「アフィリエイト広告を利用しています」

yahoo2

2011/01/15

2011 1/15 教科書に書かれない幕末史  会津藩と戊辰戦争

2011 1/15 教科書に書かれない幕末史  会津藩と戊辰戦争


司馬遼太郎の小説 「王城の護衛者」は、読んだことがありませんが、その書き出し部分は「松平家は仮初の恋からはじまっている」との事。お江の夫である秀忠は恐妻家とも言われているが、なかなかお江との間に男の子が生まれなかったばかりに
ついに侍女との間に子どもをもうけてしまう。この子どもは信州高遠藩保科家に預け養育。その子は正之と名付けられてすくすくと成長した。そしてついには会津24万石を受け継ぐこととなり、初代藩主となり松平の姓を名乗ることとなった。

寛文8年(1668)4月11日、保科正之は、「家訓15カ条」を定め、これを会津藩の「藩」の方針としたそう。
この家訓が戊辰戦争を激化させた原因の一つとも言われている。

大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。
我々は忠勤に励み、他国がどうであれ我々は貫く。万が一、裏切るものが出たものは我々の仲間では無い!という強い語気を感じるものでした。

会津藩は日新館という7000坪もある藩校を建造、しかも日本で最初のプールをつけたというから驚き。この藩校では長沼流の軍学を教え、質実剛健を常としていたそうです。当時会津半は三浦半島の警備を担当していた事から早くから海防に関して敏感であったのでしょう。

さて時代は過ぎて幕末。
孝明天皇に政治への関与が原因で動乱期へと突入。まさに暗殺行為が横行し京都の治安が悪化。
そこで幕府は京都守護職を設け、京都の治安管理を任せることにした。
その話しを聞いた孝明天皇。お気に入りは最近起った寺田屋事変のNO1である島津久光さんをその職に就けたかったが幕府は松平容保に決定した。
その理由はいとも簡単。、桜田門外の変を例として無茶をする水戸藩の沙汰を協議していた溜まり場詰め役人はみんなが事なかれ主義。ところが1人容保公のみが大演説し存続を説いたその目立った行為がキーポイントであったそう。
もちろん家来はみな、火中の栗を拾うこともないだろうというのに家訓を例として引き受けてしまった。

文久2年12月24日、およそ1000人を引き連れて京都入りした松平容保ら。
雅な京都人は、どうせ田舎の侍達が・・と思っていたら大間違い!それはなんともきらびやかな行列だったそう。

金戒光明寺を本陣として活躍。
着任し早々の文久3年1月2日に孝明天皇へご挨拶に行き、なんと大和錦の緋色の布を拝領。7月の30日、8月5日の2回に渡る会津藩の軍事演習の際には孝明天皇の前で、前回拝領した布で陣羽織を作り着ていたそう。

そして8月18日。政変により長州が失脚。そのときはなんと孝明天皇から御宸翰(ごしんかん 天皇直筆の手紙)を頂く。その内容はこの政変を正当化する内容で、しかも歌が一首そえられていた。

こんなに孝明天皇に信頼、信用されていたのに朝敵となるなんて、実に不思議。。

そのきっかけはなんといっても孝明天皇の崩御。これにより長州が復権を果たす。

大政奉還、王政復古の後、江戸へ逃げ帰った慶喜さんを追うように
明治元年1/17に仙台藩に対し会津征討令が出た。
1/25には米沢、盛岡、秋田、各藩にも追討を命じた。
2/9には沢 為量(サワタメカズ)を鎮撫総督に、醍醐忠敬(ダイゴタダユキ)が副鎮撫総督となったが
2/26にはもう人事異動。九条道孝が鎮撫総督。そして沢 為量(サワタメカズ)は副鎮撫総督となった。
このときに参謀として、長州藩の大山格之助、世良修蔵が任命された。

