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2013/10/27

2013 10/27 旧萱野家~大石順教尼の記念館 又旅会発会式 大石順教尼講談お披露目式

2013 10/27 旧萱野家~大石順教尼の記念館 又旅会発会式 大石順教尼講談お披露目式
 
 
いまからちょうど3年前に初めて大石順教尼様のお名前を知りました。
そして館長さんのご厚意と、様々なご縁のおかげをもちまして2012/4月開催の【祖母さまのお手々はだるまのお手々】の発刊式、そして今回の講談のお披露目式に参加となりました。
 
大阪より演者の旭堂南衛左門様と脚本を執筆されました狐狸窟彦兵衛さんとともに
九度山町の旧萱野家へ向かいました。今日は台風一過の大阪マラソンの日でもあることから相当経路を吟味したおかげで無事予定の小一時間前に到着し離座敷にて色んなお話を賜りました。
 
様々な試練を超えた大石順教尼様の生涯はあまりに膨大過ぎて1本の講談に収まりきれるはずもなく今回はその発端の部分として創作講談「大石順教尼物語 ~カナリヤの教えに導かれ~」が
無事ご披露されました。その後、萱野館長様・旭堂南衛左門様・狐狸窟彦兵衛様とのトークショーを終え無事に散会となりました。
 
その壮絶な人生の転機を乗り越えることができた暁には自分の強みとする事が出来るものなのでしょうか。
突然に背負った障害を強みに変えることができるその勇気を他の方々へも分け与え、
また心の拠り所となるように生きてこられた順教尼様のその素晴らしさを再認識いたしました。
色んな悩みをもってこの萱野家にお越しになられる方が、元気になって帰って行かれると
九度山の岡本町長さんのお話も本当に実感!
どうぞすこしでも沢山の方にその存在を知っていただきたいと思っています。
 
今はただ、その素晴らしい出会いに感謝です。
 
 
御可笑拵処「東雲堂」 狐狸窟彦兵衛 
 
 
旧萱野家(大石順教尼の記念館)
 
 
環翠軒にて in九度山 大石順教尼記念館

2013/10/19

2013 10/19 歴史と人間 久坂玄瑞

私たちが知っている幕末の歴史の糸口の大半は、司馬遼太郎の小説やNHK大河ドラマであることは否めません。
戦前は講談士であり政治家であった伊藤痴遊の功績が大きい。
全国にFunがいてファンクラブに相当する痴遊会が存在。
全国ツアーを実施していた。

井上馨は明治になりいろんな事件があったために公爵になることができなかった、
しかしそれでもその功績を讃えてもらいたいために、静岡県沖津の自宅で明治40年に快気祝いの際に台座を含めると10mくらいの銅像を自分で建立し、その席で伊藤に袖付橋の御難を演じさせたらしい。
さて、今日のテーマは久坂玄瑞。
天保11年生まれ(1840~1864)25石の医者の家に生まれる。
三男坊だが次男は早くして亡くなったために次男として育てられた。長男は久坂玄機といい二十歳年上。北浜にある適塾の塾頭の秀才。
嘉永三年の14歳の時に母が亡くなる。
そして安政元年の15歳の時に玄機と父が亡くなる、そして玄瑞は天涯孤独となってしまう。
その後、藩の寮生活の後、三回忌を済ませた安政3年に九州の遊学へ出発。
途中で宮部鼎蔵を訪ねる。宮部はご存じ松蔭先生が東北視察を行った際のパートナー。
宮部は松蔭に会うことを勧めた。ちょうどその頃は松蔭先生は自宅謹慎中。
そんな時に久坂より鼻息の荒い手紙が松蔭先生に届く。
幕府の行った条約締結は間違っている!そんな使者は斬り殺してしまったらよい!とのこと。
その意見に対して松蔭先生は『議論浮法思慮粗浅』と非常に厳しい内容。

今の言葉に直すと、考えは上っ面で考えが浅すぎ。人にはそれぞれの立場がある、まずその立場から考えること。また実践の伴わない言葉は評価しないし、浮ついた考えの人物は嫌いだ!とのこと。
玄瑞は、論ずるに立場は関係ない!と反論。

