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2011/01/15

2011 1/15 教科書に書かれない幕末史  会津藩と戊辰戦争

2011 1/15 教科書に書かれない幕末史  会津藩と戊辰戦争


司馬遼太郎の小説 「王城の護衛者」は、読んだことがありませんが、その書き出し部分は「松平家は仮初の恋からはじまっている」との事。お江の夫である秀忠は恐妻家とも言われているが、なかなかお江との間に男の子が生まれなかったばかりに
ついに侍女との間に子どもをもうけてしまう。この子どもは信州高遠藩保科家に預け養育。その子は正之と名付けられてすくすくと成長した。そしてついには会津24万石を受け継ぐこととなり、初代藩主となり松平の姓を名乗ることとなった。

寛文8年(1668)4月11日、保科正之は、「家訓15カ条」を定め、これを会津藩の「藩」の方針としたそう。
この家訓が戊辰戦争を激化させた原因の一つとも言われている。

大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。
我々は忠勤に励み、他国がどうであれ我々は貫く。万が一、裏切るものが出たものは我々の仲間では無い!という強い語気を感じるものでした。

会津藩は日新館という7000坪もある藩校を建造、しかも日本で最初のプールをつけたというから驚き。この藩校では長沼流の軍学を教え、質実剛健を常としていたそうです。当時会津半は三浦半島の警備を担当していた事から早くから海防に関して敏感であったのでしょう。

さて時代は過ぎて幕末。
孝明天皇に政治への関与が原因で動乱期へと突入。まさに暗殺行為が横行し京都の治安が悪化。
そこで幕府は京都守護職を設け、京都の治安管理を任せることにした。
その話しを聞いた孝明天皇。お気に入りは最近起った寺田屋事変のNO1である島津久光さんをその職に就けたかったが幕府は松平容保に決定した。
その理由はいとも簡単。、桜田門外の変を例として無茶をする水戸藩の沙汰を協議していた溜まり場詰め役人はみんなが事なかれ主義。ところが1人容保公のみが大演説し存続を説いたその目立った行為がキーポイントであったそう。
もちろん家来はみな、火中の栗を拾うこともないだろうというのに家訓を例として引き受けてしまった。

文久2年12月24日、およそ1000人を引き連れて京都入りした松平容保ら。
雅な京都人は、どうせ田舎の侍達が・・と思っていたら大間違い!それはなんともきらびやかな行列だったそう。

金戒光明寺を本陣として活躍。
着任し早々の文久3年1月2日に孝明天皇へご挨拶に行き、なんと大和錦の緋色の布を拝領。7月の30日、8月5日の2回に渡る会津藩の軍事演習の際には孝明天皇の前で、前回拝領した布で陣羽織を作り着ていたそう。

そして8月18日。政変により長州が失脚。そのときはなんと孝明天皇から御宸翰(ごしんかん 天皇直筆の手紙)を頂く。その内容はこの政変を正当化する内容で、しかも歌が一首そえられていた。

こんなに孝明天皇に信頼、信用されていたのに朝敵となるなんて、実に不思議。。

そのきっかけはなんといっても孝明天皇の崩御。これにより長州が復権を果たす。

大政奉還、王政復古の後、江戸へ逃げ帰った慶喜さんを追うように
明治元年1/17に仙台藩に対し会津征討令が出た。
1/25には米沢、盛岡、秋田、各藩にも追討を命じた。
2/9には沢 為量(サワタメカズ)を鎮撫総督に、醍醐忠敬(ダイゴタダユキ)が副鎮撫総督となったが
2/26にはもう人事異動。九条道孝が鎮撫総督。そして沢 為量(サワタメカズ)は副鎮撫総督となった。
このときに参謀として、長州藩の大山格之助、世良修蔵が任命された。

3/2には京都を出発。
3/18には仙台湾に到着。
3/23には二本松、福島、中各藩にも追討するように命令がでた。
しかも朝廷より4/7までに進撃するように命令がでてしまう。
東北諸藩はどうしても情報に疎く不利になってしまう。それは参勤交代しても京都へ行くことはなく情勢を把握するのが遅れてしまう。また薩摩、長州に対する不信感、、そしてやはり言葉の壁が関連しているかもしれない。
どうしても西の言葉はきつく感じてしまうよう。特に薩摩の「オイ!」「コラ!」や警察を表す「マッポ」、体罰の「ビンタ」は怖い言葉です。
執拗に追い詰める鎮撫総督のターゲットには会津だけではなく庄内藩も入っている。庄内藩は江戸の薩摩藩邸を焼き討ちした為だそう。
そこで狙われている会津と庄内藩は密かに会庄同盟を締結。
米沢藩にも話しをした。米沢藩は保科正之に恩があるのでこれを断れない。
米沢藩 木滑要人(キナメリタケト)と会見を行い会津の謝罪を条件として協議を重ねた。
その結果、容保公の藩外での謹慎・領地の削減、鳥羽伏見の責任者を死刑の3つを条件とした。
閏4/2ようやくOKをした会津。それでも心配の種は鎮撫軍を操ってる薩長であることを見抜いている。
閏4/4には仙台、米沢の合図進撃中止を申し入れる。
閏4/11には白石城に東北各藩が集結し会津救済の嘆願書を作成。
実は彰義隊攻撃の際に、輪王寺宮公現法親王が仙台へ逃げてきているのでこれを中心として、北部政府を樹立することまで考えていたらしい。
閏4/12には伊達慶邦は九条道孝と謁見し嘆願書を渡す。
九条はこれを受け取る。。ということはOK?という雰囲気さえあったが
閏4/17には総督府は嘆願書を却下。
そして仙台、米沢に対し、再度会津征伐を命令、このときにすでに容保は罪人とまで言われている。
何故却下したのか・・・。
九条道孝・醍醐忠敬は充分受け入れる気持ちがあったが長州藩の大山格之助、世良修蔵が大反対している事をしってしまう。
世良から大山宛の密書の中に書かれていた言葉・・それは〔奥羽皆敵〕
閏4/19 福島にある金沢屋で世良を捕縛。
閏4/20 世良の首を切ってしまった。。。。もう後戻りはできない。
ついに総督府に喧嘩を売ってしまった奥羽。。
そしてようやく5/3に奥羽列藩同盟(26藩)が、そして奥羽越列藩同盟(31藩)が誕生した。