3/2には京都を出発。
3/18には仙台湾に到着。
3/23には二本松、福島、中各藩にも追討するように命令がでた。
しかも朝廷より4/7までに進撃するように命令がでてしまう。
東北諸藩はどうしても情報に疎く不利になってしまう。それは参勤交代しても京都へ行くことはなく情勢を把握するのが遅れてしまう。また薩摩、長州に対する不信感、、そしてやはり言葉の壁が関連しているかもしれない。
どうしても西の言葉はきつく感じてしまうよう。特に薩摩の「オイ!」「コラ!」や警察を表す「マッポ」、体罰の「ビンタ」は怖い言葉です。
執拗に追い詰める鎮撫総督のターゲットには会津だけではなく庄内藩も入っている。庄内藩は江戸の薩摩藩邸を焼き討ちした為だそう。
そこで狙われている会津と庄内藩は密かに会庄同盟を締結。
米沢藩にも話しをした。米沢藩は保科正之に恩があるのでこれを断れない。
米沢藩 木滑要人(キナメリタケト)と会見を行い会津の謝罪を条件として協議を重ねた。
その結果、容保公の藩外での謹慎・領地の削減、鳥羽伏見の責任者を死刑の3つを条件とした。
閏4/2ようやくOKをした会津。それでも心配の種は鎮撫軍を操ってる薩長であることを見抜いている。
閏4/4には仙台、米沢の合図進撃中止を申し入れる。
閏4/11には白石城に東北各藩が集結し会津救済の嘆願書を作成。
実は彰義隊攻撃の際に、輪王寺宮公現法親王が仙台へ逃げてきているのでこれを中心として、北部政府を樹立することまで考えていたらしい。
閏4/12には伊達慶邦は九条道孝と謁見し嘆願書を渡す。
九条はこれを受け取る。。ということはOK?という雰囲気さえあったが
閏4/17には総督府は嘆願書を却下。
そして仙台、米沢に対し、再度会津征伐を命令、このときにすでに容保は罪人とまで言われている。
何故却下したのか・・・。
九条道孝・醍醐忠敬は充分受け入れる気持ちがあったが長州藩の大山格之助、世良修蔵が大反対している事をしってしまう。
世良から大山宛の密書の中に書かれていた言葉・・それは〔奥羽皆敵〕
閏4/19 福島にある金沢屋で世良を捕縛。
閏4/20 世良の首を切ってしまった。。。。もう後戻りはできない。
ついに総督府に喧嘩を売ってしまった奥羽。。
そしてようやく5/3に奥羽列藩同盟(26藩)が、そして奥羽越列藩同盟(31藩)が誕生した。

2011/01/09

2011 1/9 浄瑠璃寺 秘仏 大日如来像公開

■真言律宗 小田原山 浄瑠璃寺

◎浄瑠璃寺との出会い

はじめてこのお寺に行ったのは今からずいぶん昔の事。
ラジオから流れてきたこのお寺の紹介情報を母が偶然聞いたらしく同行するコトとなりました。
当時は天王寺から関西本線に乗り、奈良~木津加茂と揺られるわけですが、奈良から加茂へ行く電車が数時間に1本程度しかなく大変だったと記憶しています。なによりも加茂駅から数時間をかけて徒歩でお詣りするのですから1日掛りの相当きつい行程の大変なハイキングです。

子供だった私は道中に喉が乾いて飲み物をおねだりします。「缶コーラのみたぃねん。350mlのやつ。缶でええねん。缶でええねん。」と繰り返す私に「よっしゃ。缶だけ買おたろ」という無粋な冗談を言う同行者に腹を立てた思いでがあります。
コカ・コーラの発売年代からす推察すると350ml缶は当時は70円でした。

 そして、家族のみんながこのお寺にある【秘仏 吉祥天女像】にとてつもない魅力を感じ、レプリカやお写真購入し、そしてぞれからずっと我家の守り神として鎮座されています。