松蔭先生はさらに
対抗する。和親条約はすでに締結していおるのだから破ってはいけない。北海道を開拓し琉球を植民地としてアジア各国をひとつにまとめて団結させるという説。
※この内容は韓国併合における現代社会にも問題となっており原文と韓国語訳、そして再度日本語に直すとまったくニュアンスが違っている。
玄瑞はさらに反論!そして松蔭先生は『それなら存分にやってみるがよい』と体をかわす。
もちろん久坂にはできるはずがない。
入塾に至った玄瑞は松蔭先生の思った通りで防長年少中第一流と評価しており、高杉と競わせて実力をつけてゆく。

そして安政4年には松蔭先生の末の娘が嫁となり親戚関係となる。
そして安政6年10月27日に松蔭先生は伝馬町で処刑、小塚原に埋められた。
現在の小伝馬町駅十思町公園にあるお堂が相当、南千住駅の小塚原は20万体以上の遺体が埋まっており現在でも遺骨がでてくる。
文久二年1月には龍馬が訪ねてきて10日間びっしりと話し合いその後、龍馬は脱藩!
武市へあてた手紙には『諸侯や公家もあてにしてはだめだ!我々が力をあわせておこなうんだ!』と記載。しかも『尊藩も大義なれば滅んでもかまわない』と書いたあとに『尊藩も(幣藩も)』と書き足している!
長井雅楽の失脚、久光の状況から長州藩の方針を『奉勅攘夷』で一本化。久坂も賛同している。
その後、松蔭先生の改葬に扮装、ついに桜田門外、坂下門や安政の大獄に関わったものを大赦令を出させることに成功、ただし寺田屋事変の9人のみは例外とした。
復権を果たし、世田谷区の若林の藩のと土地に遺骨を移し松蔭神社となる。これにより松蔭先生は神格化!藩のシンボルとなってゆく。
すぐに父、百合之助の復権、松蔭先生の資料を藩へ提出しその後明倫館の教科書となる、また吉田家の断絶を取り消した。
さらに松蔭先生の弟子たちは全員位が上がった!
そんな時に長州藩に事件が起こる。
攘夷の実行で下関で砲撃~七卿落ちへつながってゆく。
元治元年2月 周防上関の義勇隊が、田布施沖に停泊中の薩摩の商船を焼き払い船長の大谷仲之進を殺してしまう事件が起こる。
その月末に大阪南御堂さんの門前に、この大谷の生首と二人の人物の切腹した死体があった。
その二人は山本誠一郎と水井精一。そして斬奸状には『大谷は外国と貿易を行っており綿や油を販売し利潤をあげていた』とかかれている。
その数日後、義勇隊の隊長が上関で切腹を していたという事件があった。
この事件により長州の株が大いに上がった。薩摩に天誅を喰らわしたのだから長州は庶民を助けたヒーロー扱いとなる。
それにより山本、水井と隊長の高橋は上関三士と呼ばれ靖国神社に合祀されている。
さて、この事件には大いなる裏事情があった。
山本誠一郎の著「帰正弁」によると24歳で全国を視察、国防に興味があったが下関で楼閣にはまってしまい事件をおこしたあげくに2年近く禁固、外国船を攻撃した久坂に共鳴下とのこと。
久坂が目を付けて、山本、水井に大谷の首を大阪へ運ぶように依頼、その後、二人を無理矢理切腹させたらしい。 薩摩商船を襲ったら当然長州と薩摩は一触即発。その回避と地に落ちた評判をあげる奇策であったに違いない。

