の映画は本当に珍しいお話。これは一坂先生のホームページに詳しく書かれていますので
そちらをご覧くださいませ。

研究室 ~ 『青年』の思い出 ~

原作:林房雄
脚本:杉山義法
場所:東京宝塚劇場
配役:
井上聞多:西郷輝彦
伊藤俊輔:あおい輝彦
高杉晋作:竹脇無我
プウラン:森繁久弥
毛利敬親:藤岡琢也


産経新聞の「わたしの失敗」という書籍の中の西郷r輝彦さんの項目に次のような文章があるようです。

昭和61年、東京宝塚劇場での舞台「青年」。その記憶は西郷輝彦の中に強烈に刻まれている。
森重久弥に指示してともに舞台を重ね、演じる者としての自覚も芽生えて来た頃のことだった。

 ~略
予想もしていなかったアドリブが森繁の口から飛び出した。
「きみの父親の名前は何という?」
頭の中が真っ白になるような”抜き打ち試験”だった。
観客を前にして物語の名前を止めるわけにはいかない。
あわてた西郷はとっさに自分の父親の名前を口にしてしまった。


「青年」の上映会が終わり一坂先生よりゲストの旭堂南左衛兵門様をご紹介いただきました。
この席で上方講談の解説や講談における人物名の変更等についてをお話くださいました。
また井上聞多の「袖付橋(袖解橋)の御難」に関する解説をいただき、一同そのまま
忘年会会場へと移動。

いつのまにか私の二日酔いも消えて、元気に美味しくビールをいただきました(笑)

2012/12/09

2012 12/8-9 小浜旅行

この1年間はおそらく人生の大きな転機だったのでしょう。
交通事故に転職、そして大きな手術と盛りだくさん。
そこで今回は厄落とし企画として一族で1泊旅行へ行くことになりました。
で、候補地の決め手は長女の案!「カニもフグも食べられる場所」ということで
でググってみると速攻で福井県小浜に決定!

まさかとはおもうけれど・・雪道は走ったことが無い。。
1週間前に慌ててオーとバックスへタイヤチェーンを買いに行き

とりあえず1回だけ講習を受けて¥20,000でGET!
その後さすがにぶっつけ本番は危ないってことで
冷えこんだ夜半にもくもくと取り付けの練習をして1泊旅行に臨みました。


当日は朝8:30に出発。念入りに道路情報を確認しましたが今のところ問題なし!
ということでサクサクっと走り12時には小浜に到着!


お昼は若狭フィッシャーマンズワーフです。
好きなお寿司をわんさと抱え込んでの新鮮な握り寿司!
あ~ん!絶品!あまりのおいしさに写メを忘れました(;´∀`)


その後は御食国若狭おばま食文化館へ移動。
ここでまぁよく遊んだこと!
伝統工芸品をつくるコーナでは、めのう薄板模様付けとめのう磨きにチャレンジ!
私は、失敗がまず無いとおもわれるめのう磨きにチャレンジ!
まぁ30分だし。。。ところがこれが意外な展開に!

どうやら磨けば磨くほどに光沢が増すことがわかり、サンプルで展示されていためのうは
3日間磨いたらしい!ちょっち根性をだしてひたすら磨く!磨く!
紐をつけてもらって可愛いオレンジのめのうのペンダントが出来上がりました^^

15時になってチェックイン!
窓から見える日本海!
その向こうには雪景色の稜線が見えます。



早めにみんなで入浴してお待ちかねの夕食!
カニ鍋+フグ鍋の饗宴ですww。



茹でカニ、カニ鍋、カニのお刺身の横にてっさと湯引き、てっちりが並びます!
たぶんこんな光景は二度とみることはないかも!

で・・写真は?はい!ごめんなさい。わすれましたww


翌日も快晴!素晴らしい天候に恵まれて小浜観光。といっても小さな町のこと。。
先日の【幕末史】で習った【梅田雲浜】さんについての足跡をと調べると、さすが小浜の英雄。
雲浜地区というのがあって公民館やら学校やら。今は亡き小浜城跡あたりがその地区らしく雲浜さんの生家跡もありました。

写真は雲浜小学校の校門の中におられる梅田雲浜さんの像です。

また小浜城址では、石垣が残るのみ。
また堀もすべて埋め立てられ宅地化していました。









その後、フィッシャーマンズワーフの向かい側にある市場でいろいろとお買いもの!
干物や小鯛のささ漬をGET!これで思い残すことはないww。

無事全行程を終わり帰阪。

楽しかった小浜旅行も無事終了となりました。
福井県って意外と近くてびっくりです。暖かくなったらまた訪れてみたい県ですねー。

2012/12/07

2012 12/6 凛と咲く花

和歌山県九度山にある旧萱野家(大石順教尼の記念館)の館長さんよりお知らせをいただきました。

それは大石順教尼の生涯を題材にした歌があるとの事!

さっとく調べてみますと、ありました!!

日本マーキュリーよりデビューされている歌手で寺脇暁子さんが歌う【凛と咲く花】。

2010年11月17日に発売されているようです!
ご興味のある方は詳しくは下記のURLよりご確認ください。
 






2012/12/02

2012 12/2  わつか市




今回で参加2回目となるわつか市の為に、紀伊半島の反対側より前日の夕方に大阪に到着されました。

で、恒例のおミカン農園の方と一緒に前夜祭を開催!

今回は待ち合わせ場所は動物園前!ということはこれはやっぱ串カツしかないでしょうww

で夜の新世界にむっちゃ久しぶりに行きました^^
新世界よりデンジャラスな香りが無くなったかわりに、串カツ屋さんの健全な客引きのお兄さんがいっぱいです。
で、呑兵衛な私たち3人は2時間飲み放題のお店に突撃!いっぱい飲みました^^

 で・・串カツ屋さんにとっても気になるメニューが。。

ダチョウとワニ。。。。さては天王寺動物園が近いからか。。意味不明。。
で、もちろんオーダー!しなやかな歯ごたえで美味でした(笑)


翌日は9時の開店に間に合うように四天王寺さんへ。
もうすっかりお店が出来上がっておりました(;^ω^)

張り切って売りましょう!・・ところが・・急な寒波でお客様がすごく少なくて試食してくださらない。。

それでもがんばって15時の閉店まで声を出しつづけました!
まさか私が【ミカン売り】になるとはww

まぁ接客業は商売の基本だし。とても楽しい時間を過ごさせていただきました。
次回1月はわつか市はお休みなので2月3日(日)となります。