それから毎年のようにお参りすることが家族の習慣となり、いろんな事がありました。
浄瑠璃寺のある当尾(とうの)にはたくさんの野仏様がいらっしゃいます。散策を繰り返すあまりに道に迷い、あたりは暗くなってくるし回りはたしか「地獄の辻」「千日墓地」(定かではありません)という場所でみんな恐怖につつまれたこともありました。
 また帰りは電車ではなくC62だったかD51だったか覚えていませんが機関車に乗ったこともありました。
山門に咲く馬酔木の香りに包まれたことも、途中の竹やぶに生えてる筍を発見したこともみんな懐かしい思い出です。  

  今では自宅から車で1時間あまりでお寺の前の駐車場に到着してしまい情緒もありませんが、当時、私を連れて行ってくれた母と二人でそんな話をしながらのドライブは格別です。今でも年に何度かお詣りいたしますがせっかく参拝されるのでしたらこの【秘仏 吉祥天女像】に会える期間に参拝ください。 加茂駅の北側には「海住山寺」(かいじゅうせんじ)というお寺があり、どういういきさつであったかは覚えていないのですが一人旅に凝っていた私は中学生の時にこのお寺に泊めていただいた記憶があります。泊めていただく交渉の際、夕食は無いことを言われたのでお湯だけで結構ですと話た私は、当日、発売され話題になっていた日清カップライス(1970年:昭和45年発売)を食べたのを記憶しています。

◎浄瑠璃寺の魅力

さてこの浄瑠璃寺は九体寺ともいい、三重塔より池をはさみご本堂を拝むと、それは東より西を拝むこととなり西方浄土となります。このご本堂の柱と柱の間には九体の阿弥陀様がいらっしゃいます。
 また三重塔には薬師如来様がおられます。現世の苦しみを取り除いてくださる薬師如来様側から娑婆(池)を望み西方の極楽浄土をおカがむということです。
 蛇足になりますが私が魅せられた仏様はこの【吉祥天女像】だけではありません。
 ご本堂の中の739年に聖武天皇の勅願により行基の開基とされた当時の空気をも感じさせる時間がとまったような空気も魅力ですが、ぜひお顔をそっと覗いていただきたいのは不動明王三尊像でお不動さんの足元にいらっしゃる童子様のお姿です。
 とても柔和なお顔をされている【こんがら童子】様と知恵の杖をお持ちになられている【せいたか童子】様です。
 そっとお二人のお顔を見させていただくと何かつかめるかもしれません。
 また1月の8日~10日にのみ、潅頂堂のご本尊で智挙印を結ばれている大日如来像様にお会いすることができます。
今年もまたお会いする事ができました。

冬場にこのお寺のご本堂に上がりますと足先の感覚が無くなるくらいに冷えますので充分あったかくしてお参りくださいませ。

2011/01/08

2011 1/8 第90回 全国高等学校 ラグビーフットボール大会 決勝戦

ラグビーの聖地 花園ラグビー場にて開催。今年もこの高校生の最高峰を決める熱き戦いを見ることが出来ました。
当日は14時5分にKOとのことで駐車場の混雑を考えて12時半に到着し急ぎ足で競技場へ。
メインスタンドのほぼセンターライン上の比較的前に座ることができ、さっそく名物の熱々のラグマンをいただきました。
今日は真冬とはいえ、日の当たるところは温かく、時折穏やかな風が吹く絶好のラグビー日和。
ちょうどグラウンドでは東西戦が行われている最中でした。
その後、13:20にスコアボード下から大音響の花火とともに今回のテーマソングを歌うAqua Timezのミニライブがありましたが2曲で早々に終了、そしていよいよ戦いを勝ち上がってきた桐蔭学園(神奈川第2)vs 東福岡(福岡第1)の選手立ちの入場です。
なんといっても11年連続出場で今回は21回目の東福岡。昨年の覇者でもある東福岡にどう戦うか?が見ものとおもわれていた方が多いようでした。

いよいよKO!