久坂元瑞は恐るべし頭脳明察で策士であったのでしょう。

2013/10/05

2013 10/5 第50回 四天王寺秋季大学



今年も参加!素敵な会場でわずかな費用で幅広いお話を聞くことができました。

第1講目 13:00~14:20
髙橋弘次氏(大本山金戒光明寺御法主)「念佛発祥の寺、金戒光明寺」

なぜ黒だにさんと呼ばれるのか?また法然が最初に浄土宗を布教を行った地であることに因んで、後小松天皇より「浄土真宗最初門」の勅額を賜っている。
また法然さんが入滅の前に、一枚起請文を認めており現存している。
その後小松天皇のご落胤があの一休宗純。
法然上人を生き如来と讃え一枚起請文をもっとも奇なるかなと賞賛されています。
さとりはいらぬものじゃ。
あみだのご誓願のお念仏一遍にて無量無辺の罪さえ滅ぼし候うえは
、さとりたりというきゃつめが胸になにがある。
へんてつもなきあばら骨皮。
九年までさせらんずるこそ無益なれ。まことのときは阿弥陀の一声。
そのあらかたの意味は下記の通り。
さとりはいらない。
阿弥陀のみ旨にそう念仏があればいい。
悟った人の胸にはなにもない。
あるのはへんてつもないあばら骨と皮ではないか。
面壁九年の座禅修行も無益である。
まことの教えはただ南無阿弥陀仏にある。
とてもユニークな僧侶で、そのエピソードは『狂雲集』(柳田聖山著)にかかれている。
有漏路より無漏路へ帰る一休み。
雨ふらば降れ 風ふかば吹け。
十年、鼻の下、芳盟を理む。
一段の風流、無限の情。
惜別す枕頭児女の膝、
夜深こうして雲雨、三世を訳す。
これが辞世の詩といわれている。

第2講目 14:40~16:00
入澤崇氏(龍谷大学教授・龍谷ミュージアム館長)「大谷探検隊とシルクロード」

日本最初の学術調査隊である大谷探検隊。
1902年~1914年に三回にわたり調査に行っているが詳しい資料は残っておらず謎が多い。
その中心人物の大谷光尊(明如上人)は西本願寺派で1850年~1903年。
廃物稀釈の吹き荒れる中、仏教界のリーダー的存在。
西洋の教育制度に着目して調査研究を推進していた。
数回にわたり中国、インド、ビルマへ派遣し学術的な成果を残した。
第3講目 16:20~17:40
肥塚隆氏(大阪大学名誉教授)「仏教遺跡ボロブドゥルの謎」
1991年に世界遺産に指定、8世紀頃にシャイレーンドラ家が造営。
日本では東大寺の建立の頃になる。
120mの正方形に5層の方形テラスと3層の円形テラスを重ねて、頂上にストゥーパを築いている。すべてが回廊となっておりゴーダマシッタルダの様々な物語をなしている。
それぞれのパネルをスライドで拝見させていただき、とても興味深いものでした。

2013/09/29

2013 9/29 第7回イーグル寄席 

はやいもので第7回となりました。
今回より会場は元のパーティールームへ戻り、落ち着いた雰囲気での開催となりました。
この回は中堅以上を担う方々のお三人の会で確実に笑わせてくださるほんとにお買い得な会で、できるだけ毎回参加したい落語&講談会です。
 
 
「兵庫船」月亭 天使
見せ場はなんといっても船の中で繰り広げられる謎かけのシーン。オーソドックスな展開でしたがきっちりとした口調で好感が持てました。


 「太閤の初陣」旭堂 南斗
独特の雰囲気がある南斗さん。
その秀吉がまだ駆け出しであったことの様子が感じられました。
 
 
「悋気の独楽」桂 枝女太
マクラではいろんな会場での落語会でのエピソード、会場を爆笑にしました。
ネタのほうでは特に丁稚定吉の困った様子が印象的で、またお竹どん、ご寮さん、旦那等が繰り広げる江戸商家の様子が感じられました。
 
 
「阿武松緑之助」旭堂 南左衛門
マクラでは秋場所のお話から本題へ。
2回目であるためか、前回よりもストーリーがスッと頭に入ってきました。
 
「崇徳院」笑福亭 仁嬌
 
<瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ>
たっぷりと笑わせてくださいました。サゲは鏡が割れるパターン。

2013/09/21

2013 9/21 歴史と人間 勝海舟

今日の歴史と人間講座は勝海舟さんに関する考察。

いろんな書籍やドラマにも登場しているメジャーな方な印象だけどまだまだ知らなかったことがいっぱい。

勝海舟さんのいろんなお話は「氷川清話」を手掛かりに知ることができるけれど、勘違いや思い違い、また誇張があるのでそのまま信じるのは危険です。
晩年、東京の氷川には、東京朝日の池辺三山、国民新聞の人見一太郎、東京毎日の島田三郎らがしょっちゅう訪れて、海舟の談話を聞き書きし「氷川清話」としたそう。その内容を編集しなおして吉本襄が大正3年に日進堂から刊行した『氷川清話』が有名。

本名は義邦、通称は鱗太郎。文政6年1月30日生まれ。
海舟という号は、佐久間象山の書『海舟書屋』からいただいたものだそう。
http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/edohaku/app/collection/detail?id=0189204082&sr=%8A%43%8F%4D