前半2分。
東福岡。前左ラックから右中間にトライし先制5点。

やはり東福岡優勢とおもわれた直後、桐蔭の14番、15番の活躍でなんと前半が終わった時には24-10と桐蔭が大健闘!後半開始直後の2分にも7点を追加し31-10と点が開いたところから東福岡の大反撃が始まりました。その点差は3トライ3ゴール!常勝東福岡の底力!後半8分に7点。後半24分にも7点。

そして残り時間はあと1分。7点差を防いだら初優勝となる桐蔭と常勝東福岡との最後の戦いが始まりました。バックスタンドの互いの応援団の声援につつまれた後半29分、スタジアムの観客全員が声を上げました。なんと残り1分で7点をあげノーサイドの笛が鳴り響きました。

互いの全力を出しつくしたその試合結果はなんと31-31。その瞬間に東福岡、桐蔭学園の両校が優勝となりました。

グラウンドでは互いに戦い抜いた互いの選手を称えあい、表彰式が行われ、同時にスタンドでは見知らぬ者同士が、心をも繋いだこの感動的な試合を見ることが出来た喜びを互いに話し合う、そんな光景を見ることが出来ました。
そして表彰式が終わったその直後に、ひときわ大きな感動がスタジアム全体をつつみました。

それぞれの主将が同時に歩み寄り、主審を務めた麻生レフェリーに箱を手渡しました。

それは麻生レフリーの息子さんの難病「拡張型心筋症」手術の為の募金をそれぞれの関係者に事前に募っていた募金箱でした。

この募金は昨年10月にラグビー関係者らが発起人となって「修ちゃんを救う会」をつくり、1億5000万円を目標に寄付を募っていたその足しにと感謝の気持ちを込めて、両方の監督らが事前に行っていたそうです。


http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/life/20110109ddm041050105000c.html?fr=rk


素晴らしい試合とそして感動を目の当たりにすることができ、本当に良かったとしみじみかんじた冬の一日でした。

2011/01/03

2011 1/3 上方落語『一心寺亭』

本年2回目の落語会です。
今日も開場1時間前に到着しますと、どうやら当日券を40席程度追加されたらしく、沢山の方が並んで居られました。さすが春団治さん!

桂 吉の丞  犬の目
米朝一門の吉朝のお弟子さんとのこと。昨年、米朝さんが骨折された際に駆けつけられたとのことで、その次の日のスポーツ新聞のみだしが「国宝にひび」だそうww
さてお話の方は、非常にこなれた感があり独自のくすぐりも入れられており好感が持てました。

桂 阿か枝 太鼓腹
いつもめふ乃寄席で拝見する阿か枝さんと違い、なにかピシッとした感じ。たぶん・・・春団治さんパワーなのかもしれない。
たしかこのネタも阿か枝さんで拝聴したと記憶しています。もうきっちりと笑わせていただきました。

桂 小春団治 旅する小説家
繁盛亭が出来てから、毎年10名近くが入門されるらしい。これを「繁盛亭チルドレン」と言うとかww開場はマクラからすっぱり小春団治さんのペースになっていました。
さて今回の創作落語は、サイトによりますと10年に独演会でかけられたネタだそう。色々と海外公演をされたその思い出の地名を盛り込まれているとのこと。
小説家の「俊徳道今里先生」と編集者「立花くん」が繰り広げる爆笑話。


中入りでは抽選会が行われました。
司会は阿か枝さんと吉の丞さん。自ら「大爆笑抽選会」とハードルをあげた阿か枝さん。
見事に<ジュンク堂のレジ>で開場を沸かされました。
で、私は初日に続き、今日は小春団治さんのタオルハンカチをいただきました。新年早々にこの強運!自分でも怖いくらいです(^_^;)


春野恵子 高田馬場 中山安兵衛
有名な仇討ちもの。
浪曲は2回目で前回も春野恵子さん。
最近興味をもっている講談とはまた違って、すっごい魅力がある芸です。
主人公のその感情が歌や台詞に込められており大熱演!とくに扇を書状に見立てたあの長台詞!ホントに驚きました。


桂 春団治  寄り合い酒
たしかに名人芸って存在するんですよねー。それが証拠にいつもは、こんなところでは笑いはおきないって箇所で笑いが洩れるのですから。
口調は決して明瞭ではありませんがそれでも今日の開場にいた200人全員の脳内には、「持ち寄り散在で一杯飲む事を考えている若者」が見事に再生されていたことと思います。
間違いなく、その所作やコトバとコトバの間、そして視線が落語の世界を広げているのだと感じました。

2011/01/02

2010 1/2 安居神社にて

昨年、自動車のお祓いでお世話になりました安居神社の宮司さんのところへ新年のご挨拶にお伺いいたしました。
おかげさまで真田幸村繋がりで色んな方と知り合うことができてとても充実した1年となりました、もちろんこの安居神社さんも、幸村さんの銅像除幕式参列や建立の寄進をさせていただいたおかげで大変ありがたく思っています。

で、宮司さんといお話をしていた途中に、ひょっと後ろをみるとソコにはなんと!!

OSKのTOPの桜花昇ぼるさんがお一人で新年の挨拶に見えられていました!

桜花昇ぼるさんのお姿は、九度山の真田祭りや幸村桜植樹祭、大河ドラマにする会の発会式などで何度もお眼にかかっていますがOFFの時の姿は初めてです!

もちろん、お写真を撮らせていただきました(*^.^*)エヘッ

※このお写真は非公開です^^m(__)m

2011/01/01

2011 1/1 上方落語『一心寺亭』

毎年恒例の上方落語『一心寺亭』。今年も楽しませていただきました。
さて、開演が13時ということで、12時に一心寺シアターの前で待機していますと、パタパタと駆けてくる青年、福丸さんでした^^ ということで今年初の噺家さんは桂福丸さんで始まりました

二番太鼓が始まりいよいよ開演・・。ちょっち笛が奏者さんがおられなかったのか物足りなく感じました。

桂福丸 金明竹

軽く世相から入って海老蔵ネタ。そして金名竹へ。
落語会にマメに行くと年に3回くらいは聞かせてくださる金明竹。なんといっても聞かせどころはコレ!
「わて、中橋の加賀屋佐吉方から参じました。先だって、仲買の弥市の取次ぎました道具七品のうち、祐乗、光乗、宗乗三作の三所もの。並びに備前長船の則光、四分一ごしらえ横谷宗岷小柄付きの脇差し、柄前はな、だんなはんが古鉄刀木といやはっとりましたが、やっぱりありゃ埋れ木じゃそうにな、木が違うておりまっさかいなあ、念のため、ちょっとお断り申します。次は、のんこの茶碗、黄檗山金明竹、ずんどうの花いけ、古池や蛙飛び込む水の音と申します。あれは、風羅坊正筆の掛け物で、沢庵、木庵、隠元禅師はりまぜの小屏風、あの屏風はなあ、もし、わての旦那の檀那寺が、兵庫におましてな、この兵庫の坊主の好みまする屏風じゃによって、かようお伝え願います」

手振りにくわえ表情の変化が豊富な福丸さん。楽しませていただきました。


桂小春團治 祇園舞妓自動車教習所

あれ?今日の演者さんからするとてっきり中トリじゃないのかな?この後の団朝さんのお話によりますと、次の営業があるので出番を変わられたらしいです。
実は小春團治さんのTwiiterによると、帝国ホテルの落語会に行かれたようすです。

さて、お話のほうは、大阪のひったくりの話から、ニコニコパーキング、ワールトモータープールの車つながりで桂小春團治さんの創作ワールド「祇園舞妓自動車教習所」です。
まぁ本来は、教習所の教官が祇園の舞妓さんだなんて、絶対にありえへん設定だけど、その世界感を脳内で感じさせてくださる巧みさにどっぷりと浸りました。


桂団朝 子は鎹

いっつも際々にお話で会場を沸かしてくださいます。
今日は政治ネタでドッカンドッカン笑わせて海老蔵ネタ~愛乃助さんの驚くお話等で会場は釘付けです。
さて、「子は鎹」。胸を熱くさせるこのお話の中にも、クスリとするシーンをきっちりと見せてくださり楽しませてくださいました。