海舟のさまざまな資料を収集していた方のおかげで現在も見ることができる。両国にある江戸東京博物館へ行ってみたいものです。

さて、海舟さんはご存知下級旗本の家に生まれます。もともと彼の祖父は越後国刈羽郡長島村字平沢出身で現在の新潟県おじや市。米山平蔵(よねやまへいぞうは盲目)であったが17歳で江戸へ出てくるが幕臣の家の前で行き倒れとなる。その幕臣の家を賭場として貸していたことが縁で商売の才覚を得て財産を築き9人の男の子を設ける。この3男が海舟の父の小吉。また末子の平蔵に3万両で男谷家の株を買い継がせたことで士族となる。
小吉は7歳の時に勝家(41石)の養子となりその後婚姻。海舟が誕生している。
(勝家の祖先は物部氏に通じているとのこと)
さて父は小普請組。ほぼ無職!そのためか道場破りや道具屋や刀の目利きをしていたそう。ここでいう目利きとは小塚原の罪人の死体で試し切りをすることだそう。
22歳の時に麟太郎誕生。大奥につながりがあったらしく7歳の時に江戸城見物に行くときに人生の転機がやってきた。
なんと11代将軍家斉に眼を付けられ、孫の遊び相手として初之丞(發之丞、後の一橋慶昌)の遊び相手として西丸御殿へ出仕することになる。
9歳の時に犬に睾丸を噛まれ70日もの間に生死の境をさまよう。父は水垢離をして回復を祈った。(妙見堂=現存)
天保9年16歳の時に小吉(37歳)は隠居!家督を継ぐこととなる。

最近になってようやく海舟の胸像ができたらしい。
H15に墨田区区役所内。そしてもう一か所、これは能勢妙見堂東京別院(安永3年=1774年に創建された、大阪能勢妙見山の唯一の別院)の境内にある勝海舟翁之像。
意外と少なくて人気が無いのでしょうか。

さて、剣術は従兄弟の男谷精一郎の道場と島田虎之助の道場で修行。直心影流の免許皆伝。また弘福寺で4年間の間に禅の修行をおこなっている。また永井青崖に蘭学を習ったがこの洋学はすなわち西洋兵学を指している。
適塾でも有名なズーフハルマ(当時60両)を1年10両で借受て、2年かけて写し取っており1部は売却している。

28歳で父の小吉が亡くなる(脚気49才)。2年後、海舟の妹が佐久間象山と結婚。そして31歳の時にペリーの来航となる。

この時に求められた意見書がきっかけで幕府へ入ってゆく。
この意見書は5条からなり、鎖国か開国かを説く内容ではないことから注目された!

後に洋学所の準備室長となり大阪湾(摂海)防備の視察に来ている。その後長崎海軍伝習所へ行く命を受ける。
ペリーが来てすぐに幕府はオランダに軍艦を1隻発注している。その折にオランダからはもう1隻と教習官付でプレゼントされることとなりその場所を長崎としたため。
この伝習所には薩摩藩、長州藩や佐賀藩等総勢174人もいた。勝は4年を過ごしている。

安政4年春。
江戸にも伝習所を作る話が持ち上がり移動することになりそうだったがオランダの教官も帰国し入れ替わることから勝は長崎にさらに2年残った。
この時に咸臨丸で航海練習。島津斉彬との会談を行っている。

ようやく江戸に帰り海軍の教授となっている。その時、江戸は安政の大獄の風が吹き荒れている。

勝はとても運が強い。
井伊直助の性格からして藩の重役であったならば、安政の大獄の餌食となっていただろうが、勝が長崎へ行くときは小十人組(年100俵)。長崎に2年残ったことがラッキーだった。

その後咸臨丸にて47日かけて品川からサンフランシスコへ行く。
乗員は100名程度。
アメリカの技術には驚かなかったが身分制度の無いことに非常に驚いたらしい。

氷川清話引用

 「ここにおかしな話がある。何も時事を諷するわけではないが、俺が初めてアメリカへ行って帰朝したときに、御老中から『その方は一種の眼光を具えた人物であるから定めて異国へ渡りてから何か眼を付けたことがあろう。詳らかに言上せよ』、とのことであった」 「そこで俺は『人間のすることは古今東西同じものでアメリカとて別に変わったことはありません』と返答した。
 ところが『左様であるまい、何か、変わったことがあるだろう』と言って再三再四問われるから、俺も『左様、少し眼に付きましたのは、アメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、皆その地位相応に怜悧で御座います。この点ばかりは、全く我国と反対のように思いまする』と言ったら御老中が目を丸くして『この無礼者、控え居ろう』と叱ったっけ」

文久2年 軍艦奉行並 1000石

勝の対外政策はおもしろい!
兵庫、対馬、朝鮮、支那の三国連合を作り欧米に対抗するというもの。

文久3年 家茂と摂海の視察
その後に大阪西本願寺で過激攘夷の姉小路公知と会談を行っている。

2013/09/15

2013 9/15 第28回柳谷観音・泰聖寺講談会 ~講談と落語を楽しむ会~

第28回柳谷観音・泰聖寺講談会  ~講談と落語を楽しむ会~

 
台風18号の到来で朝から風雨が強く客足が心配されましたが、なんと会場は超満員!
1年位前まではお客様もまばらだったのに、ありがたいことです。 

開演の5分まえよりご住職さんのお話がありました。
来週よりお彼岸となりますがみなんさんは供養をしていますか?の問いでした。
供養は回向ともい読み替えられますが本来はお接待の事だそう。
あの世から帰ってきてくださったご先祖様をお接待し喜んで帰っていただくという意味と
捉えられますがお接待と捉えることで、互いにお接待をし合うという事もあり得るということで納得です!


「藪井玄意・孝行の妙薬」 旭堂 南斗
十三まいりのお寺として有名な大平寺さんにある北山不動明王 は名医の北山寿安(北山友松子)が建立している。この方が藪井玄意のモデルだそう。
ある家の嫁が姑のいじめに耐えかねて毒殺を企て、名医の藪井玄意先生に相談にいくが。。。

 
「水戸黄門・牛盗人」 旭堂 南舟
貧しい暮らしの百姓家。牛泥坊をした父を、その息子が代官所に通報したという。
その意図は。。


釈芝居「赤穂義士伝・八百屋甚兵衛
何度か楽しませていただいたこの講談のお話を南青さんを中心に南舟さん、南斗さん、そして南左衛門さんが実際に演じるという釈芝居。
講談話なのでセリフがちゃんと割り振られている上に、普段からちゃんと話分けているからこそできる釈芝居なのでしょう。
見どころ、笑どころがいっぱいでした。


「楠木正成の初陣」 旭堂 南青
生まれたときから利発であった多門丸。のちの楠木正成。13才になったときにあまりの利発さから、付け狙われることに。数々の危機を逃れついに初陣をむかえることに。


  「住吉駕籠」 桂 雀松
2013年10月に3代目桂文之助を襲名予定の桂 雀松さんの住吉駕籠。
やっぱ楽しいですねー。ストーリーもそのあらかたのセリフまでわかっているのに
心の底から笑ってしまう!演者さんによってこうも違うのですね。

 
「阿武松緑之助」 旭堂 南左衛門
【おおのまつみどりのすけ】は実在の人物であったらしく石川県能登の出身。
武隈部屋を追い出され、自害を決意し宿屋に飛び込んだがその亭主とのご縁で
別の部屋で出直すことに。
そのユニークなエピソードとラストを飾る取組の一番は。。

2013/09/11

2013 9/11  松陰先生の言葉

己れを以て人を責むることなく、
一を以て百を廃することなく、
長を取りて短捨て、
心を察して跡を略らば、
則ち天下いづくにか往くとして隣なからん。
 
 
 
 
とっても心に沁みる松陰先生の言葉です。
 
つい他人を自分の尺度で判断してしまって、その人のことを批判し決めつけてしまったり、
つまらないレッテルを貼ったり、色眼鏡で見てしまったり。
 
誰にでも長所や短所があるのは当然、
相手の気持ちになって物事をすすめてゆきたいものですね。
 
そうすることで知らず知らずのうちに自分は成長するのでしょうね。
 
怒りは身を滅ぼすものです。



人の巧を取って我が拙を捨て、人の長を取って我が短を補う

といったのは桂小五郎さんです。

2013/09/01

2013 9/1 彦八まつり・わつか市

この1か月間のドタバタ騒ぎと溶連菌疑惑で不参加。
しかも大阪は鉄砲雨で今日は体力温存(m´・ω・`)m ゴメン…