※東京から移植された噺らしい。東京では「子別れ」といわれており三部作だそう。「こわめしの女郎買い」「子別れ」「子は鎹」で構成されていたらしい。 参考)上方落語の歴史 前田勇著


さて、中入りでは抽選会が行われました。
司会は団朝さんと福丸さん。
で、なんと私は小春団治さんオリジナルメモ帳を、そして母はタオルハンカチをいただきました。


露の都 堪忍袋

実はお目にかかるのは初めての「露の都」さん。すっごいざっくばらんな感じでマクラでは落語というよりも、どこかの商店街の角で偶然会った知り合いの方と世間話をしているような、そんな印象でした。それでも満月乙女会にか興味深々です^^
どうしても女性が上方落語を話すとその世界に入ることが出来なかったのですが、そんな違和感を感じることもありませんでした。おそらく、声色や口調、所作に工夫をされているのにくわえて、元々この話の登場人物は女性二人と男性が一人、そして子供が一人ということだからかもしれません。


笑福亭松喬 壷算

あらら?さっきまで飲んで居られた?って感じの松喬さん。
一門の新年会は毎年2日に行われるそうでその席では笑福亭だけが、全員に白扇を進呈されるそう。1年かけて使い込んだ扇子を新しい扇子に変え、1年間、落語に精進されるのでしょう。
壷算って色んな方がされていますが、やっぱ大御所がされるとすごく面白いお話ですねー。
所謂、ボケとつっこみ的な会話かに瀬戸物屋の番頭が加わり3円+3円の世界に突入していきますので、あらゆる世代にわかってもらえる名作のお話だと、あらためて感心いたしました。


さて、帰ろうかとエレベータに向かうと、青年がパタパタと小走りで私の横を通り過ぎようとされていました。みると生寿さん!新年の挨拶をさせていただきました。外にでると、ちょうど生寿さんが松喬さんの運転手役ということでちょうどおっきな車に乗り込まれて出発されるところ。きっちりお見送りさせていただきました。

2010/12/30

2010 12/31 年末を迎えるにあたり。


この27日にかねてより療養中の義父が他界いたしました。
急遽、大阪より夜行バス、ローカル線、タクシーを乗り継いで斎苑へ向かいました。
その会場からは瀬戸内海の島々が一望できる風光明媚な山頂にあり、故人が大好きだった釣りを楽しんだ場所でもあります。


式場から海を眺めると雲の切れ間から光の筋が幾重にも現れ、まるで天空への道が現れたようにさえも見えました。



義父が暮らした町は1800世帯でわずか人口は3600人前後の小さな漁村です。
そんな小さな町でも古くから瀬戸内海の交通の要所として栄えた貿易の中継地であり、またNHKの朝ドラ「鳩子の海」の舞台となりました。









さて、どなたの逸話であったのか忘れてしまいましたが、たしか豪商が有名な僧侶に新年相応しい言葉を書にしていただいたそう。

その僧侶が書いた言葉は・・

「祖父母逝き 父母逝き我逝き 子供逝く」

一見、新年には相応しくない言葉ですが、この世に生まれた限り死へのカウントダウンが始まっています。そしてその順番通りに逝くことが最大の幸せだとの事。
そんなこの世は四苦八苦して生きて行くもの・・すなわち生老病死(しょうろうびょうし)に愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五蘊盛苦(ごうんじょうく)の四苦を加えたものだそうです。

どうせ世の中を四苦八苦しながら生きて行くのならば、少しでも気持ちよく生きて行きたい。
その為にはまず自分の気持ちを変えねばダメなのでしょう。

私には地位も財産も無いけれどそれでも少しでも快適に生きていく為に来年は<無財の七施>を忘れずに過ごして行きたいとおもいます。

眼施~いつも優しく温かい眼差しを忘れないようにする。
和顔悦色施~への字口の人には幸せは訪れません。微笑みを絶やさないようにする。
言辞施~心のこもった言葉を使う
身施~どんな小さな事でも構わないから社会奉仕や人助けをする。
心施~感謝する心を忘れないようにする。
床座施~他人に場所や席を出来るだけ譲る。
房舎施~来てくださった方の労を労い感謝する。

すべて当たり前のことなんだけれど、なかなか出来ない。
来年の今頃には少しでも前進できている事を亡き義父とお約束したいと思います。

読者の皆様。どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。

2010/12/23

2010 12/23 林家染二2010ファイナル 林家未来巨匠烈伝 

大阪市西成区の塚西駅の前にある壽光寺さんの新会館「じゅげむ」にて開催されました。
この壽光寺浄土真宗本願寺派のお寺さんでした。
初めて訪れる会場なので早めに到着、地元の寄席でだいぶ開催されているとのこと。またこの会場の新会館「じゅげむ」は本年秋に落成されたとのこと。

本来、お寺さんは人寄り場所であるべきという開けたお寺さんを目指されているのかすごく開放的な雰囲気がして好感がもてました。
受付をすませ、プログラムを拝見。さすがマニアックでなかなか聞く事ができないネタがありその嬉しさを胸に最前列に座られていただけました。またお客様は75人程度で超満員のぎゅうぎゅうでしたが、会場の熱気も手伝って非常に盛り上がった会となりました。

林家染二 :色事根問

落語のネタには前座さんがされるネタや、前座でしか出来ない噺家さんが居られるとおもうのですがいきなりTOPは林家染二さん。そしてネタは色事根問。そんな違和感を感じながらのスタートですがそれでも師匠さんが話される色事根問はまったく違いました。話しの内容はおんなじなんですが笑うポイントが違っていて・・と書くよりも本来の面白い箇所できっちりと笑うことができました。そんな鉄板ネタのような色事根問でした。染二さん自ら、「20年前の色事根問の映像を見てきたが、酷いものだった」といわれていました。
20年前というと入門されて6~7年目。やはり修行したらそれだけ結果が付いてくるものと妙に納得しました。

林家染吉:黄金の大黒
染吉さんの高座はたしか3回目かな?初めて聞いたのも「黄金の大黒」。
前回同様に汗をいっぱいかかれての熱演で、しかもこなれてきた感じがあって楽しめました^^

林家染左:堀川
染左さんが演じる酔っ払い息子と、喧嘩っ早い息子、その母親がリアルでその世界を描くことが出来ました。とくに年老いた母親は秀逸!
肩を落として表情を作られたのはお見事です。

林家卯三郎:三十石
「まってました!」の声がかかるくらいの固定ファンが居られる様子。
先日まで体長が悪かったという情報があったので心配していました。
乗船名簿のシーンで大道九間町~の件が無かったけど、お手本のようなキッチリとポイントを抑えた三十石でした。

林家染二:土橋万歳
卯三郎の三十石で笑いのシーンの中で船宿の2階で乗船名簿を作成するために番頭が聞いてまわるシーンがありますが、この中で弘法大師と円光大師は出てきてお経を唱えるシーンがあります。この箇所を「この真宗のお寺でよう言ったなぁ!」と会場は大爆笑!

また、三十石、堀川は林家のお家芸とのこと。
堀川は「猿回し」とも言われ二代目林家菊丸さんの作。また三十石は、「浮かれの舟歌」「夢の通い路」ともいわれ初代桂文枝さんが明治3年頃に「京名所」の後編として創作されたのがきっかけとのこと。それでも元のオチで聞くことはもう皆無。いずれも名作だとおもう。
※参考文献:上方落語の歴史(前田勇著)

さて、この土橋万歳は、米朝さんの古い音源があるだけでナマでは初めてでした。
メインの若旦那と番頭の会話でクライマックスに進み、最高潮でホロリとさせるとても良いお話です。
元のお話が古いのか、大和万歳でピンとこないとスッと落ちないのでしょう。もちろんわたしも実物の万歳は見たことがありませんが、同席の母は子供の頃に実際に見られたそうです。

次回、またタイミングがあえばぜひ寄せていただきたいそんな落語会でした。
本当にありがとうございました。